科学的年代測定と建築史研究(3)
3.ブータン仏教僧院本堂の成立時期を探る
(1)チベット・ブータンの国家と仏教
チベット・ブータン地域に最初の統一王朝「吐蕃」を建国したソンツェンガンポ(Srong btsan sgam po、中国名「松贊干布」581- 649頃)はネパールから妃を迎えて仏教に帰依した。それ以前のヒマラヤ山麓地域では自然崇拝に基礎をおくボン教(笨教)がひろく信仰されていたが、仏教はこれを邪教視し、とりわけボン教の女神を「魔女」とみなした。そして、大地を支配する魔女を浄化し地下に封じ込めるため、チベット・ネパール・ブータンに12の仏教僧院を築いたと伝承される。それを絵画として表現するのが、17世紀以降の作と推定される「魔女の磔(はりつけ)」図である。この図では、魔女の胴体がチベット、右足がネパール、左足がブータンにあたり、ブータンではブンタンBumthangのジャンバラカン(Jambay-lhakhang)寺とパロParoのキチュラカン(kichu-lhakhang)寺がソンツェンガンポ創建の僧院として描かれる。
こうしてチベット・ブータンの地に仏教は萌芽するが、次第に衰退の兆しをみせはじめ、ティソン・デツェン(Khri srong lde brtsan 742-797)王が仏教再興の肝入としてパドマサンバヴァを北インドから招聘した。パドマサンバヴァはボン教系の「魔女」や「悪霊」を調伏し仏教側の護法尊として取り込みながら、インドの後期密教を巧みに変容させてチベット仏教の基礎を築いた。同時に、ブータンを2度訪問し、タクツァン(Taktsang)僧院などで悪霊調伏のための瞑想をした。ブータンでは、パドマサンバヴァをブータン仏教の開祖とみなし、今もグルリンポチェ(Guru Rinpoche)という尊称で篤く崇拝している。パドマサンバヴァがおこした最初期の宗派をニンマ派(古派=紅教)という。11世紀以降、チベット仏教は諸派林立の時代となり、チベットでは14世紀にツォンカパ(宗喀巴)のおこしたゲルク派(格鲁派=黄教)が興隆して主導権を握り、ブータンでは17世紀にドゥク(druk)派が勢力を拡大し、ブータンという国家を誕生させる。
2012年以来、毎年ブータンを訪問し、すでに8回の調査を終えている[浅川2019]。初期の研究主題は「崖寺と瞑想洞穴(修行洞)」であった[吉田・浅川2016]が、最近はボン教系神霊の調伏による仏教「護法尊」への取り込み(仏教とボン教の習合関係)などに焦点を絞りつつある。ボン教の理解なくしてチベット・ブータン仏教の理解はなしえないからである。一方、日本で取り組んできた科学的年代測定を海外でも実施すべく多少のサンプルを採取し成果を得始めている。科学的年代測定の目的は、ブータン仏教僧院における本堂成立時期を確定することである。一部のインフォーマント(情報提供者)が、ブータンにおいて仏教僧院の本堂は17世紀前半以降の国家形成期から一気に増加すると繰り返し発言していたことによる。たしかに、ブータン仏教発祥の地とされるタクツァン僧院(海抜3,050m)でも、今に残る巨大な本堂の建立は1692年まで下る(1990年代にほぼ全焼し再建)。こうした山上崖寺の初期構成について想いをめぐらすに、高山の岩陰洞穴における瞑想があくまで密教修行の根幹をなし、その場所はおそらく僧坊と修行洞に小さなストゥーパを加えた程度のものであって、仏像を安置する本堂は存在しなかったところが多いであろう、とイメージされる。このイメージは正しいのか否か。要するに、本堂はいつの時代から仏教僧院に登場したのか、科学的年代の成果から考えてみたい。
(2)平屋型本堂内陣柱の年代測定
一般にブータンの仏教僧院では、本堂内部の写真撮影が禁止され、器材を使う実測などの調査も歓迎されない。しかし、一定額の寄進をくり返したり、寺院側が薦める高額の書籍・図録などを購入すると、内部の調査が許可される場合がある。以下、内陣柱の年輪サンプル採取を許可された数少ない例を報告する。
ジャンバラカン: ソンツェンガンポ造営の12寺は、パドマサンバヴァの密教伝道以前に遡ると言われているが、12寺の開山自体が伝承にすぎないという見方ももちろんある。少なくともブータンの2寺についてはいつの時代の創建なのか詳らかでない。ただ、キチュラカン(パロ)、ジャンバラカン(ブンタン)の両寺とも山上の崖寺ではなく、河川流域の平野部に立地しており、また、大半の仏教僧院が本堂を楼閣形式とするのに対して、両寺とも本堂は平屋である。こうした共通性が古代の伝統を反映するのか否か。
筆者らは2015年の第4次調査でジャンバラカンを訪れた。8世紀以前と伝承されるのは本堂の内陣のみであり、外陣は後世の増築もしくは大改修だと僧侶は言う。本堂の内陣は内部に二本柱を対称配置する構成であり、年輪サンプルを採取したのは二本のうちの北側の柱である。柱は上から布で覆われて赤い塗装がなされているが、床面から10cmほどの高さまでは木肌が露出していた。そして、床から8mmの位置で、南面の南西隅から年輪を数え、6年輪のみを確認した。その位置で、一番外側から3年輪分を採取した。樹種と部位(心材/辺材)は不明である。帰国後、このサンプルでAMS法放射性炭素年代測定を実施した。最外層年輪年代の測定結果は以下のとおりである[浅川・大石・武田・吉田2017]。
1526-1555 cal AD (信頼限界16.3%) 1632-1666 cal AD (信頼限界74.4%)
1784-1795 cal AD (信頼限界4.7%)
この内陣柱は16世紀以降の伐採であり、信頼限界からみて、17世紀以降の伐採の可能性がより高いと考えられる。つまり国家形成期以降の柱材ということでになる。この結果には二つの解釈が可能である。一つは古代に遡る本堂が17世紀以降に「再建」もしくは「修復による部材差し替え」された可能性である。いま一つは、本堂がこの時期に新設された可能性である。後者の場合、「国家形成期(17世紀)以前に本堂はなかった(あるいは少なかった)」ことを裏付ける資料だということになるけれども、かくも少ない資料ではこれ以上の憶測は無駄であろう。
ツァルイゴンパ 首都ティンプー市にあるツァルイゴンパ(Tshalui Goempa)の本堂は14世紀建立の寺伝がある。2016年の5次調査(2016)で2回訪問し調査した[浅川・大石2018]。一般にブータンの僧院本堂は揚床板敷とし、その上に柱を立てるが、ツァルイゴンパの本堂は内陣の地盤が外陣より高い位置にあって、柱が土間から直に立ち上がっており、内陣柱自体も非常に古くみえた。現状は2階建の楼閣式だが、当初は平屋の可能性もあると考え、内陣2本柱のうちの1本の年輪サンプルを採取させていただいた。外側から20年輪を確認し、うち最外層2年輪を採取した。樹種・部位(心材/辺材)は不明である。以下に測定結果を示す。
1494-1602 cal AD(信頼限界74.2%) 1616-1645 cal AD(信頼限界21.2%)
この結果をみると、伐採年代は17世紀以降もありうるが、15世紀末~16世紀の可能性がより高い。寺伝にいう14世紀の造営までは遡らないけれども、国家形成期以前の部材である可能性を示唆している。
(1)チベット・ブータンの国家と仏教
チベット・ブータン地域に最初の統一王朝「吐蕃」を建国したソンツェンガンポ(Srong btsan sgam po、中国名「松贊干布」581- 649頃)はネパールから妃を迎えて仏教に帰依した。それ以前のヒマラヤ山麓地域では自然崇拝に基礎をおくボン教(笨教)がひろく信仰されていたが、仏教はこれを邪教視し、とりわけボン教の女神を「魔女」とみなした。そして、大地を支配する魔女を浄化し地下に封じ込めるため、チベット・ネパール・ブータンに12の仏教僧院を築いたと伝承される。それを絵画として表現するのが、17世紀以降の作と推定される「魔女の磔(はりつけ)」図である。この図では、魔女の胴体がチベット、右足がネパール、左足がブータンにあたり、ブータンではブンタンBumthangのジャンバラカン(Jambay-lhakhang)寺とパロParoのキチュラカン(kichu-lhakhang)寺がソンツェンガンポ創建の僧院として描かれる。
こうしてチベット・ブータンの地に仏教は萌芽するが、次第に衰退の兆しをみせはじめ、ティソン・デツェン(Khri srong lde brtsan 742-797)王が仏教再興の肝入としてパドマサンバヴァを北インドから招聘した。パドマサンバヴァはボン教系の「魔女」や「悪霊」を調伏し仏教側の護法尊として取り込みながら、インドの後期密教を巧みに変容させてチベット仏教の基礎を築いた。同時に、ブータンを2度訪問し、タクツァン(Taktsang)僧院などで悪霊調伏のための瞑想をした。ブータンでは、パドマサンバヴァをブータン仏教の開祖とみなし、今もグルリンポチェ(Guru Rinpoche)という尊称で篤く崇拝している。パドマサンバヴァがおこした最初期の宗派をニンマ派(古派=紅教)という。11世紀以降、チベット仏教は諸派林立の時代となり、チベットでは14世紀にツォンカパ(宗喀巴)のおこしたゲルク派(格鲁派=黄教)が興隆して主導権を握り、ブータンでは17世紀にドゥク(druk)派が勢力を拡大し、ブータンという国家を誕生させる。
2012年以来、毎年ブータンを訪問し、すでに8回の調査を終えている[浅川2019]。初期の研究主題は「崖寺と瞑想洞穴(修行洞)」であった[吉田・浅川2016]が、最近はボン教系神霊の調伏による仏教「護法尊」への取り込み(仏教とボン教の習合関係)などに焦点を絞りつつある。ボン教の理解なくしてチベット・ブータン仏教の理解はなしえないからである。一方、日本で取り組んできた科学的年代測定を海外でも実施すべく多少のサンプルを採取し成果を得始めている。科学的年代測定の目的は、ブータン仏教僧院における本堂成立時期を確定することである。一部のインフォーマント(情報提供者)が、ブータンにおいて仏教僧院の本堂は17世紀前半以降の国家形成期から一気に増加すると繰り返し発言していたことによる。たしかに、ブータン仏教発祥の地とされるタクツァン僧院(海抜3,050m)でも、今に残る巨大な本堂の建立は1692年まで下る(1990年代にほぼ全焼し再建)。こうした山上崖寺の初期構成について想いをめぐらすに、高山の岩陰洞穴における瞑想があくまで密教修行の根幹をなし、その場所はおそらく僧坊と修行洞に小さなストゥーパを加えた程度のものであって、仏像を安置する本堂は存在しなかったところが多いであろう、とイメージされる。このイメージは正しいのか否か。要するに、本堂はいつの時代から仏教僧院に登場したのか、科学的年代の成果から考えてみたい。
(2)平屋型本堂内陣柱の年代測定
一般にブータンの仏教僧院では、本堂内部の写真撮影が禁止され、器材を使う実測などの調査も歓迎されない。しかし、一定額の寄進をくり返したり、寺院側が薦める高額の書籍・図録などを購入すると、内部の調査が許可される場合がある。以下、内陣柱の年輪サンプル採取を許可された数少ない例を報告する。
ジャンバラカン: ソンツェンガンポ造営の12寺は、パドマサンバヴァの密教伝道以前に遡ると言われているが、12寺の開山自体が伝承にすぎないという見方ももちろんある。少なくともブータンの2寺についてはいつの時代の創建なのか詳らかでない。ただ、キチュラカン(パロ)、ジャンバラカン(ブンタン)の両寺とも山上の崖寺ではなく、河川流域の平野部に立地しており、また、大半の仏教僧院が本堂を楼閣形式とするのに対して、両寺とも本堂は平屋である。こうした共通性が古代の伝統を反映するのか否か。
筆者らは2015年の第4次調査でジャンバラカンを訪れた。8世紀以前と伝承されるのは本堂の内陣のみであり、外陣は後世の増築もしくは大改修だと僧侶は言う。本堂の内陣は内部に二本柱を対称配置する構成であり、年輪サンプルを採取したのは二本のうちの北側の柱である。柱は上から布で覆われて赤い塗装がなされているが、床面から10cmほどの高さまでは木肌が露出していた。そして、床から8mmの位置で、南面の南西隅から年輪を数え、6年輪のみを確認した。その位置で、一番外側から3年輪分を採取した。樹種と部位(心材/辺材)は不明である。帰国後、このサンプルでAMS法放射性炭素年代測定を実施した。最外層年輪年代の測定結果は以下のとおりである[浅川・大石・武田・吉田2017]。
1526-1555 cal AD (信頼限界16.3%) 1632-1666 cal AD (信頼限界74.4%)
1784-1795 cal AD (信頼限界4.7%)
この内陣柱は16世紀以降の伐採であり、信頼限界からみて、17世紀以降の伐採の可能性がより高いと考えられる。つまり国家形成期以降の柱材ということでになる。この結果には二つの解釈が可能である。一つは古代に遡る本堂が17世紀以降に「再建」もしくは「修復による部材差し替え」された可能性である。いま一つは、本堂がこの時期に新設された可能性である。後者の場合、「国家形成期(17世紀)以前に本堂はなかった(あるいは少なかった)」ことを裏付ける資料だということになるけれども、かくも少ない資料ではこれ以上の憶測は無駄であろう。
ツァルイゴンパ 首都ティンプー市にあるツァルイゴンパ(Tshalui Goempa)の本堂は14世紀建立の寺伝がある。2016年の5次調査(2016)で2回訪問し調査した[浅川・大石2018]。一般にブータンの僧院本堂は揚床板敷とし、その上に柱を立てるが、ツァルイゴンパの本堂は内陣の地盤が外陣より高い位置にあって、柱が土間から直に立ち上がっており、内陣柱自体も非常に古くみえた。現状は2階建の楼閣式だが、当初は平屋の可能性もあると考え、内陣2本柱のうちの1本の年輪サンプルを採取させていただいた。外側から20年輪を確認し、うち最外層2年輪を採取した。樹種・部位(心材/辺材)は不明である。以下に測定結果を示す。
1494-1602 cal AD(信頼限界74.2%) 1616-1645 cal AD(信頼限界21.2%)
この結果をみると、伐採年代は17世紀以降もありうるが、15世紀末~16世紀の可能性がより高い。寺伝にいう14世紀の造営までは遡らないけれども、国家形成期以前の部材である可能性を示唆している。
(3)版築壁跡有機物の年代測定
上にみたように、柱などの建築部材を科学的年代測定の対象とすることも可能な場合もあるのだが、調査を許可されるのは例外的であり、許可を得たとしても部材の樹種・部位が不明であることなどから、信頼性の高い結果に導くのは容易ではない。また、ネパール大地震(2015)の影響でブータンの歴史的建造物の多くが損壊し、急ピッチで修復が進んでいるけれども、その修理現場を訪問すると、古材の再利用はほとんどなされておらず、修復という名の再建が一般的であることを知る。すなわち、再建に近い修復によって古材は新材に差し替えられる。この傾向は昔も今も同じであり、木造の部材を年代測定しても創建当初の年代を得る可能性はきわめて低いと言わざるをえない。
そうした状況に苦しみながら、あるときむしろ建築を囲む版築壁が有効ではないか、と思うに至った。話はアフガニスタンに飛ぶ。石窟寺院における大仏崇拝はガンダーラやアフガニスタンで始まり、バーミヤンで大型化した仏像が雲岡など中国の石窟寺院に影響を与えたと従来は考えられていた。ところが、タリバンがバーミヤン大仏を破壊した後、ドイツの調査隊が仏像を化粧する粘土に含まれていたスサ(藁)を放射性炭素年代測定したところ、6世紀以降という結果がもたらされた[岡村2013:p.78]。すなわち、北魏の雲岡期(460-494年)と呼ばれる仏教美術史上の時期がバーミヤン大仏の制作年代より古いことになり、仏像の大型化は中国で始まり、それがバーミヤン方面に影響を与えたと再考されるきっかけになったのである。
ブータンでは、僧院の修復現場で木造部材を差し替えるが、幅1m前後ある版築壁は表面の塗り替え程度で継続使用する例をみてきた。すなわち、木造の建築部材よりも版築壁が当初の痕跡を残す可能性が高く、その壁の内部に有機物を含むならば科学的年代測定の対象となりうる。しかも、山野に版築壁の廃墟が散在している。この場合、アフガニスタンでドイツ隊が採取したスサ(藁)は魅力的な有機物サンプルである。イネやムギなどの植物は一年草であり、スサそのものが木材における樹皮直下の年輪に相当するからである。本稿ではパロ地区シャヴァ(Shava)村の版築s壁跡から得られた結果を示す。パロ川に近い広い休耕田(平坦地)の中にその壁跡群は立体的に姿を残している。
シャヴァ村版築壁跡01: 第5次調査(2016)では、版築壁跡01の2ヶ所でサンプルを採取した。壁の残存厚は107cmであり、表面を薄く削り取った後、内側の硬化した土中からスサ(藁)と炭化木片を複数採取した。版築壁の場合、日本の木舞壁とは異なってスサを大量に混ぜることはなく、以上のスサと木片は施工時に混入した異物と思われる。帰国後、サンプルを精査したところ、スサは非常に不安定な状態であったため年代測定を断念したが、炭化木片は樹皮直下型の辺材であることがわかった。AMS法放射性炭素年代の結果は以下のとおり[浅川・大石2018]。
◎サンプルA地点
1420-1460 cal AD(信頼限界95.4%)
◎サンプルB地点
1490-1603 cal AD(信頼限界75.3%) 1612-1644 cal AD(信頼限界20.1%)
サンプルAは15世紀前半~中頃、サンプルBは15世紀末~17世紀中頃を示している。同一壁の別部位から得られた年代であり、両者は共存していたわけだから、壁の年代は後者(サンプルB)を採用せざるをえない。サンプルBのうち1612-1644 cal ADは国家形成期そのものだが信頼性は低く、信頼性が高い1490-1603 cal ADを妥当だとすれば、15世紀末~17世紀初の伐採とみなされる。さらにサンプルAの結果と照合するならば、15世紀末~16世紀前半あたりが有力な候補になるのではないだろうか。
シャヴァ村版築壁跡02: 2018年の第7次調査では、上記版築壁跡01の約50m西側に所在する小さな壁跡から木片を採取した。壁厚は80cmであり、版築壁跡01の外壁よりひとまわり小さい。壁跡01内部の間仕切り壁が厚76cmで近似した値を示す。結果は本稿が初公開である。
1312-1359 cal AD (信頼限界59.5%) 1387-1415 cal AD (信頼限界35.9%)
建物01より古い14世紀前半~15世紀前半の年代が得られたが、サンプルは心材型であり、木片の伐採年代は14世紀前半以降であって、いまのところ、版築壁跡02は版築壁跡01に先行して建設されたのか、ほぼ同時期に建設されたのかは判定しがたい。しかしながら、二つの版築壁跡を東西端に含む平坦な敷地が通常の棚田の範囲よりもはるかに広い点には注目しなければならないであろう。広範な敷地に2棟の頑丈な建物が存在していたのである。
ここで、筆者自身が訪問した集落を例にあげるならば、中央ブータンのウラ(Ura)や東ブータンのメラク(Merak)などは、半世紀前まで遊牧民がテント暮らしをしていた。そうした草原的世界のなかにぽつんぽつんと仏教僧院が境内を構えていたのである。こうした状況を踏まえるならば、上記版築壁跡が存在したであろう14~16世紀ころの民衆の住まいはテントか小規模の家屋と想像される。版築壁跡は民家以外の建築物であった可能性が高いであろう。その場合、立地的に山上の城(Dzong)ではありえず、仏教僧院の跡地とみなさざるをえないのではないか。版築壁跡01の上部に残る天井材の痕跡からみて、平屋の仏堂であったろうと思われるのである。また、版築壁跡01・02の相互距離が約50mあることを考慮するならば、この平坦地全体が僧院の敷地であった可能性も十分あるだろう。本堂を含む仏教僧院が国家形成期以前に遡る可能性を暗示する遺構群と評価できる。
(4)余話-ネープック遺産
上記版築壁跡は2016年までただの休耕田(一部は畑)に壁の廃墟をぽつんと残すだけの荒地であり、車道と休耕田のあいだの路肩に農民たちが野菜を売る仮設の市場が連なる場所でしかなかった。翌年(2017)、この地を通りかかると、版築壁跡01に屋根がかかって立派な楼閣式の建物に変化しており、一同驚愕。その保全的再開発は徐々に進行し、この春(2019)、「ネープック遺産(Neyphug Heritage)」 という複合施設としてオープンした。ネープックとは近隣にある仏教僧院の寺名である。ネープック寺は17世紀に開山したドゥク派の寺院であり、18世紀に一度再建されたが、2015年のネパール大地震の被災後に再々建されることとなった。その結果、17~18世紀の古材が大量に余剰することになり、柱・梁・肘木・階段などの古材を再利用して、版築壁跡01を構造壁として活かしながら楼閣の建設に取り組んだのである。
ネープック寺は、廃墟を含む休耕田の不動産すべてを農民から買い取り、「明るい未来のための教育と自力更生(エンパワーメント)」(案内板)の多機能施設に生まれ変わらせた。楼閣の内部に売店(your shop) 、ビジネスセンター(business centre)、ギャラリー(art gallery) 、静養所(retreat cetre)、足マッサージ室(foot reflexology)を配し、棚田側には平屋のカフェ (your cafe)とオフィス、道路側の農家直売場(farmers market)は常設化し、全体の空間構成を僧院に近づけている。この複合施設の営業収益はネープック寺の運営、とくに修学僧の教育経費に供されるという。ネープック遺産の取り組みは決して復元的な整備ではなく、廃墟と古材のリユースの賜物である。こうした介入を文化財保護の立場から云々できる資格はだれにもない。国や自治体による「史跡」の指定がなされていたならば、遺構の保全にとって不都合だとの批判も可能であろうが、そうした指定や規制はいっさいない土地と廃墟を寺が買い受けて、自らの古材を利用して再生しただけのことであり、それなりに評価しなければならないであろう。
なお、ネープック寺の僧侶は、壁跡の有機物から得られた年代が15世紀に遡りうるという情報に大変驚かれた。ネープック寺と同様、版築壁跡は国家形成期(17世紀)の遺構とみなしていたからであり、年代測定の基礎情報の提供を繰り返し請願された。
4.おわりに
以上、日本とブータンの木造建築および遺跡(廃墟)の科学的年代測定に係わる成果を報告した。日本の場合、残存する木材サンプルの状態にあわせて、放射性炭素年代測定、年輪幅による古典的な年輪年代測定、酸素同位体比年代測定のいずれかを選択するならば相応の成果を得ることができる。可能ならば、2種類の方法を重複採用して測定年代をクロスチェックし、文献・絵画や細部様式などと対照しつつ総合的に検討すれば、建築の歴史理解におおいに貢献できるところまで来ている。
一方、ブータンなどの海外では、年輪の標準変動曲線が構築されていないので、いきおい放射性炭素年代測定に頼らざるをえないが、その精度は近年急速に高まってきているので、決して無益なわけではなく、17世紀以前の有機物ならば一定の成果が得られるはずである。ただし、ブータンでは木造建築部材の差し替えが当たり前のようにおこなわれており、古い部材は例外的にしか残っていないため、筆者らの研究はむしろ版築壁に含まれる有機物に傾斜することとなった。
今後のブータン研究を考えると、どうしても「発掘調査」が必要になるだろうと思っている。廃墟になったニンマ派の寺院跡地をトレンチ掘りし、土壌の層位を正確に把握した上で、地下遺構から有機物を検出して放射性炭素年代にかければ境内の形成年代を明らかにできる。日本では当たり前のそうした基礎調査が実現する日を待ち遠しく思っている。【完】
《付記》 本稿は2014年度鳥取県学術振興事業助成「近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究」および2013~15年度科学研究費基盤研究©「チベット系仏教及び上座部仏教の洞穴僧院に関する比較研究」、2015~16年度公立鳥取環境大学特別研究費助成「大雲院とその末寺群の伽藍構成及び仏教美術に関する予備的研究(1)(2)」、2018~2020年度科学研究費基盤研究(C)「ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴-ポン教神霊の浄化と祭場-」の成果である。
《参考文献》
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浅川滋男編(2010)『出雲大社の建築考古学』同成社
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浅川滋男・原島進編(2014)『「長谷寺要用書記」翻刻』2013年度鳥取県環境学術研究費・2013度鳥取環境大学特別研究費成果報告書
浅川滋男・原島進編(2015)『近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究』2014年度鳥取県環境学術研究費成果報告書
浅川滋男編(2015)『思い出の摩尼 -建造物の調査と景勝地トライアングルの構想-』2014年度鳥取環境大学特別研究費成果報告書
浅川滋男編(2016)『大雲院仏教美術品目録』2015年度公立鳥取環境大学特別研究費成果報告書
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吉田健人・高後敬太・木村鴻汰・浅川滋男(2017)「旧大雲院本坊指図の考証と復元」『公立鳥取環境大学紀要』第15号:pp.47-62
浅川滋男・大石忠正(2018)「西ブータンの崖寺と民家―ハ地区を中心に―」『公立鳥取環境大学紀要』第16号:pp.PR1-PR17
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鳥取県教育文化財団編(2013)『本高弓ノ木遺跡(5区)Ⅰ】』鳥取県教育委員会
鳥取県教育文化財団編(2018)『松原田中遺跡Ⅲ』鳥取県教育委員会
中塚武(2012)「Ⅰ 自然環境の復元 1 気候変動と歴史学」、平川南編『環境の日本史〈1〉日本史と環境―人と自然』吉川弘文館:pp.38-70
Knut Einar Larsen(1994)Architectural Preservation in Japan, ICOMOS International Wood Committee
《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
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中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
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上にみたように、柱などの建築部材を科学的年代測定の対象とすることも可能な場合もあるのだが、調査を許可されるのは例外的であり、許可を得たとしても部材の樹種・部位が不明であることなどから、信頼性の高い結果に導くのは容易ではない。また、ネパール大地震(2015)の影響でブータンの歴史的建造物の多くが損壊し、急ピッチで修復が進んでいるけれども、その修理現場を訪問すると、古材の再利用はほとんどなされておらず、修復という名の再建が一般的であることを知る。すなわち、再建に近い修復によって古材は新材に差し替えられる。この傾向は昔も今も同じであり、木造の部材を年代測定しても創建当初の年代を得る可能性はきわめて低いと言わざるをえない。
そうした状況に苦しみながら、あるときむしろ建築を囲む版築壁が有効ではないか、と思うに至った。話はアフガニスタンに飛ぶ。石窟寺院における大仏崇拝はガンダーラやアフガニスタンで始まり、バーミヤンで大型化した仏像が雲岡など中国の石窟寺院に影響を与えたと従来は考えられていた。ところが、タリバンがバーミヤン大仏を破壊した後、ドイツの調査隊が仏像を化粧する粘土に含まれていたスサ(藁)を放射性炭素年代測定したところ、6世紀以降という結果がもたらされた[岡村2013:p.78]。すなわち、北魏の雲岡期(460-494年)と呼ばれる仏教美術史上の時期がバーミヤン大仏の制作年代より古いことになり、仏像の大型化は中国で始まり、それがバーミヤン方面に影響を与えたと再考されるきっかけになったのである。
ブータンでは、僧院の修復現場で木造部材を差し替えるが、幅1m前後ある版築壁は表面の塗り替え程度で継続使用する例をみてきた。すなわち、木造の建築部材よりも版築壁が当初の痕跡を残す可能性が高く、その壁の内部に有機物を含むならば科学的年代測定の対象となりうる。しかも、山野に版築壁の廃墟が散在している。この場合、アフガニスタンでドイツ隊が採取したスサ(藁)は魅力的な有機物サンプルである。イネやムギなどの植物は一年草であり、スサそのものが木材における樹皮直下の年輪に相当するからである。本稿ではパロ地区シャヴァ(Shava)村の版築s壁跡から得られた結果を示す。パロ川に近い広い休耕田(平坦地)の中にその壁跡群は立体的に姿を残している。
シャヴァ村版築壁跡01: 第5次調査(2016)では、版築壁跡01の2ヶ所でサンプルを採取した。壁の残存厚は107cmであり、表面を薄く削り取った後、内側の硬化した土中からスサ(藁)と炭化木片を複数採取した。版築壁の場合、日本の木舞壁とは異なってスサを大量に混ぜることはなく、以上のスサと木片は施工時に混入した異物と思われる。帰国後、サンプルを精査したところ、スサは非常に不安定な状態であったため年代測定を断念したが、炭化木片は樹皮直下型の辺材であることがわかった。AMS法放射性炭素年代の結果は以下のとおり[浅川・大石2018]。
◎サンプルA地点
1420-1460 cal AD(信頼限界95.4%)
◎サンプルB地点
1490-1603 cal AD(信頼限界75.3%) 1612-1644 cal AD(信頼限界20.1%)
サンプルAは15世紀前半~中頃、サンプルBは15世紀末~17世紀中頃を示している。同一壁の別部位から得られた年代であり、両者は共存していたわけだから、壁の年代は後者(サンプルB)を採用せざるをえない。サンプルBのうち1612-1644 cal ADは国家形成期そのものだが信頼性は低く、信頼性が高い1490-1603 cal ADを妥当だとすれば、15世紀末~17世紀初の伐採とみなされる。さらにサンプルAの結果と照合するならば、15世紀末~16世紀前半あたりが有力な候補になるのではないだろうか。
シャヴァ村版築壁跡02: 2018年の第7次調査では、上記版築壁跡01の約50m西側に所在する小さな壁跡から木片を採取した。壁厚は80cmであり、版築壁跡01の外壁よりひとまわり小さい。壁跡01内部の間仕切り壁が厚76cmで近似した値を示す。結果は本稿が初公開である。
1312-1359 cal AD (信頼限界59.5%) 1387-1415 cal AD (信頼限界35.9%)
建物01より古い14世紀前半~15世紀前半の年代が得られたが、サンプルは心材型であり、木片の伐採年代は14世紀前半以降であって、いまのところ、版築壁跡02は版築壁跡01に先行して建設されたのか、ほぼ同時期に建設されたのかは判定しがたい。しかしながら、二つの版築壁跡を東西端に含む平坦な敷地が通常の棚田の範囲よりもはるかに広い点には注目しなければならないであろう。広範な敷地に2棟の頑丈な建物が存在していたのである。
ここで、筆者自身が訪問した集落を例にあげるならば、中央ブータンのウラ(Ura)や東ブータンのメラク(Merak)などは、半世紀前まで遊牧民がテント暮らしをしていた。そうした草原的世界のなかにぽつんぽつんと仏教僧院が境内を構えていたのである。こうした状況を踏まえるならば、上記版築壁跡が存在したであろう14~16世紀ころの民衆の住まいはテントか小規模の家屋と想像される。版築壁跡は民家以外の建築物であった可能性が高いであろう。その場合、立地的に山上の城(Dzong)ではありえず、仏教僧院の跡地とみなさざるをえないのではないか。版築壁跡01の上部に残る天井材の痕跡からみて、平屋の仏堂であったろうと思われるのである。また、版築壁跡01・02の相互距離が約50mあることを考慮するならば、この平坦地全体が僧院の敷地であった可能性も十分あるだろう。本堂を含む仏教僧院が国家形成期以前に遡る可能性を暗示する遺構群と評価できる。
(4)余話-ネープック遺産
上記版築壁跡は2016年までただの休耕田(一部は畑)に壁の廃墟をぽつんと残すだけの荒地であり、車道と休耕田のあいだの路肩に農民たちが野菜を売る仮設の市場が連なる場所でしかなかった。翌年(2017)、この地を通りかかると、版築壁跡01に屋根がかかって立派な楼閣式の建物に変化しており、一同驚愕。その保全的再開発は徐々に進行し、この春(2019)、「ネープック遺産(Neyphug Heritage)」 という複合施設としてオープンした。ネープックとは近隣にある仏教僧院の寺名である。ネープック寺は17世紀に開山したドゥク派の寺院であり、18世紀に一度再建されたが、2015年のネパール大地震の被災後に再々建されることとなった。その結果、17~18世紀の古材が大量に余剰することになり、柱・梁・肘木・階段などの古材を再利用して、版築壁跡01を構造壁として活かしながら楼閣の建設に取り組んだのである。
ネープック寺は、廃墟を含む休耕田の不動産すべてを農民から買い取り、「明るい未来のための教育と自力更生(エンパワーメント)」(案内板)の多機能施設に生まれ変わらせた。楼閣の内部に売店(your shop) 、ビジネスセンター(business centre)、ギャラリー(art gallery) 、静養所(retreat cetre)、足マッサージ室(foot reflexology)を配し、棚田側には平屋のカフェ (your cafe)とオフィス、道路側の農家直売場(farmers market)は常設化し、全体の空間構成を僧院に近づけている。この複合施設の営業収益はネープック寺の運営、とくに修学僧の教育経費に供されるという。ネープック遺産の取り組みは決して復元的な整備ではなく、廃墟と古材のリユースの賜物である。こうした介入を文化財保護の立場から云々できる資格はだれにもない。国や自治体による「史跡」の指定がなされていたならば、遺構の保全にとって不都合だとの批判も可能であろうが、そうした指定や規制はいっさいない土地と廃墟を寺が買い受けて、自らの古材を利用して再生しただけのことであり、それなりに評価しなければならないであろう。
なお、ネープック寺の僧侶は、壁跡の有機物から得られた年代が15世紀に遡りうるという情報に大変驚かれた。ネープック寺と同様、版築壁跡は国家形成期(17世紀)の遺構とみなしていたからであり、年代測定の基礎情報の提供を繰り返し請願された。
4.おわりに
以上、日本とブータンの木造建築および遺跡(廃墟)の科学的年代測定に係わる成果を報告した。日本の場合、残存する木材サンプルの状態にあわせて、放射性炭素年代測定、年輪幅による古典的な年輪年代測定、酸素同位体比年代測定のいずれかを選択するならば相応の成果を得ることができる。可能ならば、2種類の方法を重複採用して測定年代をクロスチェックし、文献・絵画や細部様式などと対照しつつ総合的に検討すれば、建築の歴史理解におおいに貢献できるところまで来ている。
一方、ブータンなどの海外では、年輪の標準変動曲線が構築されていないので、いきおい放射性炭素年代測定に頼らざるをえないが、その精度は近年急速に高まってきているので、決して無益なわけではなく、17世紀以前の有機物ならば一定の成果が得られるはずである。ただし、ブータンでは木造建築部材の差し替えが当たり前のようにおこなわれており、古い部材は例外的にしか残っていないため、筆者らの研究はむしろ版築壁に含まれる有機物に傾斜することとなった。
今後のブータン研究を考えると、どうしても「発掘調査」が必要になるだろうと思っている。廃墟になったニンマ派の寺院跡地をトレンチ掘りし、土壌の層位を正確に把握した上で、地下遺構から有機物を検出して放射性炭素年代にかければ境内の形成年代を明らかにできる。日本では当たり前のそうした基礎調査が実現する日を待ち遠しく思っている。【完】
《付記》 本稿は2014年度鳥取県学術振興事業助成「近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究」および2013~15年度科学研究費基盤研究©「チベット系仏教及び上座部仏教の洞穴僧院に関する比較研究」、2015~16年度公立鳥取環境大学特別研究費助成「大雲院とその末寺群の伽藍構成及び仏教美術に関する予備的研究(1)(2)」、2018~2020年度科学研究費基盤研究(C)「ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴-ポン教神霊の浄化と祭場-」の成果である。
《参考文献》
浅川滋男(2005)『出雲大社』日本の美術№476、至文堂
浅川滋男(2013)『建築考古学の実証と復元研究』同成社
浅川滋男(2019)「奇跡の雪山-ブータンとチベットの七年間-」『こちら公立鳥取環境大学環境学部です!』今井出版:pp.110-125
浅川滋男編(2010)『出雲大社の建築考古学』同成社
浅川滋男編(2013a)『聖なる巌 -窟の建築化をめぐる比較研究-』2012年度鳥取環境大学特別研究・2010-12年度科学研究費補助金基盤研究(C)成果報告書
浅川滋男編(2013b)『雲州平田 木綿街道の町家と町並み』木綿街道振興会
浅川滋男・原島進編(2014)『「長谷寺要用書記」翻刻』2013年度鳥取県環境学術研究費・2013度鳥取環境大学特別研究費成果報告書
浅川滋男・原島進編(2015)『近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究』2014年度鳥取県環境学術研究費成果報告書
浅川滋男編(2015)『思い出の摩尼 -建造物の調査と景勝地トライアングルの構想-』2014年度鳥取環境大学特別研究費成果報告書
浅川滋男編(2016)『大雲院仏教美術品目録』2015年度公立鳥取環境大学特別研究費成果報告書
浅川滋男編(2017)『大雲院の建造物と仏教美術』2016年度公立鳥取環境大学特別研究費成果報告書
宮本正崇・中塚武・吉田健人・浅川滋男(2015)「摩尼寺建造物の調査」『公立鳥取環境大学紀要 』第13号:p.79-98(浅川編2015に再録)
原島修・中島俊博・浅川滋男(2015)「米子八幡神社の棟札と本殿・拝殿の建築年代」『公立鳥取環境大学紀要』第13号:p.99-128
吉田健人・浅川滋男(2016)「ブータンの崖寺と瞑想洞穴」『公立鳥取環境大学紀要』第14号:p51-70
浅川滋男・大石忠正・武田大二郎・吉田健人(2017)「ブータンの崖寺と瞑想洞穴(2)-第4次調査の報告-」『公立鳥取環境大学紀要』第15号:pp.63-81
吉田健人・高後敬太・木村鴻汰・浅川滋男(2017)「旧大雲院本坊指図の考証と復元」『公立鳥取環境大学紀要』第15号:pp.47-62
浅川滋男・大石忠正(2018)「西ブータンの崖寺と民家―ハ地区を中心に―」『公立鳥取環境大学紀要』第16号:pp.PR1-PR17
浅川滋男・宮本正崇・中田優人(2018)「松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁に関する復元的考察」、鳥取県教育文化財団編『松原田中遺跡Ⅲ』第2分冊【本文編2】2018:pp.951-985、鳥取県教育委員会
岡村秀典(2013)「山中の仏教寺院-西インドの石窟寺院を中心に-」(浅川編2013a:pp.68-87)
中尾七重(2009)『中近世建築遺構の放射性炭素を用いた年代測定』平成18~20年度科学研究費補助金(基盤研究B)研究成果報告書
中尾七重(2011)「歴史的建造物を対象にした放射性炭素年代測定の方法」『文化女子大学紀要 服装学・造形学研究』第42集:pp.39-49、白峰社
上野勝久・中尾七重(2012)「鑁阿寺本堂の部材の年代測定について」『木造建造物の保存修復における伝統技法の類型と革新的技術の考案に関する研究』2009~2011年度科学研究費補助金研究成果報告書
天沼俊一(1944)『日本建築細部変遷小図録』星野書店
佐藤正彦(1980)「古社寺の時代判定―長門国の蟇股を例として―」『九州産業大学工学部工学誌』第16号
佐藤正彦(1985)「古社寺建築の時代判定(宮崎県の蟇股・手挟・大瓶束など例として)」『九州産業大学工学部工学誌』第23号
吉井博(2006)『蟇股』文建協叢書6,文化財建造物保存技術協会
鳥取県教育文化財団編(2013)『本高弓ノ木遺跡(5区)Ⅰ】』鳥取県教育委員会
鳥取県教育文化財団編(2018)『松原田中遺跡Ⅲ』鳥取県教育委員会
中塚武(2012)「Ⅰ 自然環境の復元 1 気候変動と歴史学」、平川南編『環境の日本史〈1〉日本史と環境―人と自然』吉川弘文館:pp.38-70
Knut Einar Larsen(1994)Architectural Preservation in Japan, ICOMOS International Wood Committee
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中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
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