『鳥取県の民家』を訪ねて(47)

最終民家調査-八頭町石田百井小島家
麒麟特別研究「昭和49年刊『鳥取県の民家』を訪ねて」の遂行にあたって、私は『鳥取県の民家』(昭和49年刊)第3次調査対象39件の民家再訪と併行し、新聞連載「失われゆく古民家」(1973-74)掲載の民家も訪ね歩いていました。新聞掲載49件のうち、県東部の民家24件に照準を絞り、『鳥取県の民家』と重複する5件をのぞく19件を対象に再訪調査を進めてきました。12月5日(水)、ついに最終の調査を迎えました。まずは八頭町石田百井へ。
新聞No.15小島家住宅: 小島家は石田百井を支えたとされる庄屋の家柄です。本建ちと呼ばれる小屋梁構造で、現在の大工技術ではなかなか再現できないような難しい構造でした。平屋建の民家であったものの、納戸には上へと向かう梯子があり、屋根裏に女中部屋があったそうです。柱が台鉋で仕上げられており、江戸中期以降の建築であるとされています。新聞連載当時は茅葺屋根をトタンで覆う鉄板被覆になっていました。ヒアリングに応じてくださったのはご当主です。

↑新聞掲載(1974)↓現状(2019)

前ご当主が生前、1991年に主屋を撤去し、跡地に住宅を新築し、現在は三人で暮らされています。ご当主は撤去前の資料等丁寧に保管し、ファイリングされており、日々小島家の先祖について調べておられました。前身の主屋は国府の武家屋敷を移築した建物であるようで、ケヤキ、桜、松など高価な材を使った民家であったそうです。撤去する際、材についてどうしたものか、町と話し合ったが、結局活用はせず、解体業者が持って行ってしまったとのこと。
以前の主屋については、とても丁寧に使われた綺麗な家であったとおっしゃっており、新聞連載を執筆した木島氏も「丹念な手入れがなされ(略)落ち着いた美しさを覚える」と述べておられます。なお、本家は道を挟んだ赤い瓦屋根のもので、この小島家は分家であるそうです。
民家変容パターンはD類:D-2 撤去後べつの建物を新築です。


西御門の裏口玄関-今嶋家
新聞No.22今嶋家: 次は八頭町西御門の今嶋家へ。民家はみつけたのですが、なかなか玄関らしい部分が見つからずしばらくうろうろぐるぐるしていたところ、裏口を発見。ヒアリングに応じてくださったのは奥様でした。
新聞によると、今嶋家は茅葺きの旧態を残す農家であり、大屋根が重たく軒先まで続く「ふきおろし」という形式で、新聞掲載当時でさえほとんど見られないとされる茅葺き露出民家でした。要は、瓦葺きの庇(下屋)のない草屋根です。「床もかなり古く江戸中期以前の構造形式」と記載されています。

↑新聞掲載(1974)↓現状(2019)

昭和52年(1977)には、その主屋を撤去し、在所の大工に依頼して新居を建築し、今は奥様と息子さん夫婦の3人で暮らしていらっしゃいます。撤去時はちょうど娘さんの入学式であったと懐かしんでおられました。前は土間の続きに牛小屋があり、道路側に玄関を配していたが、牛小屋を撤去したので玄関を裏側にもってきたそうです。耕運機のない時代、牛は畑を耕す重要な財産であり、この家には牛一頭と羊一頭がいたそうです。
最初ベルを鳴らしてからヒアリングに入るまで、奥様は非常に警戒なさっていましたが、徐々に研究の趣旨について理解していただき、最後はおうちの中に招いていただき、昔話をぽつぽつ話してくださいました。「失われゆく古民家」連載に載った当時の新聞記事は額縁に飾ってありました。「こんな普通の小さい家が新聞に載るなんて思わなかった」「親族一同でびっくりして、嬉しくてね」とおっしゃいます。ゴルフ場設立の流れの中で村の山が使われ、そこから村は激動の道を歩んだそうです。今では都市部に人口が流出して村人は少なくなり、地域の人とのかかわり合いも少なくなってきたと嘆いておられます。ネットもテレビもない時代、近所の人たちと主屋の縁に腰を掛け、ラジオをかけておしゃべりしていたことが懐かしいそうです。
民家変容パターンはD類:D-2 撤去後べつの建物を新築です。【続】
