『鳥取県の民家』を訪ねて(48)

小別府の大きな空き家
新聞No.21保木本家 12月5日(続)。八頭町小別府へ。道路沿いに面する、石積みの上に建つ大きな白い壁で家の規模がみてとれます。屋敷の面積は実に700坪を超えるとされ、背伸びをして中を見ると植物がやや乱雑に生い茂っていました。空き家のようです。隣の家のベルを鳴らすと大きな犬が出てきて、後から出てきた奥様にお話を伺うことにしました。
保木本家は大庄屋の家柄で、幕末に建てられたとされる六間取りの民家でした。伝統を守りつつ開放的な戸、格子を使用されており、オクノマは雲母を入れて塗ったとされる特殊な壁であったと新聞に記載されています。しかし、この家は分家の建物を移築したものとされる説もあるようです。


と書いたところで、この住宅はASALABと係わりの深い古民家であることを知りました。その詳細は『鳥取県の中山間地域における過疎集落の活性化に関する基礎的研究―歴史的環境の分析と再評価を通して―』平成13~14年度鳥取県環境学術研究費助成特別研究成果報告書(2003年、鳥取環境大学)により知ることができます。2001年度、国府町神護の民家保存問題で悪戦苦闘している研究室に、当時の加藤学長の哲学の盟友である保木本教授(東京在住)から調査と保全計画の打診があり、調査に乗り出すことになりました。とはいえ、まだ1期生は1年生であり、研究室は存在せず、有志を募って建造物と庭園の調査に取り組みました。その後、1期生のゴルゴ18さんが下宿代を節約するために保木本家に2年ばかり住まわれたとのことです。学生の演習にもしばしば使われました。上の写真は2003年ころサシガヤをおこなった際の写真です。

↑新聞掲載(1974)↓現状(2019)

すでに1985年の時点で保木本家のご家族は東京に引っ越されていました。以前は年始など帰ってきては挨拶にこられたそうですが、ここ数年はまったく見ていないとのことで、今は完全に空き家になっています。隣の奥様は隣家の劣化に悩んでいるようでした。空き家となってから土壁が落ち、木が折れて近隣住民の家に倒れたこともあるそうです。奥様の家の方には柿が落ちてくることで困っておられました。去年茅葺職人が入っているのを見たけれども、しばらくして作業を中断し、そこまま家は変わっていません。おまけに家は施錠されており、自由に出入りすることはできません。家の前に埋まっている大きなタイヤのようなものもどうにかしてほしい、とおっしゃっておりました。
民家変容パターンはB類の新しいパターンで、B-3「未指定・未登録のまま茅葺き屋根を維持しているが無住状態(空き家)」になるかと思います。


↑崩れかけた土壁 →埋まっている大きなタイヤ

富枝の大家族
新聞No.07大村家 だんだん日が落ちてゆく中、八頭町富枝へ。大村家のベルを鳴らすと、ご主人が快く出てこられ、ヒアリングに応じてくださいました。
建築当時、「地築」という新工法の家が建つと有名になったと新聞に書いてあります。執筆した木島氏によると、この家は庶民の住まいが「掘立て」の基礎が石場(礎石)建に脱却する時期が推定できる貴重な民家でした。建築年代は江戸初期以前、16世紀にさかのぼる可能性もある、とされていました。中世に遡るとすれば、県内最古の民家であったのかもしれません。また、蚕の作業を行う作業場も敷地内に持ち合わせていたとのことです。

↑新聞掲載(1974)↓現状(2019)

ご主人に話をうかがうと、新聞連載当時、教育委員会やいろんな大学の教授が見に来ては「文化財にするかどうか、保存するかどうか」で協議になったそうです。しかし、もとより先代ご主人に保存の意志はなく、『鳥取県の民家』刊行の1974年には撤去し跡地に新居を建てたとのことです。いま8人家族でお住まいになられており、にぎやかで楽しく暮らしておられます。
富枝という場所は丹比の中心地であり、昭和30年代に発電所を開発した地域で、とても栄えていたとご主人はおっしゃっていました。春が来たら川沿いに露店がいっぱいでて、にぎやかな場所であったと懐かしそうに語っておられました。ご主人は富枝の出身であることを誇りに思っていらっしゃいます。
民家変容パターンはD類:D-2 撤去後べつの建物を新築です。
