青谷上寺地遺跡を訪ねて(1)

12月5日(木)、プロジェクト研究2&4の一環として青谷上寺地遺跡整備室と青谷上寺地遺跡展示館を訪問した。青谷上寺地遺跡は「弥生の正倉院」と賞賛される全国有数の弥生中後期の集落遺跡である(遺跡は国指定史跡、遺物は多くが重要文化財)。このたびは北浦弘人整備室長(県文化財局)のご案内で、多くの遺物とパネルの説明をしていただいた。出土品は数万点におよび、漁具、木器、楽器(琴)、農具、建築部材、布などから殺傷痕のある人骨や弥生人の脳(展示品はレプリカ)まで多岐多数に渡る。学生には各自担当している後漢書倭伝・魏志倭人伝・宋書倭国伝の記載と係わる出土遺物にフォーカスを絞ってレポートを書いてもらった。以下はその感想文を抜粋し、再構成(及び校訂)したものである。まずは後漢書倭伝輪読中であった1年生から。
後漢書倭伝と青谷上寺地遺跡
青谷上寺地遺跡は今は埋め立てられているが、弥生時代には内海に面していた。そのため丸木舟や鋳造品など、国内外との交易の痕跡が多々残されており、後漢書倭伝との相違点も理解できた。後漢書倭伝は魏志倭人伝をもとに書かれた条文であり、青谷上寺地遺跡の時代とも重なっている。後漢書倭伝には「居処は宮室・楼観・城柵、皆兵を持して守衛し、法俗厳峻なり」という記載がある。青谷上寺地遺跡も楼観の建築部材が出土している。楼観とは物見やぐらのことである。後漢書倭伝の武器を持った兵士が守衛していたという記述から、青谷上寺地遺跡でも戦があったと考えられる。遺跡から発掘された人骨10名分には金属製の武器によってつけられた傷があった。人骨には防御痕跡がないものや後ろから傷をつけられたものがあり、不意打ちによる殺傷であったとみられる。私はこれらの戦いは「倭国おおいに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし」という記載と関わりがあるのではないかと考えた。(経営1年・高橋)

遺跡は内海に面していたため、釣り針や回転式銛頭、アワビおこし等の多くの漁業道具が出土している。丸木舟の船首の一部も発見されている。丸木舟は全長が7mに推定復原されていて、壊された丸木船の一部であった。その板材は環濠の護岸のために転用されていた。後漢書倭伝では、狗奴国や裸国・黒歯国へ行くのに海を船で渡る描写がある。しかし、丸木舟は木をくりぬいただけのもので、遠くまではたどり着けないように思う。そのため内海での漁労用だという考えが有力である。遠方への渡航には丸木舟にもう少し板などの船材を加えた準構造船を使用していたと想像されるが、その証拠がみつかっているわけではないようだ。
また、遺跡からは柱や床板などの多くの建築部材が発見されており、当時の建築の復原も行われている。竪穴住居は一つもみつかっておらず、平地住居は1棟だけ確認できているそうだ。内海に接しており、湿地帯であったことから、地上式の掘立柱建物が主流であったと推測できる。後漢書倭伝の中に、楼観で武器を持った人が外を見張っているという描写がある。一方、遺跡からは7m以上ある柱が見つかっており、5m以上の高層建物が推定されている。それらは楼観を実証する資料として使われており、建物の形はCGで復元されている。(環境1年・田寺)

大陸系文化の流入と交易・漁労・祭祀
整備室に入って最初に紹介されたのは、弥生人の集落の絵だった。集落は内海に接しており、丸木舟や魚の骨が出土したことから波の低い内海で漁業を行っていたと考えられる。集落の周りには田畑も広がっており、生産性・保存性の高い食料を確保していたことがわかった。弥生人は加工能力もあったらしく、溶接されたガラス、骨や角を削って作った道具や装飾品は細かい加工を施していた。後漢書倭伝との共通点として理解できるものとして青玉(ヒスイ)、赤色顔料が使われた高坏も出土していた。私が重要だと思うのは交易品である。中国新王朝の貨幣や、羊と思われる絵の描かれた板が遺跡から出土しており、後漢書倭伝では羊は倭にいないとされているため、それらは大陸から伝来してきたものだと推測できた。さらには、北陸や九州でよく確認される遺物が出土しており、逆に北陸や九州で青谷の高坏が発見されてもいる。このことから、青谷上寺地遺跡は大陸や九州・北陸と繋がりをもつための交易拠点として造営された集落と考えられる。(経営1年・川口)


(略)組み合わせ式のヤスが出土している。鹿角で製造された先端が4本あり、粘土状のモノで固定されている。組み合わされた状態で出土したのは日本初だという。そして、鹿角や猪牙を加工し合体して大型の魚類を捕獲するための「釣斜」や回転式のモリも出土しており、漁業がいかに栄えていたのかがうかがえる。(略)鯨のろっ骨も出土したことから、青谷上寺地遺跡は海に面していたので鯨が浜に打ち上げられていた可能性がある。(略)岩ガキなどの牡蠣類主体の貝塚もみつかっている。アワビを含む貝塚で、青谷人が古くからアワビを食べていたことが分かる(魏志倭人伝の「魚鰒」に対応)。(経営1年・小西)

青谷上寺地遺跡では、国内外の他地域から持ち込まれたであろう遺物や、他地域の技術を用いたであろう遺物がたくさん出土している。大陸と日本、あるいは北陸~山陰~九州の間で様々な物資が行き交う交易の拠点であったと考えられている。出土したもののひとつにに卜骨がある。後漢書倭伝(読み下し文)の5段落目に「骨を灼いて以て卜し、以って吉凶を決す」とあるように、当時の人びとは、イノシシやシカの肩甲骨を焼き、ひびの入り方で吉凶を占っていた。青谷上寺地遺跡では250点を超える卜骨が出土しており、全国最多を誇る。使い終わった卜骨は2枚1組で左右の卜骨を重ね合わせてまとめて地中に埋められていた。こうした作法は朝鮮半島の勒島(ヌクト)遺跡と共通する。出土した卜骨には、イノシシやシカの肩甲骨に、焼いた棒の先を押し当てた痕跡が焦げ跡として残っている。(環境1年・城田)


ハプログループの多種性
何より興味を引いたのは、青谷の集落人が多数のハプログループ(祖先が共通する遺伝子をもつ人々の集団)から形成されていたことだ。後漢書倭伝からみるに、弥生時代は日本という島国の中で複数の国が形成され、それぞれが権力争いに明け暮れていた時代であった。そこから考えるに、弥生人は同族意識が強く、他の種族を快くは思っていなかったのではないか。そのような時代に、複数の地域や国の人々が一つの集落の中で共に生活していたというのだから、じつに驚かされる。だが、この考えは出土した人骨から多くのハプログループが検出されたという事実による憶測でしかない。過去に青谷で多数の部族による争いがあり、その時に戦死した人々の遺体が混在して出土したという考え方もできる。前者と後者、どちらの考えが正しいのか、それとも予想もしない真実があるのか。謎が明らかになる日が来ることを切に願う。(環境1年・川口)

《連載情報》魏志倭人伝を読む
(1)漫画と文献で読む魏志倭人伝
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(2)後漢書倭伝(一)
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(3)魏志倭人伝(一)
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(4)後漢書倭伝(二)
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(5)魏志倭人伝(二)
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(6)魏志倭人伝(三)
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(7)宋書倭国伝(一)
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青谷上寺地遺跡を訪ねて
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(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2158.html
魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会
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( 予報2 )http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2140.html
(レポート)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2156.html