青谷上寺地遺跡を訪ねて(2)


12月5日(木)の続篇。今夜は2年生のレポートを抜粋して再構成します。
倭の水人
青谷上寺地遺跡は内海に面した集落の遺跡であり、船の破片の出土数では日本一を誇る。繰り抜き船を作ったり、船を解体できるのは優れた鉄製の工具があったからだと思われる。木板に彫られたサメの絵には驚いた。私が口語訳を担当している部分に「倭の水人は潜水して魚や蛤を採るのを好み、入墨して大魚・水禽を遠ざける」との記載があり、サメはここにいう「大魚・水禽」の類と思われる。青谷の水人たちも入墨していたのだろうか。(略)魏志倭人伝には「今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え」とあり、実際に上寺地遺跡からは鹿角で作ったアワビおこしが出土しており、本当に海に潜っていたことが確認できる。また、弥生人の骨も出土しており、潜水の証拠として出土した頭蓋骨には外耳道奇形が残っている。(環境2年・平井)
青谷上寺地遺跡は内界に面した遺跡であり、丸木舟の船首や、さまざまな大きさの釣針、魚(サメ?)をモチーフにした絵画など海に関係する遺物が多数出土しており、人びとは稲作だけでなく漁業も積極的におこなっていたことが分かる。丸木舟の船首が見つかっていることから人々はこうした船に乗って、近海で魚を獲っていたと考えられるが、遠海に赴くには丸木船は適していない。(略)人びとが潜水業に専念した証拠として、「外耳道骨腫」の症状がある奇形の耳の骨も発見されている。海女に特有な病気であるという。(経営2年・松永)

青谷上寺地遺跡からは、漁で使う釣針もみつかっていて、大きい針から小さい針までそろっていて、当時の人びとの細工をする能力が高かったことが分かります。針は軸と別の素材を使って工夫をしています。銛もあります。銛にはしっかりと返しが付いており、セスという返しのついた四本の棒を束にした道具も展示してありました。倭人伝の末盧国(長崎県松浦半島)の人々も魚やアワビを獲っていたと記されており、青谷上寺地遺跡の水人のように道具を使って漁をしていたことが想像できます。(経営2年・宮本)


植生と動物
青谷の植生と、倭人伝に登場する植物には共通しているものが多くみられた。枏(クス)、杼(トチ)、予樟(クスノキ)、投(スギ)、橿(カシ)、烏号(ヤマグワ)、楓香(カエデ)、椒(サンショウ)などである。他に青谷でみつかった植物にバラ科、ミカン科、コナラ属がある。これらは、楺(ボケ)、橘(タチバナ)、櫪(クヌギ)に対応する可能性がある。竹に関する資料は見られなかったが、気候などの環境条件が倭人伝に登場する地域と似ていたと考えられる。(経営2年・渡部)
箱型琴の側板には羊らしい姿が彫られているが、当時の青谷上寺地には生息しない動物だったらしく、羊絵の一部が鹿の姿に変えられているという意見もあるようだ。倭人伝には「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」とある。倭に存在しない羊がなぜ描かれていたはわからないが、当時の中国や朝鮮半島の国々と交易があった証拠なのかもしれないと思うと、魏志倭人伝の信憑性が上がるのではないかと感じた。(平井)


衣食
日本の弥生時代の遺跡から発見されているのは絹と麻であり、青谷の展示館にも絹織物のパネルが展示してあった。絹は紀元前にシルクロードを通って中国に伝わったと言われており、それが日本にまで伝わっていたことから、中国と日本に文化交流があったことがわかる。絹は必要な労力に対して生産量が少ないため、古来より高級な品物であったため、特別な儀式や、一部の権力者のみが利用していたものと考えられる。一方、麻は一般的に利用されていたと考えられる。
綿は発見されていない。魏志倭人伝に「男子はみな冠り物をかぶらず、木緜を頭にかける」という「木緜」とは木綿ではなく絹布のことらしい。日本に綿花が伝わったのは8世紀末であり、各地に広まったのは16世紀と言われており、青谷上寺地遺跡の時代からはるか先のことである。(環境2年・平木)


倭人は高坏(原文「籩豆」)を用いて手でモノを食べる、と魏志倭人伝には記されている。実際に青谷から出土した高坏は、花弁の模様や透孔(すかしあな)、飾り耳などの装飾が施されている。ヤマグワなどの硬くて木目の美しい木が材料として用いられており、花弁の枚数や飾り耳の形状も一つひとつ違うなど、凝った作りであることが分かった。それは、権力者の権威を誇示するためにも使われていたのだろうと推測できる。(略)木製の匙も出土している。しかし、倭人伝中の人々がそのようなものを使用していたという描写はない。(渡部)
倭が魏の皇帝に献上した「男生口四人、女生口六人」とある生口とは、今まで奴隷、職人などさまざまな意見があったが、今回の見学で職人ではないかと考えるようになった。木製の器の装飾はかなり細かく、凝ったものが多かった。合計10人のただの労働力(奴隷)を献上しても魏にとっては意味をなさない。反面、弥生人の技術力などを考慮すると、細かい装飾のある器を作る職人がいるということを示すことで、文化水準の高さをアピールできる。また、そういった腕の良い職人を献上することで、敬意を示すことにも繋がると考えたからである。(平木)

鉄と玉の流通
青谷の人びとは、碧玉と呼ばれる鉱石を加工して装飾品を制作していた。整備室長曰く、この碧玉はヒスイ(翡翠)とは違うものであるという。倭人伝中に登場する「青玉」をわたしたちはヒスイだと解釈したが、もしかしたら碧玉であった可能性もあるかもしれない。(渡部)
青谷上寺地遺跡では他の地域の製品や産出品が多く出土しており、国内外各地との交易が盛んにおこなわれていたことがうかがえる。魏志倭人伝には「国々市あり。有無を交易し…」とあり、これの裏付けとなる。
青谷上寺地遺跡では加工途中の管玉やその破片、原材料の碧玉の原石が出土しており、交易によって手に入れ加工していたという。また、中国(新)の貨幣も出土しており、これは鉄の原料として使用されたと考えられている。青谷上寺地では越(北陸福井方面)から碧玉をもらう代わりに鉄の原料を渡していたという説明をうけた。(環境2年・間芝)
青谷では鉄製の道具もみつかっており、中国の鉄製品を仕入れ加工して別の道具を作っていた。そのほか、碧玉の原石を輸入し、管玉に加工して九州などに輸出する加工貿易や、木製の高杯の各地への輸出を行っていたようである。管玉はかなり小さいものもみつかっており、高い加工技術をもっていたことがうかがえる。他の遺跡にはみられないオリジナルの道具もあって、当時のモノ作りの中心地だったのではないかと思われる。(経営2年・芳山)

戦乱と人骨
魏志倭人伝「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、…」によると、卑弥呼が女王となる以前の倭国(弥生後期)は戦乱が続き、互いに攻めあっていた。青谷上寺地遺跡でも、戦乱にかかわる遺物が出土している。たとえば石製剣、動物の角製の鏃、楯など多くの武器が出土している。また、大量の人骨も出土しており、その中には刃物で傷付けられたものや骨折したもの、武器が打ち込まれたままで出土したものもある。(間芝)
展示館では、主に遺跡から発掘された人骨などを見学した。青谷上寺地遺跡では年齢・性別に関係なく人骨に殺傷痕があり、、また背面からの傷が多いことから、当時の戦争では兵士だけではなく、そこに住む人びとを皆殺しにしていた可能性もあるという。魏志倭人伝では、卑弥呼の死後の戦乱で1000人以上が殺されたと記されており、そのような凄惨な虐殺が行われていたことが想像される。(芳山)
なお、倭人伝との関係ではとりあげなかったが、1・2年生のほぼ全員が最も印象に残ったのは『弥生人の脳」だと書いてレポートを締めくくっています。末筆ながら、ご案内いただいた北浦室長に深謝申し上げます。


《連載情報》魏志倭人伝を読む
(1)漫画と文献で読む魏志倭人伝
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(2)後漢書倭伝(一)
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(3)魏志倭人伝(一)
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(4)後漢書倭伝(二)
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(5)魏志倭人伝(二)
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(6)魏志倭人伝(三)
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(7)宋書倭国伝(一)
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青谷上寺地遺跡を訪ねて
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魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会
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(レポート)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2156.html