初詣-石山寺


西国三十三所観音霊場第13番札所
昨日、石山寺まで初詣に行ってきました。奈良北端から30キロばかりの道のり、途中まですいすい車は進んでおりましたが、京滋バイパスで渋滞にひっかり、あららら・・・新名神と枝分かれする草津あたりで滞るようです。道中、今年から西国33観音霊場を一つずつ詣でるか、さらば、95歳までかかるぞい、と問わば、いけるんじゃないの、と答えがかえってきたりしてね、わるくないよね。
石山寺の賑わい、つまり参拝者の粗密はちょうど良い感じです。多くもなければ少なくもない。門前の茶屋も多くはないが、ちゃとしている。土産物もないわけではない。清々しい時間を過ごせました。


石山寺は東大寺の大仏鋳造と係りが深く、聖武天皇の命により良弁が開基した由緒があり、偶然ですが、昨年の北京講演冒頭と重なりあっています。大仏鋳造発願時、天皇は石山寺に近い紫香楽宮(現信楽町)にいて、甲賀寺で大仏の鋳造を始めたのです。その後、平安時代になって東寺真言宗に改宗し、そのシンボルが現存する日本最古遺構の多宝塔なわけですが、これほど明快に良弁の華厳宗と空海の真言宗が結びついている寺も珍しいかもしれません。
じつは、2月初旬に京大教育学部の集中講義で来日されるブータン史の大家、カルマ・プンツォ博士を鳥取までお連れしようと考えています。昨夏の面談では、鳥取の密教寺院にも興味をもたれていましたが、三徳山も摩尼山も雪深くて入山できないので、奈良の大寺を案内しようと思っていました。昨日、一つのルートが思い浮かびました。京都で東寺をみて、石山寺まで北上し、下って東大寺を参拝する。これで真言密教から華厳宗に遡る旅ができますね。わるくないよ。


うちの嫁は大日如来だな





宝篋印塔とチョルテン
石山寺には重文の宝篋印塔も数多く、じろじろ眺めては、いろいろ考えさせられることがありました。日本の多宝塔・宝篋印塔をチベットのストゥーパ(チョルテン)と比較して思い浮かんだことを箇条書きしておきます。院生が修士論文に活用してくれることを祈りつつ。
1)日本の多宝塔は宝塔に裳階(もこし)をつけた外観二重の塔という理解で建築的には間違いない。ただし、そうみた場合、日本の多宝塔とチベット仏教系のチョルテンはまったく別の構造形式とみなさざるをえない。また、配置についても、本堂等仏堂群の後方(山上側)にあり、伽藍山門の前方(もしくは外側)にチョルテンを配するチベット仏教とは大きく異なっています。
2)一方、宝篋印塔のなかには、塔身(一般には平面=正方形だが、円形の場合もある)を階段状のテラス(基壇)でもちあげた形式がみられる。宝篋印塔の場合、この基壇部が低いと平屋のチョルテン(ブータン風=A型)に近く、基壇部が高いと二重のチョルテン(チベット風=B型)に近くなる。さらに、基壇部が階段状になると立体マンダラの一歩手前の姿(C型)にみえる。
3)チベット式「上円下方」のチョルテンは階段状のテラス(基壇)の上に宝塔を置いたものであり、この点、日本の多宝塔よりも、はるかに宝篋印塔の構造形式に近い。とくに赤碕塔のような塔身円形の場合、チベット式ストゥーパに似ている。徳川家将軍墓所の墓塔もこの形式に近似する。石山寺でも、第3代座主の墓塔が円形平面だが、基壇が低いので平屋の宝塔に近い。
4)宝篋印塔の起源は、中国五代十国時代(10世紀)の呉越王、銭弘俶が多数制作させた阿育王(アショカ王)塔に起源するといい、それが鎌倉時代の日本に影響を与えて宝篋印塔になったという見方が一般的だが、鑑真の荷物にも阿育王塔の様(ためし=1/10模型)が含まれていたという。形状は不明ながら、古式の阿育王塔は唐代に成立していたということか。
5)実際、敦煌壁画にみられる6~8世紀の「宝塔」と宝篋印塔の類似点は少なくない。とくに屋根は、宝塔・多宝塔のような方行ではなく、陸屋根の四隅に隅飾りをつける形式とする。相輪も太くて長い。宝篋印塔が古い宝塔/多宝塔の要素を受け継いでいるようにみえる。ちなみに、四川高原のチベット族民家には、陸屋根の四隅に隅飾りをつけるものが一定地域に集中していた。
6)チベット式チョルテンの場合、上円下方の「下方=階段状テラス(基壇)」が横に幅を広げ高くなることで立体マンダラ化する。壁面に仏像を配する余裕が生まれ、テラスを歩くこともできる。四川・青海の例では、見成塔(四川)→ゴマル寺大塔(青海)の変化を想定できるかもしれない。つまり、チベットの立体マンダラは、「マンダラ(絵画)の立体化」という視点だけでなく、上円下方型チョルテン下方部分の拡大・荘厳化という視点をもって、その成立を考察する必要がある。
7)頭塔やボルブドールは心柱のある舎利塔を最上部においた可能性が高いが、堺市の大野寺土塔に心柱の痕跡はなく、当初から宝塔だったか?
以上、話が却って複雑になったかもしれないが、日本とインド・チベット・中国の系譜関係を考える上で、宝篋印塔は避けて通れないと改めて思うに至った。これから文献を集めます。


