毘沙門天の宝塔

正月6日のBS1をみていると法隆寺講堂の映像が流れ、諸仏が映し出された。毘沙門天像に目を奪われた。掌に宝塔をのせていたからである。一方、毘沙門天の妃にあたる吉祥天は掌に宝珠(マニ)をのせている。宝珠は慈悲、宝塔は知恵のシンボルであるらしい。
法隆寺西院は白鳳期にさかのぼる日本の最古刹だが、講堂は平安中期(たしか990年?)の再建であり、仏像もそれ以降であろうが、少し調べてみると、金堂にも、毘沙門天(と吉祥天)がおかれ、その制作年代は承暦2年(1078)まで下るという。密教伝来以後の彫像である点、注意を要する。空海が日本に招来した密教とともにもたらされたとされる宝塔だが、建造物の遺構としては、慈光寺開山塔(埼玉・1556)、真福寺宝塔(愛知・18世紀)、本門寺宝塔(東京・1828)の3例を残すのみであり、いずれも近世の姿を伝えるにすぎない。平安期の宝塔を直截にイメージさせる貴重な資料が毘沙門天像の掌上にあることを恥ずかしながら初めて知った。
毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)は、バラモン教以前のヴェーダの神であり、仏教が調伏して天部の武勇神とした。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられるが、四天王としては「多聞天」の名を使い、独立の尊格としては「毘沙門天」と呼ばれる。毘沙門天は右手で宝棒(如意棒)をつかみ、左手の掌に宝塔をおく像が主流だが、右と左が反転する場合もある。密教伝来以前からこうした特徴をもったのかどうかは不明ながら、両界曼荼羅では右手が宝棒、左手が宝塔をとなっていて、法隆寺金堂の毘沙門天とは反転している。超小型の宝塔は蓮弁台座の上に膨らみのある壁を有し、屋根は円錐形ないし八角錐形になっていて太くて高い相輪を立ち上げる。それはまんまるの骨壺のようにみえる。屋根は蓋になっているのではないか。
下は空海開創東寺の毘沙門天であり、日本にありながら「唐代の作」という。両界曼荼羅と同じく、右手が宝棒、左手が宝塔になっている。宝塔はミニチュアながら法隆寺に比べるとはるかに建築的である。ただし、蓮弁台座上の壁部分はやはり壺状を呈している。はたして本物の宝塔の壁はどうなっていたのであろうか。

《関係サイト》
毘沙門天の宝塔
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2167.html
中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2183.html
「毘沙門天」展の宝塔
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2189.html