中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究(1)


2月18日(火)、修士学位論文の発表会が開催されました(↑右)。発表準備のため、教授には前日深夜までお付き合いいただきました。この場をお借りて御礼を申し上げます。私の修士論文の題目は、以下のとおりです。
中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究
-構造と配置に関する基礎的考察-
Comparative study on the stupas of the Middle esoteric Buddhism and Tibetan Buddhism
-Basic consideration about their structure and placement -
OKAZAKI Kohei
1.研究の目的と概要
密教の拡散 密教はバラモン教およびヒンドゥ教の盛衰と不可分の関係をもって成立した。インド土着のバラモン教は仏教に気圧されて衰退するが、民間信仰等を取り込みながらヒンドゥ教へ変容していく。ヒンドゥ教はグプタ王朝の庇護もあり、4~5世紀ころから仏教を凌ぐ勢いをもつようになる。仏教側もヒンドゥ教に対抗すべく、バラモン教の呪術的要素を取り入れて密教に脱皮し、初期・中期・後期の三段階に変化しつつ周辺諸国に波及していった。

空海が日本にもたらした密教(真言宗)は体系化された経典・教義を有する中国経由の中期密教(純密)であるのに対して、私たちが近年調査研究を進めているチベット・ブータン仏教は後期密教の変容形と理解される。後期密教は8世紀以降、ヒンドゥ教のシャクティ(女性の性的な力)の影響をうけるとともに、『大日経』が衰退して『金剛頂経』系の教義に偏向することもあり、日本の中期密教とは関係が薄いと考えられてきた。しかしながら、中国の中期密教は7世紀に導入され、8世紀に成熟する一方、チベットでは7世紀に仏教が胎動し始め、8世紀後半になって後期密教が根づいてゆく。つまり、中国とチベットはほぼ同時期に密教が隆盛しており、遅くとも8世紀後半には密教のシンボルたる宝塔やマンダラが両地に伝わっていたであろう。本稿は日本の中期密教に特有な宝塔/多宝塔系の遺構をチベット仏教遺産と比較しつつ、真言密教伝来以前の状況にも考察をめぐらせようとするものである。

宝塔/多宝塔の建築史的定義 宝塔/多宝塔は平安初期以降、空海の密教招来とともに日本もたらされたというのが日本史の常識である。建築史学の定義では、方形の基壇上に伏鉢状の塔身を立ち上げた一重の塔を「宝塔」、宝塔に裳階(もこし)をつけた外観二重の塔を「多宝塔」と呼び分ける(「裳階」とは壁面につける庇)。裳階があることで外観は二階建にみえるが、内部は平屋の宝塔と同じになっている。宝塔建造物の遺構はわずか3例しかなく、いずれも近世以降のものばかりである。多宝塔のほうは、空海開山の高野山金剛峯寺の根本大塔が最初の建造物だが、たびかさなる大火のため、現在の塔は昭和9年の再建のコンクリート造となっている。現存する最古の多宝塔は、鎌倉初期(1194)に遡る滋賀の石山寺多宝塔である。
宝塔/多宝塔の仏教的原義 宝塔の仏教的原義は建築史学の定義とまったく異なる。『法華経』見宝塔品によれば、人々が法華経の教えを広めようとしたとき、無限の規模を有する七宝飾りの美しい塔が地中から涌きだし空中に浮かんだ。そして宝塔の中から、釈迦の説法する法華経を真実として讃える多宝如来の大音声が響きわたる。多宝如来は、遠い過去の東方彼方にあった宝浄国の仏であり、自分の滅後、『法華経』を説くところがあるならば宝塔とともに現れて『法華経』の真実を証明し、宝塔により娑婆世界を浄化する尊格である。多宝如来を自らの座を半分あけて釈迦に座りなさいと招くと、釈迦はその半座に坐り、多宝如来と併座するようになった。この逸話に従う場合、宝塔とは塔の美称であり、多宝塔は多宝如来を奉る塔であって、宝塔と区別されていないことが分かる。


長谷寺銅板法華説相図 7世紀後半に遡るという長谷寺銅板法華説相図は、その銘文に「多寳佛塔」の四文字を含むが、その浮彫は六角三重塔であって、『法華経』の逸話そのままに、塔の初重内部に多宝如来と釈迦の二仏併座を表現している。この六角三重塔の屋根に注目すると、平らな屋根に相輪を3本立ち上げている。あとで類例を示すが、相輪は5本あった可能性が高いと思われる。いずれにしても、平安期以降の宝塔/多宝塔とはまったく異なるスタイルであることに注目すべきである。

毘沙門天像にみる宝塔の変化 近世以前の古い宝塔の形式は、毘沙門天像から推定可能かもしれないと最近考えるようになった。毘沙門天ヴァイシュラヴァナは多聞天とも言う。バラモン教起源の武勇神であり、しばしば妃とされる吉祥天とセットで仏堂に安置されている。そして掌の上に、毘沙門天は宝塔、吉祥天は宝珠をのせている。宝塔は智恵、宝珠は慈悲の象徴と言われている。毘沙門天像に伴う宝塔は研究の盲点であり、これまで注目されることはなかったが、宝塔の変化を知る上で貴重な手がかりであり、このたび新旧45像の資料を収集し、データベース化して密教伝来前後の変化を分析した。

法隆寺金堂多聞天像の宝塔 毘沙門天像はほとんどが平安時代以降のものであるが、唯一奈良時代の作とされるのが愛媛県大洲市如来寺に残る毘沙門天像であるが、残念なことに、宝塔を紛失しており、8世紀の塔の形式を知ることができない。しかし、最古例は飛鳥白鳳期(7世紀中期)に遡る。法隆寺金堂に安置される多聞天像の宝塔は、さきほど紹介した長谷寺銅板法華説相図に表現された宝塔の屋根とよく似ており、平らな屋根に5本の相輪を立ち上げている。時期も重なる。また、奈良国立博物館所蔵の「多宝塔塼仏」は中国西安の遺跡で出土した宝塔の画像資料だが、やはり7世紀中期の三重塔で、初重に釈迦・多宝らしき二仏が併座し、塔の脇に毘沙門天らしき像が描かれ、その掌にはやはり塔をのせている。
真覚寺金剛宝座塔とマハーボディー寺大塔 7世紀の日本の小塔に表現された5つの相輪は北京の真覚寺(五塔寺)金剛宝座塔(1473)を思わせる。金剛宝座とは釈迦が インドのブッダガヤで悟りを開いたときの座であり、金剛宝座塔はブッダガヤにあるマハーボディー大精舎の大塔(5~6世紀)を模して造られたものである。金剛宝座上の四隅と中央にあわせて5基の塔を立ち上げている。7世紀の日本の小さな塔の双輪の数と一致しており、古代日本においてもインドの五塔形式を意識していた可能性がある。

密教伝来後の毘沙門天像 法隆寺金堂には7世紀の多聞天像とは別に、平安期の毘沙門天像(1079)も安置されている。毘沙門天像の掌にのる宝塔は、蓮弁台座の上に膨らみある円形の壁をめぐらせ、円錐形屋根の中央に太くて高い相輪を立ち上げる。それは骨壺、あるいは舎利容器をイメージさせる。密教が伝来した平安期以降、このような「宝塔」風の小塔が主流となるが、壁を膨らませた骨壺形状に特徴がある。ただし、塔身を膨らみのない伏鉢状・円筒状・直方体にする宝塔もあり、その場合はより建築の実体と近い形状だと言える。言い換えるならば、建築模型というべき造形のように思われる。今に残る毘沙門天像は平安後期以降のものが多いので、両者は混在しているが、骨壺型の宝塔が徐々に建築模型タイプに変化していくものと推定している。

毘沙門天と舎利塔の関係-古代中国- 古代インドにおいて、仏界の四方を守護する武勇神が「四天王」であり、そのうち毘沙門天は最も重要な北側を守護する役割を担っていた。四天王はストゥーパの門番でもあったが、毘沙門天像がインドにおいて掌に仏塔をのせることはなかったようだ。大乗仏教がインドから中央アジアを経由して中国に伝わる途中、おそらく新疆ウィグル自治区のホータン国あたりで掌に仏塔をのせるようになったと言われ、そうした姿は南北朝時代6世紀ころの石窟寺院の壁画にも描かれている。文献史料では、7世紀中期の『陀羅尼集経』において初めて「(毘沙門天は)右手を曲げ仏塔をささげる」と記され、また道宣の『関中創立戒壇図経』には、毘沙門天がもつ塔には古い仏舎利が入っていると書いてある。すなわち、毘沙門天の仏塔は舎利塔であり、それゆえ骨壷の形をしているのであって、厳密にいうならば密教の「宝塔」ではないのだが、少なくとも平安期以降の日本において、宝塔の形と似ているのはやはり密教宝塔の影響だと考えざるをえないだろう。

舎利塔と宝塔 それでは舎利塔と宝塔の違いはどこにあるのだろうか。ストゥーパは仏舎利(釈迦の遺骨)を埋葬する墓として成立した。釈迦の入滅後、舎利はインドの八大国王に分配され、8基のストゥーパが建てられた。その100~200年後、マウリア王朝のアショカ王(中国名「阿育王」)が8基のうち7基の仏舎利を取り出して小分けし、84,000基の小ストゥーパを造営したと伝承される。その一部は後漢代に中国まで伝わり、木造楼閣の影響を受けて次第に高層化したと推定される。こうして法隆寺五重塔のような姿に変容したストゥーパではあるけれども、地下に仏舎利を埋め、そこから屋頂までのびる心柱(刹柱)の上に伏鉢と相輪をしつらえる。この伏鉢と相輪こそがストゥーパ原型の残影にほかならない。この場合、とくに重要な意味をもつのは心柱である。塔の内部を心柱が上下に貫く場合、仏像を安置し難い。否、舎利孔の真上に立つ心柱こそが釈迦祭祀の象徴としての意味を担う。

一方、宝塔/多宝塔の場合、すでに述べたように、原義は多宝如来の住まう居処であって心柱は不要である。石山寺多宝塔のような真言宗の塔では本尊「大日如来」像を安置しているし、チベット・ブータン地域では多様な尊格を祀る。とりわけ密教の場合、釈迦は宇宙に存在する複数の如来(ブッダ)の一人と考えており、舎利塔は必ずしも必要な施設ではない。ちなみに、中国の中期密教を成熟させたのは空海の師匠にあたる恵果(746-806)とその師、不空(705-774)であり、敦煌莫崗窟壁画には北周~盛唐(6~9世紀)の宝塔が描かれている。空海以前の遣唐留学僧が密教の教義や宝塔に関する知識をもたなかったはずはなく、奈良時代にその情報が伝わっていないとは考え難い。しかしながら、平安密教的宝塔/多宝塔が奈良時代の日本に存在したという積極的な証拠がないのもまた事実である。【続】

《連載情報》
中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究
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修士論文アブストラクト
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毘沙門天の宝塔
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「毘沙門天」展の宝塔
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