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中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究(2)

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2.密教とストゥーパおよび立体マンダラ

 後期密教とチベット仏教  8世紀後半、吐蕃王朝の時代に北インドの僧パドマサンバヴァ(中国名「蓮華生大師」)がチベット・ブータン地域に後期密教を伝道する。パドマサンバヴァは土着の宗教であるボン教系の「魔女」「悪霊」を調伏し、仏教側の護法尊として取り込みながら、後期密教を巧みに変容させ、チベット仏教の基礎を築いた。771年には「立体マンダラ」式伽藍のサムイェー寺を創建する。この最初期の宗派をニンマ派(古派=紅教)と呼ぶ。「立体マンダラ」の寺院が存在したわけだから、当然マンダラもチベットに伝わっていたはずである。すでに述べたように、チベット仏教のストゥーパは舎利塔ではなく、宝塔の部類に属する。


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 西蔵ギャンツェ地区白居寺大菩提塔は、マンダラを立体化したストゥーパである。15世紀の建築だが、こうした大塔の内側に古い遺構が隠されている可能性は十分ある。この種の立体マンダラというべき大型のストゥーパは、東南アジアの上座部仏教でもみうけられる。下はインドネシア、ジャワ島の世界遺産ボロブドールである。造営は8世紀後半とされるので、日本なら奈良時代後期にあたる。密教が東南アジアまで及んでいた可能性を暗示させる。


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 ブータンのストゥーパ   こうしたストゥーパ・宝塔・立体マンダラの問題を深く理解するため、チベット仏教ストゥーパのデータベース85枚を作成した。ここでは実際に研究室で調査したストゥーパをいくつか紹介する。ブータンの場合、ストゥーパは、山野の聖域に独立して建設されることも少なくない。たとえば、ティンプー川とパロ川の合流地点には、ネパール式・チベット式・ブータン式の三塔が並列されている。ブータンには、ネパール人やチベット人もたくさん住んでいるので、多様なストゥーパが見られるのである。プナカからポプジカに至る途中のラワラ峠には、大基壇上に9基のストゥーパをたちあげるストゥーパがある。金剛宝座塔風にみえる。川の合流点や峠は天地の境界であり、ストゥーパによってその境域の悪霊を浄化するのである。


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 仏教寺院に付属するストゥーパの場合、正門あるいは本堂の正面からかなり離れた位置にストゥーパを配置する。昨年(2019)夏に調査したポプジカ谷の寺院では、両者の距離を測ってみた。まず、ブータン唯一のボン教寺院で7世紀に遡る縁起をもつクブン寺の場合、正門から約150m離れた位置にストゥーパが1棟建っている。ガンテ寺はポプジカ最大の寺院である。南門から約440m離れた参道の行き止まりの位置に壁式ストーパを建てている。


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 四川・青海高原のストゥーパ  チベットに近い四川高原色達のラルンガン大僧院は高地4,000mの地に四千人の修学僧を抱えるニンマ派最大の寺院である。山上の伽藍から数km離れた山下門前の方形区画のなかに大型のストゥーパを規則的に群集させている。 「青海第一の塔」として知られるのゴマル寺では、伽藍正面からかなり離れた位置に立体マンダラ型のストゥーパを設けている。ストゥーパと伽藍との間には、すでに集落が形成されている。同じく青海省同仁県のセンゲマンゴ寺境内の回廊の外側にも、やや小ぶりの立体マンダラがあり、回廊に平行させて小型の白いストゥーパを数多く並べている。このストゥーパ群全体で伽藍を浄化し、守護している。

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 構造と配置の特質 データベースからストゥーパを分類すると、1)1基単独、2)5基程度の並列、3)高い基壇に5~9基を対称配置、4)広い方形区画に多数群集、5)方形段台型仏塔(立体マンダラ)、の5パターンに分けられる。多くは伽藍の外側正面に一定距離をおいてストゥーパを配置するものであり、その役割は伽藍の浄化と守護である。とくに、5)の方形段台型仏塔は、意味的には胎蔵界系マンダラの立体化と考えられるが、構造的には、上円下方ストゥーパの「下方」部分が戒壇状に発達したものとしても理解できる。四川省康定の見成塔は独立した大型のストゥーパだが、「下方」部分を細やかに3段に分節しており、方形段台型への変化の過程を示す例として位置づけることができるかもしれない。


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3.宝塔/多宝塔とストゥーパの比較

 宝塔/多宝塔とストゥーパの異質性 チベット式ストゥーパは、方形の基台上に円形の伏鉢状構造物を立ち上げた上円下方の二重煉瓦積である。日本の木造多宝塔も上円下方ではあるが、構造は宝塔に裳階をつけた平屋であって、外観が二重にみえるにすぎない。両者の構造は大きく異なり、系譜関係を認めることは難しい。配置についても、宝塔/多宝塔は高野山などを例外とすれば、伽藍内部にあり、伽藍正面に離れてストゥーパを配するチベット仏教とは大きく異なる。一方、鎌倉時代以降の日本で流行する宝篋印塔はチベット式ストゥーパと似た構造をしている。


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 宝篋印塔とストゥーパの類似性  古代インドのアショカ王が84,000基の小型ストゥーパを造営し、その一部が後漢代の中国に伝わったとすでに述べた。これを再発見したのが五代十国時代(10世紀)の呉越王、銭弘俶であり、その王はインド式小塔を模倣してやはり84,000基の「阿育王塔」を制作させた。この一部が日本に伝来し、鎌倉時代以降、「阿育王塔」を模倣した石造の宝篋印塔が流行する。宝篋印塔は基壇の上に方形平面の塔身を立ち上げるのが一般的だが、初期の例には塔身を円形にするものが少数含まれる。その代表例が鳥取県琴浦町の赤碕塔(鎌倉後期)であり、この場合、構造は「上円下方」になって、外観がストゥーパに近似する。とりわけ、宝篋印塔に特有な屋根の隅飾りは敦煌壁画に描かれた中国古代中期密教の宝塔とも酷似している。


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 宝篋印塔についても31例のデータベースを作成して検討した結果、基壇の形式を3種類に大別できる。低い基壇に塔身を立ち上げる場合、ブータン式ストゥーパに近く(A型)、基壇部が高いとチベット式ストゥーパに近くなる(B型)。さらに基壇部が階段状になるものもあって、この場合、立体マンダラの一歩手前の姿にみえる(C型)。いずれにしても、木造宝塔/多宝塔よりも、はるかにチベット・ブータン地域のストゥーパと構造の原理が近似している。中期密教及び後期密教のストゥーパの古式の要素の一部を宝篋印塔が受け継いでいる可能性があるだろう。その結果、基本は左下のように低い一重基壇の上に塔身を置くA型だが、基壇を何段か重ねるB型や、基壇を重ねるだけでなく高く持ち上げるC型もある。宝篋印塔は日本建築史のなかではマイナーな存在でしかないが、古代中国やチベット仏教の宝塔と共通する部分が少なくなく、アジア的視野から再評価すべき建築遺産であることを痛感した。


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4.奈良時代に宝塔は存在したか

 東大寺と頭塔  最後に、密教伝来以前の奈良時代に密教的な「宝塔」が存在したか否かについて考えておこう。東大寺は聖武天皇の勅命によって造営された華厳宗の大本山である。752年に毘盧遮那大仏が完成し、758年に大仏殿が竣工した。華厳経の本尊「毘盧遮那」とはサンスクリット語のヴァイローチャナ の漢音訳であり、じつは真言宗の本尊「大日如来」と同じ仏である。この一点からみても、華厳宗はすでに真言宗的な密教の要素を有していた可能性がある。


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 頭塔の発掘調査と復元案  頭塔は東大寺南大門から南へ約1kmのところに所在している。戒壇状を呈する方形段台の壁面に44体の石仏を配した特殊な塔である。大仏殿竣工の9年後、神護景雲元年(767)に初代別当良弁が弟子の実忠に命じて造らせた。方形段台の壁面に釈迦・多宝・弥勒・阿弥陀・毘盧遮那などの44体の多彩な石仏が安置されており、発掘調査以前からボロブドールとの類似性が指摘されていた。なお、頭塔の最上層は遺構が削平されていたが、心柱の痕跡が発見され最上層については舎利塔であることが判明している。奈文研は、1987年から頭塔の本格的な発掘調査に着手し、その調査の過程で五重塔案と七重塔案を呈示したが、柱を立てた痕跡は皆目なく、大方の支持を得られない状況が続いていた。その後、1993年に中国建築考古学の大家、楊鴻勛氏が頭塔の現場を視察し、ほぼ即興で三つの「復元方案」を描かれた。そのうちの「方案之一」は五重塔最上部に巨大なストゥーパを立ち上げる案、「方案之二」は最上層を多宝塔形式にする案であった。チベットや中国西城に現存する方形段台型仏塔(立体マンダラ)を発想源とした復元である。日本人が誰一人として思い浮かばなかったアイデアであり、驚きを禁じ得ないものの、「(円形構造物の)証拠がない」として静観する向きが支配的であった。


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 大野寺土塔の重要性 ところがその後まもなく、境市の大野寺土塔の最上層で円形構造物の基礎の痕跡がみつかり、楊氏の復元案を裏付ける結果となったのだけれども、その円形平面の構造物が平安密教の宝塔のようであったとまでは断言できないかもしれない。土塔は神亀四年(727)に若き日の行基(後の東大寺大僧正)が造立した十三重塔であり、頭塔と同じ戒壇状の段台が12段あるが、壁面に石仏はいっさいなく、また最上層に心柱の痕跡もない。つまり宝塔系の円形構造物を最上層に立ち上げていたのは間違いないのだが、立体マンダラというほどのモニュメントではなく、むしろ巨大な上円下方のストゥーパを想像させる。一方、頭塔は最上層が心柱を有する舎利塔であり、下方にあたる四重の段台の壁面に44体の多様な石仏を安置しており、チベット仏教の方形段台型仏塔や上座部仏教のボロブドールに近似する「立体マンダラ」的な風貌に復元できるであろう。楊鴻勛氏の弟子筋にあたる浅川教授は、楊氏の復元案に刺激を受けながらも、頭塔最上層を小ぶりな八角円堂風にする復元案を発表している[浅川2001]。


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 浄土との距離(垂直軸)を投影する水平軸 復元案の是非はさておき、頭塔と東大寺伽藍との位置関係はチベット仏教におけるストゥーパと伽藍の関係によく似ている。頭塔は南大門の正面約1kmのところに造営された巨大なストゥーパもしくは立体マンダラであった。そして、南大門と頭塔の遠距離性については、浄土(彼岸)と伽藍(此岸)の垂直軸あるいは遠距離性を水平軸に投影させたものであろうと推定される[浅川2019]。


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5.おわりに

 最後に本論の成果と課題をまとめる。

 1)中期密教の末端分布地である日本の場合、宝塔と多宝塔の原義は「多宝如来の住まう美しい塔」という意味であって、両者に区別はなかった。
 2)ストゥーパは仏舎利を埋納する墓として出現したが、チベット仏教(後期密教)の場合、大日如来、阿弥陀如来、文殊菩薩など多彩な尊格を奉る仏堂的性格を有するものであり、その点、日本の宝塔/多宝塔に性格の近い仏塔である。
 3)一方、構造的にみると、日本の多宝塔とチベット仏教のストゥーパが外観上「上円下方」である点は近似するものの、構造原理はまったく異質である。
 4)構造原理という点では、むしろ宝篋印塔がチベット仏教のストゥーパに近く、屋根の隅飾りなどの細部は敦煌壁画の宝塔にも近似している。
 5)平安密教伝来以前の「宝塔」については、飛鳥白鳳期まで遡る長谷寺銅板法華説相図にみえる六角三重塔や法隆寺金堂多聞天像の陸屋根五相輪形式しか証拠がないが、行基造営の大野寺土塔最上層に残る円形基礎跡は平安密教型の宝塔形式が奈良時代に遡る可能性を示唆する唯一の証拠と言える。
 6)東大寺頭塔を立体マンダラもしくは巨大ストゥーパととらえる場合、チベット仏教における伽藍正面に離れて建つストゥーパ群との共通性をみいだせる。【完】
 
《附記》 チベットのストゥーパと日本の宝塔を比較することで、インドを震源地とする密教の拡散が平安時代以前の日本にも及んでいた可能性を証明しようと努力しましたが、思うような成果が得られたとは言えません。しかしながら、日本や中国の中期密教遺産を理解するためには、チベット・ブータン地域の後期密教を学ぶことがおおいに役に立つという認識はまちがっていなかったように今は思っています。なにより、チベット・ブータンの地を五度訪れたことが素晴らしい思い出となりました。教授、会長ほか調査に同行された皆様に深く感謝いたします。(ザキオ)


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《連載情報》
中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2183.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2184.html
修士論文アブストラクト
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-3050.html
毘沙門天の宝塔
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2167.html
「毘沙門天」展の宝塔
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2189.html

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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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