寅さんの風景-マイ・バック・ページ(3)

(4)古写真と分布図にみる町並み
昭和30年代前半の河原の町並みを写した古写真が残っている(図08)。樋口神社祭礼で氏子が踊りながら御輿を曳き街中を練り歩く。家々の軒先に竹を立てて注連縄をつないでいる。東側の住宅は下見板の高二階ばかりで、昭和の建築と思われる。反対側には平屋の建物が多く、図09は実家の北隣にあった小料理屋「ゑびや」の軒先である。屋根はみえないが鉄板で覆われた茅葺きであり、元は町長宅だったという私の旧実家も当初は茅葺きであった。こういう平屋の茅葺き民家は明治期よりも古い可能性がある。幕末にまで遡るかもしれない(後述)。

拙論(1987)では、三つの分布図を作成した(図10~12)。図10は商業系施設の分布図。スクリーントーンで、①店舗併用住宅、②近十年の間に移転もしくは廃業した店舗、③商業専用施設を色分けしたつもりだが、その差は鮮明な仕上げになっていない(反省)。これらのうち、とりわけ「御茶屋」としての遺伝子を受けつぐ料亭・旅館(▲)と小料理屋・レストラン・喫茶店等(●)を特記している。図11は、鉄筋・鉄骨系の大型建物・看板建築・空き家・駐車場の分布を示す。昭和29年ころまで国道53号線に沿って公共施設の建設ラッシュが続いたが、町村合併により1町1中学校の方針となって、学校の統廃合が続いた。その後、国道沿いから公共施設は姿を消し、50年代には国道西側に商業ゾーンが形成される。昭和54年には河原小学校跡地にショッピングセンター「リバー」が誕生。反面、旧道沿いの商店街は衰退し、移転ないし廃業する店が増加した。鳥取市街地から12kmの河原は国道53号を経由する格好のベッドタウンであり、周辺地域から転入してくる世帯が多い。街道に沿う歴史的居住区では後継者に恵まれない老夫婦、独居老人だけの世帯がかなりの割合を占める。そのため、空き家化したり、駐車場になっている宅地が増えた。旧街道地区は、周辺農村と同様に人口減少と老齢化が顕著になる。

↑図10 店舗併用住宅と商業施設の分布(河原1987)

↑図11 近現代建築と空き家・空き地の分布(河原1987)

図12は保全度の高い建造物の分布を示している。いま振り返るに、もう少し緩い基準でみるべきだったと後悔しているが、図12で強調した建造物(群)はとくに景観の優れたものだと思っていただきたい。この4年後にあたる平成3年(1991)に「寅次郎の告白」のロケがおこなわれ、同年末から公開された映画のスクリーンに河原宿の麗しい風景が連続してあらわれる。それは、私が調査した1987年の風景そのものだが、「男はつらいよ」の映像となることで、ようやく県民・町民は地元の町並みの価値に気づいたのではないだろうか。「寅次郎の告白」に映し出された倉吉の町並みはその後、重要伝統的建造物群保存地区(1998)に選定され、若桜鉄道阿部駅は国登録有形文化財(2008)になった。山田洋二監督は文化庁に先行してこれらの文化遺産に目をつけていたわけだが、映画の舞台の中核を担った河原宿だけは取り残され、昭和の風情を失っていく。

(5)A家の変化
新茶屋の少し北側の対面、「ゑびや」の南隣に茅葺きのA家があった。図13は昭和32年ころの写真である。主屋の平面は二列六間取り型(図14)。奥座敷がツノヤのように庭に出っ張っている。昭和33年以降、この茅葺き民家の変化をみると、まず茅葺き屋根を残して、連子風の木柵ができる。ちょっとだけ町家っぽくみえる(図15)。まもなく、屋根は桟瓦葺きに変わる。昭和40年代の茶の間には、真空管のテレビがあった。その後、木柵がコンクリートブロックの壁に造り替えられる(図16)。今は所有者が変わり、主屋は取り壊されて新しい建物になってしまったが、どうやら無住化しているようだ(図17)。「ゑびや」の跡地(駐車場)からみると、昭和40年代に建設したハナレと庭は昔のまま残っている。
先に述べたように、A家や「ゑびや」などの茅葺き民家は建立年代が幕末まで遡る可能性がある。居住者は古ぼけた建物を住み心地のよいモダンな住まいに近づけようと努力し続けてきた。にもかかわらず、家は無住化し売却された。こうした矛盾は県内の至るところで発生したであろう。諸行無常としか言いようがない。




(6)上方往来を描く
2014年秋、まだ「寅次郎の告白」を知らない状態で、私は27年ぶりに河原宿での活動を再開させた。大学2年次の居住環境実習・演習Ⅰ(現在は人間環境実習・演習A)で手描きの連続立面図作成に取り組んだのである(図18・19)。実習・演習に参加する学生は約30名、一人1棟の建物を巻尺や定規を使わずに手描きし、その縮小コピーを貼り合わせることで連続立面図に仕上げると、CADでは表現できない温もりが生まれ、アナログの良さをぞんぶんに味わえる。この試みは、前年の若桜蔵通り(2013)に始まり、上方往来河原宿(2014)、同用瀬宿(2015)、鳥取市立川(2016)、鳥取市稲常(2017)、上方往来智頭宿(2018)と続いて一段落した。
すでに何度も述べたように、上方往来は、鳥取藩主が城下を出て江戸に向かうときに上方まで出る参勤交代路であった。城下に最も近い御茶屋は叶にあり、次の御茶屋が河原にあった。ただし、河原は円通寺の「下の渡し」と渡一木の「上の渡し」の中間にある御茶屋であり、休憩所としては格段に重要な存在であったと思われる。一方、用瀬と智頭は本陣が設置された正式な「宿場馬次」である。河原、用瀬、智頭を訪れると、上方往来のスケール感が見事に一致しており、驚かされる。
居住環境実習・演習Ⅰ(人間環境実習・演習A)により、鳥取側の主要な宿であった河原・用瀬・智頭の連続立面図を作成できたのは大きな成果と言える。また、大原・平福でもフォトスキャンによる連続立面図を作成している。ちなみに、大原・平福は国交省の街並み環境整備事業の対象となり、今では大原が岡山県、平福は兵庫県佐用町の町並み保存地区に選定されており、景観保全が担保されているのがなにより羨ましい。鳥取側で最も保存状況がよいのは智頭である。「智頭宿」が史跡指定され、重要文化財「石谷家住宅」がその中核になっている。用瀬の上方往来にもまだ質の高い大型町家が点々と残っていて、背戸川沿いにも蔵が軒を連ねる(図20・21)。この蔵通りは少々歯抜け状態になってきているが、雰囲気はかなり良い。背戸川は少し幅広で急流になっており、カメラ愛好者がよく撮影にくるのだと地元の方々は誇らしげに語った。
河原宿のスケッチをした2014年には知らないでいた「寅次郎の告白」ではあるが、用瀬宿を描いた2015年にはすでに心酔しており、寅さんは用瀬に来ていないのだけれども、背戸川と因美線のクロスする踏切の傍に立ち、まっすぐにのびる線路の風景に見入っていた。おそらく、河原宿と若桜鉄道阿部駅の風景が重なりあい、「寅さんの風景」をイメージさせたのだろう。【続】





