寅さんの風景-マイ・バック・ページ(9)

5-5 倉吉発見
(1)寅さんは文化庁に先行する
歴史都市としての倉吉を発見したのは山田洋次監督だと私は思っている。倉吉は、打吹玉川重要伝統的建造物群保全地区(重伝建)があるから全国区の町に少しばかり近づいた。コロナの直前まではインバウンドの旅客でも賑わっていた。しかし、映画との前後関係をよく理解しなければならない。「寅次郎の告白」上映は平成3年(1991)、打吹玉川地区の重伝建選定が同10年(1998)であり、7年遅れて(部分的ながら)町並み保全が成就したことになる。若桜鉄道安部駅に至っては、国登録有形文化財になったのが同20年(2008)であり、映画から17年を経ている。こうした年代関係から、私は複数の授業において「寅さんは文化庁に先行する」と講じている。さほどに映画「男はつらいよ」シリーズでの映像化は広報的価値が高いものだと感謝しなければならない。映画館の上映では1本につき200万人以上の客を動員し、その後の反復的TV再放送やビデオの視聴者は無限大のひろがりをみせる。寅マニアはおそるべき数に及び、全国のロケ地を訪問したいという欲求にかられている。

その点、打吹玉川重伝建地区と若桜鉄道安部駅は映画撮影時の景観と現状にほとんど変わりがなく、マニアにとって極上の訪問地だと言える。しかし、倉吉の場合、寅さんを慕い懐かしむ熱気は河原宿や安部駅ほどではないという印象をがある。河原宿で学生たちがヒアリングすると、60代以上の町民の多くは熱く長くロケの想い出を語ってくださる。ヒアリング用紙から溢れんばかりの情報がもたらされ、それでも話が足りなくて、翌日も聞き書きに出かけたことさえある。写真やパンフ、サインなどの資料の提供を受けたことも一度や二度ではない。一方、倉吉人はどこか冷めている。「寅次郎の告白」ロケは印象深い出来事ではあったが、すでに記憶の彼方に飛んでいってしまっており、突出した経験として身体化しているわけではないと感じてしまうのである。風景と係わる場面の差かもしれない。改めて『寅次郎の告白』における突出した風景場面をあげるとすれば、以下になるであろう(登場順)。
一、八東川堰堤前における満男と泉の会話の場面
二、「出会橋前」バス停での寅と女将の別れの場面
三、鳥取を離れる若桜鉄道安部駅の場面
この3つの場面は「男はつらいよ」全50作を通しても抜きんでたシーンと言える。しかし、倉吉の風景は含まれていない。倉吉の麗しい町並みはスクリーンに何度も映し出されるが、視聴者に感銘を与えるほどの「場面」ではなかった、と言えば言い過ぎであろうか。あえて取りあげるとすれば、駄菓子屋のおばあちゃん(杉山とく子)が深夜の自宅で「貝殻節」の弾きかたりをするシーンが印象深いけれども、いくぶん演出過多の匂いもあり、おまけにあのシーンはロケではない。大船撮影所大道具セットでの芝居だと思われる。

さて、倉吉における泉の行動も以下のようなパッチワークになっている。
〈1〉打吹公園(城跡)→〈2〉ひろせや(鍜冶町1丁目・図63)→〈3〉玉川土蔵群→
〈4〉河原町西地蔵(鉢屋川対面)→〈5〉駄菓子屋(玉川対面)→
〈6〉角地の八百屋(鍜冶町2丁目)→〈7〉玉川で子どもたちの魚取り→
〈8〉玉川の三叉路で寅さんと再会→〈9〉駄菓子屋に宿泊(三味線「貝殻節」)
こうして登場順に並べてみると、やはり風景地相互の地理的連携性は希薄だということが分かる。打吹山麓の玉川地区と市街地西端の鉢屋川地区を行ったり来たり、現実にはありえない道筋だが、良い風景ばかり集めて並びを変えているのだから、物語の背景として効果的でないはずがなかろう。


図64 明治26年水害写真にみる鍛冶町2丁目(『天神川の流れとともに』1995)
(2)翳りゆく町並み
いま述べたように、「寅次郎の告白」倉吉ロケは打吹玉川地区(魚町・研屋町・東仲町)だけでなく、市街地西端にあたる河原町・鍜冶町にまで及ぶ(図60)。ロケ当時(1991)、河原町・鍜冶町には打吹玉川地区に比肩しうるだけの町並みが残っていたのである。この町はずれのエリアを私たちは「打吹鉢屋川」地区と仮称している。玉川は中世城下町の内濠(図61)、鉢屋川は外濠(図62)として開削された。鉢屋川の外側を流れる大河川、小鴨川が城下の総外濠とされた。打吹山麓の陣屋に近い玉川周辺は中世城下町の骨格を受け継ぎ、17世紀末までには市街地化していた近世陣屋町のセンター(町なか)であるのに対して、鉢屋川周辺の河原町・鍜冶町は18世紀中期以降、八橋往来に沿って線形に都市化した新興勢力である。鉢屋川(外濠)より内側の鍜冶町はその名のとおり、鍜冶屋などの職人街として栄え、外側の河原町は往来の西口にあたり、とりわけ明治以降、商業の一大拠点となった。


明治26年の水害写真をみると、河原町・鍜冶町には茅葺き民家が軒を連ねている(図64)。それは寄棟造妻入の農家形式であり、この新興の町はずれが元は農地・農村であったことの傍証となる。じっさい、河原町・鍜冶町には10年前まで遡れば7棟の茅葺き民家が存在した(図65・66)。泉ちゃんが訪れた鍜冶屋「ひろせや」もロケ当時は茅葺きであった(図60)。


この地区には町並みの核となるポイントが2ヶ所ある。一つは河原町の旧小川酒造とその正面の五軒長屋(図67・68)、いまひとつは河原町と鍜冶町2丁目の境に形成された五叉路の周辺である(図69)。五叉路の辻の路肩には地蔵を置く。毎年8月23日の地蔵盆の主舞台がここである。地蔵の対面には鉢屋川が流れ、清流に泳ぐ鯉に餌をやって地蔵に願掛けする場所として知られる(図70)。山田監督のお気に召したのはこの五叉路の風景であった。寅さんに出会う前の泉ちゃんが駄菓子やのおばあちゃんに頼まれて豆腐を買いに来る小さな八百屋は鍜冶町2丁目にあり、その反対側に五叉路がある。寅さんに出会う前、悩みながら町歩きする場所の一つとして旧小倉家土蔵・地蔵と鉢屋川に挟まれた小路が登場する。


河原町・鍜冶町の風景は激変した。角地に建つ八百屋はすでにない(図70)。国の重要伝統的建造物保存地区に選定された打吹玉川地区では、再現撮影を試みれば、映画とよく似た画像を写しとれるが、打吹玉川地区ではそうした再現が叶う場所は例外的になっている。1991年の上映時には同等の文化財価値=景観資源としての町並みを維持していた両地区は、町並み保全制度の適用/不適用によって、彼岸と此岸の遠い世界に離れてしまった。
しかしながら、打吹鉢屋地区においても文化遺産継承の動きがないわけではない。旧小川酒造は建造物が登録文化財、庭が登録記念物であったが、2015年に両方が県指定文化財に格上げされ、整備が進んでいる。しかしながら2018年、邸宅全体整備の一環という名の下に、周辺住民の反対を押し切って五軒長屋の解体撤去を敢行する。「打吹鉢屋川重要伝統的建造物群保全地区」の構想を瓦解させた決定的な出来事である。一方、五叉路の周辺でも、東北角の第一鶴乃湯、西南角の天野家住宅などが相次いで撤去され、2015年には東地蔵背面にあたる旧小倉家土蔵を撤去する可能性が浮上したため緊急の調査を実施し、登録文化財申請にむけての準備に着手したところ、県中部地震(2016)で被災し、屋根にブルーシートをかけた状態が長く続いた。ようやく2018年、主屋・土蔵が登録文化財の官報告示を受け、2020年に土蔵の壁・屋根の修復を完了したところである。今後は活用の具体策を講じなければならない。

(3)河原宿と河原町
私の人生と深くかかわる二つの町、旧八頭郡河原町大字河原(上方往来河原宿)と倉吉市河原町が、いずれも「寅次郎の告白」(1991)の映像にあらわれる。前者の正式な呼称は「かわはら」であり、後者は河原町(かわらまち)と読む。音声は異なれども、河原とは川原であり、両地の起源をよくあらわしている。河原宿は千代川(智頭川)の河原に誕生し、河原町は小鴨川の河原に端を発する。中世的な居住地(城下町や村落)からみれば辺地であり、由緒正しき場所ではないけれども、18世紀以降、川と併行する街道(往来)沿いに線型集落を成長させていく。きわめて近世的な新興の街村的集落である。しかも、その景観は両者とも茅葺きをベースにしていた。それは二つの町に限ったことではなく、近世的伝統として、おそらく藩内すべての城下町・陣屋町・宿場などの「都市」が茅葺き一色であったことを十分に想像させる。
河原宿と河原町は、こうした併行の出自を有するが、明治以後にあっても、酒造業を軸とする商業地として併行関係の発展を遂げ、ついには「寅次郎の告白」で共演を果たす。だれでもどこでも抜擢されるわけではない。こうした国民的映画のロケ地となるのは、風景が秀逸であるが故の栄誉というほかない。平成3年(1991)当時、河原宿と河原町は、砂丘や打吹玉川白壁土蔵群や若桜鉄道安部駅(及びしゃんしゃん祭り)とならぶ県内有数の風景地であったことを意味する。
以来、30年近い春秋を数え、撮影地の状況は二極分解している。砂丘(国立公園)や打吹玉川白壁土蔵群(重伝建)や安部駅(登録文化財)は保全を担保されてそこそこの繁栄を遂げ、観光客を集めているのに対し、河原宿と河原町は町並みが激変して全盛期の面影を失い、観光とはほとんど無縁な場所になっている。この良からぬ流れを堰き止めるのは並大抵のことではない。現実的には不可能な状態にまで陥っている。皮肉なことに、両者は風景の崩壊まで併行の道筋をたどった、ということである。こうした起承転結の併行的遷移を「寅次郎の告白」の分析を通して理解した。この映画がなかったら、両者を別個に調査し、別個にまとめるだけで、その類似性に気づくことはなかったであろう。マイ・バック・ページとしての「寅次郎の告白」に感謝するしかない。 【続】

図72 河原宿「新茶屋」でのロケに集まった群衆(中道英俊さん提供)