近代化遺産を往く-秋田紀行(6)


6.失われた近代化遺産
(1)土崎湊と船川港
藩政期、すべての藩に「御蔵」があった。備蓄米や流通物品を収蔵する藩の直営倉庫群である。鳥取藩を例にとるならば、藩内15ヶ所に御蔵があり、その大半は日本海沿岸に設置された。拠点となる大倉庫群は東伯郡の橋津にあり、今は県指定史跡になっている(浅川編『橋津の藩倉』1996)。秋田藩の場合、土崎湊(秋田市)が拠点的直営倉庫群の拠点であった。主に県南から雄物川舟運によって運びこまれた特産品を備蓄・津出しすると同時に、上方などから北前船で運ばれた物資がここに荷揚げされ保管された。当初は5棟あったというが、1991年には存続していた6号蔵(19世紀初)・7号蔵(1880)・8号蔵(同)・10号蔵(18世紀後期)の4棟を調査した(報告書1992:T15)。藩政期に遡る6号と10号は棟持柱を用いる切妻造の板蔵、明治13年に下る7号と8号は洋小屋寄棟造の土蔵であった。いずれの規模も間口40~60mに及ぶ超大型の倉庫群である。調査当時から撤去の噂が絶えず、市民を巻き込んで保存の嘆願書が提出されるなど社会問題になっていく。その顛末については、池田氏が上記『橋津の藩倉』の特論で詳述している。

結果として、一部の倉庫がレストランにリフォームされるなどコンバージョンも試みられたが、十年前までには総ての倉庫が撤去された。その後、大手スーパー「ジェイマルエー」が跡地に店舗を建設したが、開業しないまま、日本通運の支社がその施設を活用している。8月25日(火)夕刻、御蔵の跡地を訪ねたところ、旧スーパーの駐車場に大型トラックが整然と駐車されていた。旧スーパーの建物は運送会社の大倉庫になっていたのである。江戸~明治期の倉庫を撤去して誕生した大型店舗が大倉庫となっているのを目のあたりにし、まるで仏教の説く輪廻のようだと感じ入った。大学実習棟に改装した旧国立新屋農業倉庫のリノベーション成功例を視察した直後の訪問だけに、土崎湊御蔵の撤去をとても残念に思った。土崎には市の図書館もあり、そうした施設との複合は難しかったのか、収蔵施設としての本来の機能を受けつぐ改修をしていれば、運送会社の倉庫として今も機能していただろう、とか、いろんなことを考えたが、失われた建造物が蘇るわけでもない。たられば、を繰り返しても詮ないことである。ただし、同類の倉庫群が新屋では大学の一部として存続してなお持続可能な状態にあり、文化財としての価値を失っていないのに対して、土崎ではレストランに衣替えしたことで持続不能に陥り撤去された、その成功と失敗のプロセスを、今後の教訓として活かさなければならない。持続可能な文化遺産保全の術をわたしたちはこうした経験から学ぶ必要があるだろう。


27日、男鹿市の船川港(報告書2019:T12)を訪れた。船川は古来より船舶の風待港として利用されてきたが、とりわけ明治20年代後半から港の拡充整備が進み、同43年(1910)には港湾調査会から重要港湾指定を受けた。翌44年から本格的な築港がなされ、大正2年(1913)には第一船入場を築造、同5年には船川駅(男鹿駅)が開設され、海陸運送の拠点となる。昭和2年には内務省から第2種重要港に編入され、同5年に5000t岸壁を完成させて外国貿易港としての第一歩を踏み出した。戦後は昭和23年(1948)に特定港、同26年政令によって重要港湾、同40年には国の秋田湾地区新産業都市に指定された。以来、7000t岸壁、15000t岸壁を相次いで築造し、秋田港につぐ県下第二の重要港となる。

まずは、船川第二船入場防波堤を訪れた(図53)。この防波堤は港の近代化をめざした事業の一環として、5000t岸壁・船川防波堤などとともに施工され、昭和5年に完成したものである。間知石積みの防波堤であり、調査時にはすでに中央部250mが堤を加えこんだ形で埋め立てられ、先端80mと後端30mのみが建設当初のまま露出していた(図54)。防波堤の上幅は2.7m、積石は寒風山安山岩で石の奥行を長くとっている。現在、埋め立て地は埠頭や駐車場として利用されており、両端部分は当初のまま露出している(図55)。開発によって急激な変化を遂げた船川港にあっては昭和初期の姿を残す貴重な遺構である。



(左)図56 船川倉庫(報告書1992) (右)図57 船川倉庫跡地(2020年8月)
続いて船川倉庫跡地をめざす。道中、防波堤と同じ間知石積みを護岸に残す水路を発見。船川倉庫の敷地はその近くであり、埋め立て以前の海岸沿いにあたる。船から直接物資の搬出入がおこなわれていたという。大正5年(1916)、同形式の石積み倉庫が3棟並んで建設された。構造主体は木造とするものの、外壁はすべて大谷石の切石積み上げている(図56)。石造のごとくみえる洋風擬きの外観は古風な土崎湊御蔵の意匠から一段階発展したようにもみえる。すでに倉庫は撤去され、宅地となっている(図57)。

最後に船川倉庫跡地前の広大な埋め立て地に建つ「道の駅OGARE」を訪れた。施設の背面側には、国鉄船川駅(現JR男鹿駅)と船川港駅をつなぐ貨物専用線路の一部が復元展示されている(図58)。この路線は、昭和12年6月10日に開通したもので、船川港で荷揚げされた石油・石炭等が運び出され、逆に鉱石・石油等が内陸からこの駅まで運び込まれた。その最盛期は昭和45年(1970)であり、船川港駅で1,362,000tの取扱量を誇っが、平成14年(2002)に廃線になったという。道の駅OGAREはスーパー兼土産物店として多くの客を集めている。そんな現代的施設の一部に旧鉄道の一部を復元展示がなされていることを評価したい。


(左)図59 旧小滝第2発電所(報告書1992) (右)図60 新小滝発電所(2020年8月)
(2)新小滝発電所
8月25日(火)、由利本荘市象潟の小滝発電所跡地(報告書2019:I-22)を訪れた。急流として知られる奈曽川の水力を利用して小滝第1~第4まで4ヵ所の発電所が設けられていた。連続する自流式の発電所であり、第2発電所が最も古く大正8年の木造建築である(図59)。調査時には外装がトタン張りに変わっていたものの、SIEMENS SCHOGKERT(Berlin)の水車と日立製作所(1918)のモーターが現役で稼働していた。また、第4発電所の西側に新発電所をつくることがすでに決まっており、新小滝発電所が稼働し(図61)、秋田県民の生活を支えている。

調査時から発電所に近接する近代化遺産として注目していたのが、奈曽川に架かる羽越本線の鉄橋橋梁である(図61)。河川敷から見上げるその姿は「寅さんの風景」そのものであり、昭和の哀愁を感じさせる。そしてもう一つ目を引いたのが発電所前に建つ廃業したラブホテルである(図62)。調査時には健在であったと記憶する。ゲートの看板が剥がれ落ちており、まるでゴーストタウンのような赴きがあり、時の風化を感じさせる。これもまた近代化遺産の一つと言えるのかもしれない。

(3)天神荘
26日(水)の夕方、能代市二ツ井町の合川営林署「天神荘」(報告書2019:I04)跡地を訪れた。昭和5年(1930)、七座営林署が新設され、2年後に同署所轄の天神貯木場の事務所および宿泊施設として本館が建設された。昭和26年に事務所が廃され、「天神荘」と命名され福利厚生施設となった(図63・64)。しかし、調査時から利用頻度は高くなく、建物の劣化が進んでおり、平成7年(1995)に登録有形文化財の告示を受けるも、撤去の噂が絶えない状態だったという。それというのも、当地は米代川の流路が湾曲する地点に位置しているため、増水時には何度も被害を受けており、平成17年の水害が決定打となって登録を抹消されている。


いまや建物は跡形もなく、数台停車可能な駐車場となっている。現在、七座山原生林の雰囲気を味わうトレッキングコースが整備されており、天神荘の跡地はその入山口の一つとして駐車場・トイレ・案内板が整備されている(図65・66)。(井上・浅川)



《連載情報》近代化遺産を往く-秋田紀行
(1)近代化遺産と町並み
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2271.html
(2)発酵の未来
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2272.html
(3)土木遺産の現状-複合遺産としての性格
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2269.html
(4)学校リノベーション
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(5)小坂鉱山の遺産群と環境緑化
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2273.html
(6)失われた近代化遺産
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2270.html
(7)秋田に学ぶ過疎地の未来像
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2274.html