紙子谷ハイキング(3)

石燈籠の拓本から読み解く二つの神社
紙子谷の重文「福田家住宅」の東隣に社務所があり、その門前に石鳥居、さらにその前の三叉路の路肩に2基の石燈籠が立っている。てっきり紙子谷神社の社務所と石灯籠と思い込んでいたのだが、6日の実習・演習C班による灯籠刻銘の拓本調査により、石燈籠の正面には「意上奴神社」と記されていることが明らかになった。このほか紙子谷神社本殿覆屋の脇に1基、参道上り口にも1基の計4基の灯籠があり、上から順番に灯籠1・2・3・4と番付し、C班のメンバーに拓本を採取してもらった。正直、石の表面が粗いので、社寺の絵様を写すときのように、鮮明な模様や文字は浮かびでてこない。写真と拓本の両方を視ることによって、崩し字以外はなんとか判読できる状態になった。

6日に採取した拓本データが学生から次々と送信されてくるなか「意上奴神社」の実態がみえてこないので、少々ネットで情報を集め、10日に一人で現地を再訪した。改めて社務所の表札を確認すると、「意上奴神社 祢宜谷神社 紙子谷神社(ここまで上段) 大谷神社 広岡神社 舟木神社 桂木神社」の七社の社務所兼祈祷殿となっており、その総社が石上奴(いがみぬ)神社であり、江戸期には「七柱大明神」と呼ばれていたという。
社務所門前正面左側に立つ大きな灯籠3の解読から手をつけた。側面に以下の記載あり。
(灯籠3) 文久三年癸亥三月吉日
地区献立福田□平次 *おそらく□は「家」
文久3年(1863)癸亥(みずのと・い)の三月、地区の(氏子代表である)福田家平次が献立した、と書かれている。福田家の寄進は灯籠2にも記してあり、神社に対する影響の強さがうかがわれる。

灯籠3の対面にある灯籠4は新しくみえる小ぶりの献灯だが、由緒は灯籠3よりも古いようだ。
(灯籠4) 天保二年辛卯八月
御大典記念為
昭和三年十月再工
天保2年(1831)辛卯(かのと・う)八月、天保2年8月寄進の石燈籠を昭和天皇御大典記念の為、昭和3年10月に再建したと解釈できる。(この部分の解釈は駒井氏のご教示を得た)

紙子谷神社の灯籠銘文についても、ここで記しておく。
(灯籠1)本殿覆屋脇
文化十二年乙亥三月吉日
文化十二年(1815)乙亥(きのと・い)三月に本殿脇の石燈籠を設置したということだが、前報で述べたように、それは小型流造本殿の建築年代と一致する可能性があるだろう。ただし、当初材は向拝などの虹梁型頭貫などに限られる。厳密に言うならば、本殿の年代は不詳ながら、石灯籠の年代としては最も古いことには注目せざるをえない。
(灯籠2)参道入口
明治三十九年丙午六月吉日
地〇献上福田□造 *おそらく〇は「区」、□は「家」
明治39年(1906)丙午(ひのえ・うま)六月にやはり地区の代表者である福田家が造立したものであろう。

↓(左)灯籠1 (右)灯籠2



意上奴神社の神域
地図で検討すると、社務所門前の灯籠から意上奴神社(香取)までは約1.5kmあり、途中真っ赤に塗られた一の鳥居から空山方面に向かって境内地まではさらに800mあるという。現地訪問した10日は雨上がりの状態であり、境内地近くの池まで至ったが、そこからの参道(山道)を歩いての本殿参拝は断念した。ネット上の画像を確認すると、渓流に沿う参道(山道)には石段が連なり、その最奥の地に大振りの覆屋があって、内部にある本殿の唐破風向拝が目を引く。おそらく切妻妻入系であろうから、大社造の圧縮変形の可能性があるかもしれない。
http://www.komainu.org/tottori/tottorisi/inugami/inugami.html


意上奴神社 一の鳥居 同社 旧社務所跡地?
このあたりの小字を「香取」という。原生林がひろがっており、一帯は県の自然環境保全地域に指定されている。それは意上奴神社の社叢にほかならない。意上奴神社は式内社である。平安時代までは歴史が遡るということだが、神社名称はさらに古式を示し、「意上奴(いがみぬ)」を記紀流に読むと「おかみの」になるのだという。たしかに『出雲国風土記』では、「意宇」という地名を「おう」と読む。この説に従うならば、意上奴神社は「おかみ」の神社ということになるわけだが、「おかみ」を御神ではなく、蛇神(水神)とみる意見があるようだ。たしかに、香取から祢宜谷のあたりにかけて小さなため池が少なくない。
http://engishiki.org/inaba/bun/inb410202-01.html


祢宜谷と神子谷
どうやら紙子谷神社と祢宜谷神社は、総社=意上奴神社の摂社にあたる境外社であることがみえてくる。ただし、おそらく序列があって、紙子谷社務所の表札にみえる上段の右寄りが格上と思われる。具体的には、意上奴、祢宜谷、紙子谷の順に神社が並べられている。ただし、下段の4社(大谷・広岡・舟木・桂木)のようにただの地名を冠した摂社ではない。「祢宜谷」の祢宜は、いうまでもなく、宮司を補佐する神職を意味する。一方、「紙子谷」の元の名は「神子谷」であり、紙子(かご)=神子(みこ)を意味する。この場合、ランクとしては、祢宜>神子である。10日は、祢宜谷神社の旗竿のある位置を確認したにとどまったが、ネット上の写真をみると、本殿覆屋は二段構えで規模はかなり大きい(本殿自体の様式は不明)。
https://www.google.com/maps/place/%E7%A5%A2%E5%AE%9C%E8%B0%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@35.4363051,134.2533282,15z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x396d25cb9d7f61de!8m2!3d35.4363051!4d134.2533282
大学に近接する「紙子谷」と「祢宜谷」という地名は、以前から気にはなっていて、まとまった神域をなしていたのだろうという漠然とした意識をもってはいたが、このたび人間環境実習・演習Aの一環で石燈籠の拓本を取ったことから、これは本格的な調査研究に値する地域だと思うに至っている。来年あたり、だれか卒論で取り組んでくれるとよいが、それがなくとも、来年・再来年の実習・演習で意上奴・祢宜谷両社の概略的な知見を得ることはできるだろう。
とくに気になっているのは、意上奴・祢宜谷・紙子谷の三社が山上の森(=杜)のなかに境内をおいていることであり、ひょっとすると、社(=杜)の起源は本殿などの建築物が存在しなかった古代の森(=杜)にまで遡るかもしれない。『出雲国風土記』のような世界がみえてくるならわくわく感がとまらなくなるだろう。


《連載情報》紙子谷ハイキング
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2286.html
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