2020年度卒業論文(4)-構成と中間報告
チベット・ブータン仏教とボン教の歴史的相関性に関する予備的考察
Preliminary study on the historical relation between Tibetan-Bhutanese Buddhism and Bonism
S.Fujii
第1章 研究の目的と概要
1-1 ブータン調査の足跡
(1) ブータンの崖寺と瞑想洞穴 -第1~4次調査
(2) 民家仏間の考現学 -第5・6次調査
(3) ブータン仏教の調伏と護法尊 -第7・8次調査
1-2 中国側チベット族居住区の踏査
(1)青海省チベット仏教僧院の視察(2015)
(2)西蔵自治区ラサとツェタンを訪ねて(2016)
(3)西北雲南調査―梅里雪山遥拝(2018)
(4)四川高原の仏教遺産(2019)
1-3 ブータン第8次調査に参加して
1-4 研究の目的
(1) 仏教の調伏と護法尊-異教神霊の浄化と再生
(2) ボン教寺院クブン寺との出会い
1-5 今年度の研究方法
(1) 新型コロナウイルス感染症の影響
(2) ボン教に関わる文献研究
2.ボン教の起源と変容
2-1 ボンとは何か―その起源と展開
(1) 発祥の地―象雄地域と聖地カイラス山
(2) シバ・ボン
(3) ユンドゥン・ボンと開祖 シェンラプ・ミウォ
(4) 百度百科とウィキペディアの矛盾
(5) ブータン史のなかのボン教
2-3 ボン教の時期区分試論
(1) 推定Ⅰ期:プレ仏教期
(2) 推定Ⅱ期:ニンマ派仏教との交流期
(3) 推定Ⅲ期:仏教化推進期
2-4 ボン教東遷
(1)チベット仏教諸派林立とボン教の敗北
(2)カム地方への東遷
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2142.html
(3)寺院壊滅と復興-文化大革命
3.中国側ボン教の研究史
3-1 ボン教研究総論
3-2 文化史的研究
(1)1990年代
(2)2000年代
(3)2010年代
3-3 建築学的研究
(1)1990年代
(2)2000年代
(3)2010年代
4.仏笨習合の白と黒
4-1 チベット仏教の調伏と土着的信仰
(1)調伏とは何か
(2)護法尊と忿怒尊
(3)ドゥクパ・クンレーとアムチョキム
(4)非仏教系信仰とボン教の識別
4-2 白と黒の対立と融合
(1)ボン教神話の双子
(2)仏教の瞑想洞穴
5.ポプジカの経験
5-1 クブン寺再考
(1)寺院の概要
(2)寺院の配置と遺跡
(3)深奥の黒い部屋
(4)ニンマ派とボン教の習合
5-2 ガンテ寺仏教大学長との対話
(1) 瞑想修行
(2) 白ボンと黒ボン
(3) ボン教に対する仏教のコンプレクス
5-3 ボン教以外の土着信仰
(1) ファルス崇拝
(2) 稲霊信仰
(3) その他
6.成果と展望
6-1 仏教とボン教の歴史的相関性に関する整理
6-2 今後の調査にむけて
(1) 推定Ⅱ期遺構の調査-クブン寺再訪
(2) 推定Ⅲ期-旧チベット領白ボン寺院の調査
(3) ボン教を信仰する村の調査-東遷中枢カム地方ギャロン語圏
謝辞
参考文献・サイト
Preliminary study on the historical relation between Tibetan-Bhutanese Buddhism and Bonism
S.Fujii
第1章 研究の目的と概要
1-1 ブータン調査の足跡
(1) ブータンの崖寺と瞑想洞穴 -第1~4次調査
(2) 民家仏間の考現学 -第5・6次調査
(3) ブータン仏教の調伏と護法尊 -第7・8次調査
1-2 中国側チベット族居住区の踏査
(1)青海省チベット仏教僧院の視察(2015)
(2)西蔵自治区ラサとツェタンを訪ねて(2016)
(3)西北雲南調査―梅里雪山遥拝(2018)
(4)四川高原の仏教遺産(2019)
1-3 ブータン第8次調査に参加して
1-4 研究の目的
(1) 仏教の調伏と護法尊-異教神霊の浄化と再生
(2) ボン教寺院クブン寺との出会い
1-5 今年度の研究方法
(1) 新型コロナウイルス感染症の影響
(2) ボン教に関わる文献研究
2.ボン教の起源と変容
2-1 ボンとは何か―その起源と展開
(1) 発祥の地―象雄地域と聖地カイラス山
(2) シバ・ボン
(3) ユンドゥン・ボンと開祖 シェンラプ・ミウォ
(4) 百度百科とウィキペディアの矛盾
(5) ブータン史のなかのボン教
2-3 ボン教の時期区分試論
(1) 推定Ⅰ期:プレ仏教期
(2) 推定Ⅱ期:ニンマ派仏教との交流期
(3) 推定Ⅲ期:仏教化推進期
2-4 ボン教東遷
(1)チベット仏教諸派林立とボン教の敗北
(2)カム地方への東遷
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2142.html
(3)寺院壊滅と復興-文化大革命
3.中国側ボン教の研究史
3-1 ボン教研究総論
3-2 文化史的研究
(1)1990年代
(2)2000年代
(3)2010年代
3-3 建築学的研究
(1)1990年代
(2)2000年代
(3)2010年代
4.仏笨習合の白と黒
4-1 チベット仏教の調伏と土着的信仰
(1)調伏とは何か
(2)護法尊と忿怒尊
(3)ドゥクパ・クンレーとアムチョキム
(4)非仏教系信仰とボン教の識別
4-2 白と黒の対立と融合
(1)ボン教神話の双子
(2)仏教の瞑想洞穴
5.ポプジカの経験
5-1 クブン寺再考
(1)寺院の概要
(2)寺院の配置と遺跡
(3)深奥の黒い部屋
(4)ニンマ派とボン教の習合
5-2 ガンテ寺仏教大学長との対話
(1) 瞑想修行
(2) 白ボンと黒ボン
(3) ボン教に対する仏教のコンプレクス
5-3 ボン教以外の土着信仰
(1) ファルス崇拝
(2) 稲霊信仰
(3) その他
6.成果と展望
6-1 仏教とボン教の歴史的相関性に関する整理
6-2 今後の調査にむけて
(1) 推定Ⅱ期遺構の調査-クブン寺再訪
(2) 推定Ⅲ期-旧チベット領白ボン寺院の調査
(3) ボン教を信仰する村の調査-東遷中枢カム地方ギャロン語圏
謝辞
参考文献・サイト
チベット仏教は失われた古代インド仏典の直訳に近い体系的な経典を残すことから、古代インドの代替モデルとして、明治期以降の日本の仏教者や西欧の宗教学者から憧憬のまなざしを集めてきた。しかし、ブータンを実際に訪れてみると、ボン教・ファルス崇拝・アニミズム・稲魂信仰など、複数の土着的信仰と仏教(後期密教)の習合が鮮明に認められ、古代インド仏教のモデルたる地域ではないことが歴然としている。
1.仏教の発祥・拡散と調伏
仏教が前6~5世紀に北インドで発祥し、周辺に拡散・定着していく過程において、仏教に先んじて浸透していた異教の神霊を、仏教の瞑想や祈祷により浄化し、仏教側の護法尊として取り込む「調伏」をおこなってきた。よく知られている例をあげるならば、四天王や帝釈天などの天部諸神も元はバラモン教の武勇神であり、また、神仏習合の本地垂迹説も類例に含まれるかもしれない。
7世紀前半、仏教がヒマラヤ山麓へ伝播する。吐蕃王朝の初代王ソンツェンガンポがチベット高原を制圧して仏教に帰依し、12の拠点的な僧院を築いたと伝承される。この12僧院はヒマラヤを支配する「魔女」を磔にして大地を浄化しようと企図したものと言われる。先行して信仰されていたボン(笨)教を邪教視して、その女神を「魔女」とみなし、仏教の修法によって調伏しようとする最初の試みと言えるかもしれない。8世紀後半になり、北インドの僧パドマサンバヴァ(後のグル・リンポチェ)がチベットとブータンに後期密教を伝える。グルがブータンを訪問し、タクツァン僧院等で数か月に及ぶ瞑想をしたのは「悪霊」浄化を目的としていた。こうした調伏は、土地の首領に統治権を与える植民地政策との類似性を感じさせる。
2.ドゥクパ・クンレーとアムチョキム
極めつけは中世の怪僧ドゥクパ・クンレーである。クンレーはチベット・ブータン地域の谷筋を訪ね歩き、巨大な金剛(ファルスの比喩)によって谷奥に潜む魔女を次々と調伏していったと伝承される。ブータンではプナカのチメラカン寺本堂の仏壇手前右隅に護法尊アムチョキムの立像を配置している。アムチョキムこそクンレーが金剛で調伏した「魔女」であり、クンレーによって黒いストゥーパの地下に封じ込めたとされながら、今でも流域の守護神として崇められている。周辺の家では、クンレーの活躍に因み、ファルスを壁に大描きし、軒先にファルスの木彫りを吊るし魔除けとしている。
ドゥクパ・クンレーの時代(中世期)、チベット仏教は諸派林立の時代を迎えていた。パドマサンバヴァのニンマ派(古派)は存続していくが、チベットでは14世紀にゲルク派、ブータンでは17世紀にドゥク派が覇権を握る。こうした国教宗派の差異は、思いのほか両国の関係を疎遠にしている。しかしながら、ブータン国教ドゥク派の開祖パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184-)は旧チベット領カム地方の出身であり、17世紀にドゥク派と合流してブータンを建国したガワン・ナムゲル(1594-)もチベットからの亡命者である。
3.仏笨習合の白と黒
調査を進めていく中で、白壁と黒壁の瞑想洞穴ドラフのうちでは軽視されがちな「黒壁の瞑想洞穴」の重要性に気が付いた。ブータン(及びチベット)において、白は「善」、黒は「悪」を象徴する色彩である。ブータンでは、先行土着のボン教の黒い神霊を調伏し、仏教側の白い護法尊として再生し続けている。それは人間の邪悪な心(黒)を浄化して仏性(白)に消化し悟りに至る行為と軌を一にしている。後者の場合、黒い邪な心を浄化して再生された尊格を「憤怒尊」と位置づけ、護法尊と近い扱いにしている。
ボン教起源の尊格を仏教側の護法尊として再生産する行為はあらゆる谷筋で普遍的かつ多様に展開しており、2019年には、ポプジカに残るブータン唯一のボン教寺院「クブン寺」を訪問した。表向きはニンマ派の仏教僧院とされているが、内部2階の奥にはボン教の秘仏を祀る黒壁の隠し部屋が存在する。
ボン教は白ボン(ボンカル)と黒ボン(ボンナグ)の2種類に大別される。2019年9月の第8次調査でヒアリングしたガンテ寺仏教大学長ケンポ―・ワンチュク氏曰く、「白ボンは仏教と同じくらい古い起源を有し、今も信仰されている上、仏教と似た要素を持っている。一方、黒ボンはより古く、動物を殺す狩猟を許可し、自然崇拝的な要素が強く、仏教とは異なる面が多い」という。この言に従うならば、黒ボンの発祥は仏教より早いと仏教側が自覚していることが分かる。こうした歴史的前後関係に引け目を感じないためにも、ボン教の神霊を調伏し、仏教側に取り込む必要があったのではないだろうか。チベット・ブータン仏教の場合、インドで発祥した後期密教の代表例ではあるけれども、インド仏教の代替モデルというほどではなく、むしろボン教やアニミズムなどとの習合が顕著に認められる。換言するならば、ボン教等の自然崇拝系信仰の理解なくして、チベット・ブータン仏教は理解しえないであろう。
ブータン側では絶滅状態にあるボン教寺院の研究史は希薄だが、中国側には少なからずボン教寺院が残っている。2019年8月に研究室メンバー2名が実施した四川高原調査では、カンゼ・チベット族自治州の色達(セルタ)県近郊で、集落の中央にボン教寺院を構え、河水の対岸にストゥーパを設置する例を確認している。今年度は再度四川に飛び、ボン教寺院と周辺の民家集落を調査する予定だったが、コロナ禍の影響で叶わなかった。
4.今後の課題
先月から検索を始めたばかりだが、チベット(西蔵)のボン教寺院については、以下のような和文・英文の関係文献を若干入手し講読を始めている。
(1)小西賢吾(2017)「チベット族とボン教のフィールドワーク―縁をたぐり寄せ、できることをすること」、西沢治彦・河合洋尚編『フィールドワーク 中国という現場、人類学という実践』風響社:pp.137-153
(2)テンジン・ワンギェル・リンポチェ(梅野泉訳2007)『チベッタン・ヒーリング 古代ボン教・五大元素の教え』地湧社
(3)永野泰彦・森雅秀編(2019)『チベットの宗教図像と信仰の世界』風響社
(4)R・A・スタン(山口瑞鳳・定方晟訳1993)『チベットの文化 決定版』岩波書店
(5)青木文教(2009)『近代チベット史叢書2 西蔵の民族と文化』慧文社
(6)光嶌督(1992)『ボン教学統の研究』風響社
(7)光嶌督(1985)『ボン教・ラマ教史料による吐蕃の研究』成文堂
(8)中沢新一編(1994)『季刊 仏教(特集チベット)』no.26、法蔵館
(9)Ph. D. Tadasu MITSUSHIMA & Mr. Kalsang Namgyal(1999)SOURCES FOR A HISTORY OF BONISM, No.1~5 財団法人 西原育英文化事業団
一方、中国語の関係文献については、複数の中国書店に問い合わせたのだが、ボン(笨)教関係の書籍はないとの返信ばかりであった。しかし、前期に中国語の基礎を学んだこともあり、百度(ヤフーに相当する中国の検索エンジン)や百度百科(wikipediaに相当)で「笨教」を検索し、関係サイトを読み込んでいきたい。たとえば、
https://baike.baidu.com/item/笨教
には、笨教の起源と概要が要領よくまとめてある。
こうした文献研究だけで十分な理解はなしえないであろうが、チベット・ブータン地域の仏笨習合の状況をある程度見通すことができると予想している。そして、その成果は来年度以降の調査の礎になるものと期待している。
《参考文献》
吉田 侑浩(2019)「ブータン民家仏間の考現学-諸神仏の配置と調伏の構図-」平成30年度公立鳥取環境大学卒業論文
谷 愛香(2020)「ブータン仏教の調伏と護法尊に関する基礎的研究―黒/白の対立と融合―』令和元年度公立鳥取環境大学卒業論文
1.仏教の発祥・拡散と調伏
仏教が前6~5世紀に北インドで発祥し、周辺に拡散・定着していく過程において、仏教に先んじて浸透していた異教の神霊を、仏教の瞑想や祈祷により浄化し、仏教側の護法尊として取り込む「調伏」をおこなってきた。よく知られている例をあげるならば、四天王や帝釈天などの天部諸神も元はバラモン教の武勇神であり、また、神仏習合の本地垂迹説も類例に含まれるかもしれない。
7世紀前半、仏教がヒマラヤ山麓へ伝播する。吐蕃王朝の初代王ソンツェンガンポがチベット高原を制圧して仏教に帰依し、12の拠点的な僧院を築いたと伝承される。この12僧院はヒマラヤを支配する「魔女」を磔にして大地を浄化しようと企図したものと言われる。先行して信仰されていたボン(笨)教を邪教視して、その女神を「魔女」とみなし、仏教の修法によって調伏しようとする最初の試みと言えるかもしれない。8世紀後半になり、北インドの僧パドマサンバヴァ(後のグル・リンポチェ)がチベットとブータンに後期密教を伝える。グルがブータンを訪問し、タクツァン僧院等で数か月に及ぶ瞑想をしたのは「悪霊」浄化を目的としていた。こうした調伏は、土地の首領に統治権を与える植民地政策との類似性を感じさせる。
2.ドゥクパ・クンレーとアムチョキム
極めつけは中世の怪僧ドゥクパ・クンレーである。クンレーはチベット・ブータン地域の谷筋を訪ね歩き、巨大な金剛(ファルスの比喩)によって谷奥に潜む魔女を次々と調伏していったと伝承される。ブータンではプナカのチメラカン寺本堂の仏壇手前右隅に護法尊アムチョキムの立像を配置している。アムチョキムこそクンレーが金剛で調伏した「魔女」であり、クンレーによって黒いストゥーパの地下に封じ込めたとされながら、今でも流域の守護神として崇められている。周辺の家では、クンレーの活躍に因み、ファルスを壁に大描きし、軒先にファルスの木彫りを吊るし魔除けとしている。
ドゥクパ・クンレーの時代(中世期)、チベット仏教は諸派林立の時代を迎えていた。パドマサンバヴァのニンマ派(古派)は存続していくが、チベットでは14世紀にゲルク派、ブータンでは17世紀にドゥク派が覇権を握る。こうした国教宗派の差異は、思いのほか両国の関係を疎遠にしている。しかしながら、ブータン国教ドゥク派の開祖パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184-)は旧チベット領カム地方の出身であり、17世紀にドゥク派と合流してブータンを建国したガワン・ナムゲル(1594-)もチベットからの亡命者である。
3.仏笨習合の白と黒
調査を進めていく中で、白壁と黒壁の瞑想洞穴ドラフのうちでは軽視されがちな「黒壁の瞑想洞穴」の重要性に気が付いた。ブータン(及びチベット)において、白は「善」、黒は「悪」を象徴する色彩である。ブータンでは、先行土着のボン教の黒い神霊を調伏し、仏教側の白い護法尊として再生し続けている。それは人間の邪悪な心(黒)を浄化して仏性(白)に消化し悟りに至る行為と軌を一にしている。後者の場合、黒い邪な心を浄化して再生された尊格を「憤怒尊」と位置づけ、護法尊と近い扱いにしている。
ボン教起源の尊格を仏教側の護法尊として再生産する行為はあらゆる谷筋で普遍的かつ多様に展開しており、2019年には、ポプジカに残るブータン唯一のボン教寺院「クブン寺」を訪問した。表向きはニンマ派の仏教僧院とされているが、内部2階の奥にはボン教の秘仏を祀る黒壁の隠し部屋が存在する。
ボン教は白ボン(ボンカル)と黒ボン(ボンナグ)の2種類に大別される。2019年9月の第8次調査でヒアリングしたガンテ寺仏教大学長ケンポ―・ワンチュク氏曰く、「白ボンは仏教と同じくらい古い起源を有し、今も信仰されている上、仏教と似た要素を持っている。一方、黒ボンはより古く、動物を殺す狩猟を許可し、自然崇拝的な要素が強く、仏教とは異なる面が多い」という。この言に従うならば、黒ボンの発祥は仏教より早いと仏教側が自覚していることが分かる。こうした歴史的前後関係に引け目を感じないためにも、ボン教の神霊を調伏し、仏教側に取り込む必要があったのではないだろうか。チベット・ブータン仏教の場合、インドで発祥した後期密教の代表例ではあるけれども、インド仏教の代替モデルというほどではなく、むしろボン教やアニミズムなどとの習合が顕著に認められる。換言するならば、ボン教等の自然崇拝系信仰の理解なくして、チベット・ブータン仏教は理解しえないであろう。
ブータン側では絶滅状態にあるボン教寺院の研究史は希薄だが、中国側には少なからずボン教寺院が残っている。2019年8月に研究室メンバー2名が実施した四川高原調査では、カンゼ・チベット族自治州の色達(セルタ)県近郊で、集落の中央にボン教寺院を構え、河水の対岸にストゥーパを設置する例を確認している。今年度は再度四川に飛び、ボン教寺院と周辺の民家集落を調査する予定だったが、コロナ禍の影響で叶わなかった。
4.今後の課題
先月から検索を始めたばかりだが、チベット(西蔵)のボン教寺院については、以下のような和文・英文の関係文献を若干入手し講読を始めている。
(1)小西賢吾(2017)「チベット族とボン教のフィールドワーク―縁をたぐり寄せ、できることをすること」、西沢治彦・河合洋尚編『フィールドワーク 中国という現場、人類学という実践』風響社:pp.137-153
(2)テンジン・ワンギェル・リンポチェ(梅野泉訳2007)『チベッタン・ヒーリング 古代ボン教・五大元素の教え』地湧社
(3)永野泰彦・森雅秀編(2019)『チベットの宗教図像と信仰の世界』風響社
(4)R・A・スタン(山口瑞鳳・定方晟訳1993)『チベットの文化 決定版』岩波書店
(5)青木文教(2009)『近代チベット史叢書2 西蔵の民族と文化』慧文社
(6)光嶌督(1992)『ボン教学統の研究』風響社
(7)光嶌督(1985)『ボン教・ラマ教史料による吐蕃の研究』成文堂
(8)中沢新一編(1994)『季刊 仏教(特集チベット)』no.26、法蔵館
(9)Ph. D. Tadasu MITSUSHIMA & Mr. Kalsang Namgyal(1999)SOURCES FOR A HISTORY OF BONISM, No.1~5 財団法人 西原育英文化事業団
一方、中国語の関係文献については、複数の中国書店に問い合わせたのだが、ボン(笨)教関係の書籍はないとの返信ばかりであった。しかし、前期に中国語の基礎を学んだこともあり、百度(ヤフーに相当する中国の検索エンジン)や百度百科(wikipediaに相当)で「笨教」を検索し、関係サイトを読み込んでいきたい。たとえば、
https://baike.baidu.com/item/笨教
には、笨教の起源と概要が要領よくまとめてある。
こうした文献研究だけで十分な理解はなしえないであろうが、チベット・ブータン地域の仏笨習合の状況をある程度見通すことができると予想している。そして、その成果は来年度以降の調査の礎になるものと期待している。
《参考文献》
吉田 侑浩(2019)「ブータン民家仏間の考現学-諸神仏の配置と調伏の構図-」平成30年度公立鳥取環境大学卒業論文
谷 愛香(2020)「ブータン仏教の調伏と護法尊に関する基礎的研究―黒/白の対立と融合―』令和元年度公立鳥取環境大学卒業論文