《卒論》過疎と地域祭礼 ―静岡の袋井祭りと倉吉の地蔵盆にみる持続可能性の諸問題―

2月10日(水)にオンラインの卒業研究発表会が行われました。当日発表した発表内容と概要を報告させていただきます。卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。
過疎と地域祭礼―静岡の袋井祭りと倉吉の地蔵盆にみる持続可能性の諸問題―
Depopulation and Local Festivals- Some problems of the sustainability from the comparative study of Fukuroi festival in Shizuoka and Kshitigarbhaa festival of Kurayoshi - NUMANO Yuya
過疎と地方祭礼
祭りは神事であり、本来は厳格な儀式だが、社会的には地域コミュニティの交流の場として発展してきた。しかし過疎と高齢化の影響をまともに受け、継続的な運営が困難な時代を迎えている。また、今年の新型コロナウイルス感染症流行の影響による祭礼の中止を機に、来年度から半永久的に祭りを中止する自治体も増える可能性が予想されている。近い将来、祭りの文化が今以上に衰退する可能性が高い過疎地域では、どのようにすれば祭礼を維持・継続してくことができるのだろうか。そうした祭りの持続可能性の課題を真剣に検討すべき時期に差し掛かっているのではないかと考え、私の地元である静岡県の赤尾渋垂郡辺神社の祭礼と倉吉市河原町の地蔵盆について考察した。

袋井祭りの歴史と現状
袋井祭りは毎年10月第2週におこなわれる秋の収穫祭である。幕末の天保13年(1842)から始まったといわれており、現在は4つの神社の例祭をまとめて15町で行われている。屋台といわれる二輪の山車を上下左右に振りながら激しく引き回すのが特徴であり、屋台は各自治体のシンボル的存在で、その土地の伝承や文化を取り入れた彫刻をあしらって、独自の名前をつけており、町民は自分たちの屋台に誇りを持っている。袋井市の文化交流の場としても発展しており、祭りの三日間でさまざまなイベントを催し、多くの人で賑わう。東海道地区の祭りでは山車の文化が盛んであり、とりわけ二輪の山車は全国的にみても珍しい。袋井祭りで曳き廻される山車は全国的にも珍しい造形をしている。二輪山車の起源には諸説あるが、森町では大八車の発展形、掛川市では日坂地域の朝顔形屋台の発展形、一部では平安時代の牛車の発展形などの説がある。幕末以降に登場し、とくに明治時代以降、漆・彫刻・金具・提灯・山車人形などの装飾が過剰なまでに施されるようになって現在に至る。




赤尾郡辺渋垂神社の歴史と現状
当社は静岡県袋井市高尾に所在する式内社である。『延喜式』(10世紀)以前の正史『日本三代実録』(9世紀)にも社名がみえ、遅くとも平安時代前期には成立していたものと思われる。社伝によれば、天平11年(739)行基により開山され、神社から赤尾山長楽寺に転じたというが、これについては伝承の域を出ないであろう。但し、当社が長く仏寺であったのは間違いなく、明治の神仏分離・廃仏毀釈の政策によって神社に復し、現在に至る。境内末社の白山権現社は天正16年(1588)の棟札を残し、昭和51年に市の指定文化財になっている。
神社の社殿は、嘉永5年(1852)造替の本殿と白山権現社を除き、平成18年に全面的な更新がなされた。造替に係わる約1億六千万円の再建費用は地元の氏子による寄付で賄われた。地元では祭りが盛んなため神社の認知度は高く、氏子組織は16もあり、造替の際の資金集めはスムーズに進んだと聞いている。その一方で、歴史や建造物・文化財に興味を持つ人は少なく、信仰心の薄れから若者をはじめとする参拝客の減少などの問題が露呈している。

赤尾郡辺渋垂神社例大祭について
本社も長い歴史を有しているが、山車祭りの始まりは明治初期まで下る。『笠西村史要』の記載及び神社宮司からヒアリングによると、江戸時代には「湯立の式」と呼ばれる神事がおこなわれていたようだ。沸騰させたお湯に塩・酒・米を入れ、その湯のなかに納めた榊でお祓いをしていた。しかし明治以降、この種の特殊神事は姿を消し、現在は屋台運行が祭りの中心である。

体験としての袋井祭り
袋井市民の多くは祭りに積極的であり、自治体の活動も祭りが中心になっている。その祭りは屋台運行が主で、子供にとっては神事や神楽の奉納などはやや退屈なものだった。神事後の餅投げが目当てで神社に集まっていたというのが本音である。自分が小学生の頃は子供も多くいたが、少子化で今は子供の数もかなり減ってきている。また当時の同級生たちは進学で県外に転出してしまい、祭りの参加者は減っている。以上のことなどから、過疎の波がひしひしと押し寄せていることを実感し、深刻な人員不足に陥る前に何とかしなくてはいけないのではないか、と強く感じるようになった。

赤尾郡辺渋垂神社神主からのヒアリング
今後の祭りの在り方について、渋垂神社の宮司にヒアリングさせていただいた。以下の3点はとくに印象的な発言である。
①少子高齢化の進行に伴い、時代にあった形に祭礼も変化していかなければ存続していけない。
②人員や資金の欠乏により神社が廃れ、祭りをやめる地区もあるが、考えることを放棄している人が多い。
③根本的に地域学習や祭りに対する「教育」を変え、祭りに対する「意識」を高く持つことが必要になる。
ヒアリングを踏まえたうえで祭礼の持続性を考えると、神社祭礼に対する意識に問題点が収斂していくように思われる。社殿造替の場合、資金さえ集まれば、あとは工務店の仕事となるので、負担はあるけれども、責務は発生しない。しかし、祭りを持続させるためには、祭りを企画し、参加する責務が求められる。そのためには、神社祭礼に対する意識を維持・向上させる必要があるのだが、これは信仰心に係わる問題であり、他者に強要できるものではない。ここは非常にやっかいなところである。宗教と係わる場合、行政は動きにくいので、祭礼を神事ではなく、文化財として位置づける必要があるように思われる。鳥取を例に取るならば、麒麟獅子舞はもとは神事だが、昨年、国の重要無形文化財に指定され、日本遺産の一部にもなった。遠州に特有な屋台運行祭礼も決して麒麟獅子舞に見劣りするものではなく、国か自治体の「無形文化財」もしくは「民俗文化財」に指定する価値があると考える。屋台運行が文化財に指定されれば、祭礼は神社の神事から、まち(自治会)のイベントに変質し、行政が支援しやすい体制を整えうると考える。
また、住民意識の面で希望がないわけでもない。今年度、新型コロナウイルスの影響で袋井祭りも中止となり、全体では中止という決定がなされたものの、複数の自治会で自分の町の屋台運行だけは行いたいという意見が若い住民から寄せられた。自治会長などの反対により、全ての祭礼が中止になり、神事のみ実施という結果になったが、屋台を運行したいという若者の主張は今後の祭礼復活に明るい見通しを与えるものだとも思われた。

倉吉市河原町地蔵盆の歴史と現状
袋井祭りと対比するため、鳥取県倉吉市河原町の地蔵盆の状況を考察し、比較してみようと考えた。地蔵盆は盂蘭盆会の翌週に行われる子供の祭りである。倉吉では、子供たちが鐘を鳴らしながら町を巡回し、無病息災を祈願する。地蔵の前では子供たちが参拝客からの供え物を受け付けており、お札を配布するなど重要な役割を果たしている。地蔵盆当日は屋台などの出店も多く、花火大会とあわせて河原町の名物になっている。しかし、ここにも過疎と少子高齢の波が押し寄せており、地蔵盆の継続に多くの問題を抱え始めている。祭りの担い手である子供たちの数が極端に少なくなっているのである。従来、地蔵盆を支えてきた中学校1年生以下の子供は数名にすぎない。そして現在、本来子供が担うべき行事を父兄が肩代わりしなくてはならない状況に陥っている。また高齢化により、準備なども一部の若い世代に負担が偏ってきているという。実際のところ、コロナ後の地蔵盆はもうやめてしまおうという意見もあり、少なくとも花火大会は予算的にあと1回で終わるかもしれないとのことである。
地域住民からのヒアリング
「河原町の文化を守る会」の重鎮である、マッドさんからお話をうかがった。以下3点が印象に残った。
〈1〉地蔵盆の現状は、研究室が『地蔵盆を未来へ』という報告書を刊行した2016年ころと基本的に変わらない。しかし、地蔵盆の主役となる6歳から13歳の子供の数はこれからさらに減っていくのではないか。
〈2〉人を呼び込むため、東京巣鴨の「とげぬき地蔵」を参考にした四季の地蔵祭りを催し、町を盛り上げようという試みを続けている。これについては、一定の効果をあげており、集客に成功している。
〈3〉地蔵盆や花火大会を「河原町」のものから、広く倉吉市「明倫地区」のものに拡大しようとする意見もあるが、反対意見もある。
さて、鳥取の祭りといえば、「しゃんしゃん祭り」の傘踊りが最も有名である。しゃんしゃん祭りは神事とは無縁の「つくられた(エンタメ系の)祭り」ではあるけれども、多くの企業・自治体・学生などを巻き込んだ踊りのコンテストであり、各種団体が踊りの質を華やかに競争するという点が有効に機能している。しゃんしゃん祭りを参考にして、「地蔵盆でこのような競争をおこなえませんか」とマッドさんに訊ねたところ、「綱引き大会」を構想中だとお答えになった。河原町では、もともとカミ(西地蔵)とシモ(東地蔵)で対抗意識が強いので、両地区で綱引きをさせて競わせるというアイデアである。綱引きももとは神事であり、祭りにふさわしい競技だと思われる。「綱引き」でなくとも競争心をあおるような行事を催し、河原町の二地区に加えて、明倫地区全体に参加者を募集すれば、一定の集客が見込めるかもしれない。その場合、地蔵盆と綱引き大会の運営は河原町を軸として明倫地区全体が担うことになるだろう。

祭礼と風致-有形遺産と無形遺産の融合的持続のために
河原町では2016年、東地蔵の背後に建つ旧小倉家土蔵を撤去し、駐車場にしようという構想がもちあがったため研究室が緊急調査をおこない、旧小倉家全体を国の登録文化財にすべく、活動していたが、同年10月に鳥取県中部地震が発生し、壁の剥落や屋根瓦のずれが発生し、長い間、土蔵はブルーシートに覆われていた。その後、2018年に国の登録文化財になり、昨年(2020)ようやく壁と屋根の緊急修理が終わって、外観は震災前の姿を取り戻した。しかし、内部は暗く薄汚れたままだったため、この春から内部の清掃等を実施し、利用可能な状態にすべく動き始めている。
地蔵は独立して存在するわけではなく、周辺の町並みや対面する鉢屋川の景観と一体化していることで町の風致を向上させている。この場所が地蔵盆の主要な舞台であり、今後、仮に綱引きなどの競技を催すにしても、グラウンドでおこなうのと、こうした歴史的風致の中でおこなうのでは、全然、意味が異なってくる。
以上のことを踏まえたうえで地蔵盆の持続可能性を考えると、地蔵盆という無形の祭礼には有形の町並みや建造物が必要である。こうした場所の「保全」にも力をいれるべきであり、今後は祭礼の持続と町並みなどの風景の保全を一体的に構想していく必要があるだろう。そうした有形と無形の融合がうまくかみあえば、自ずと人が集まってくるようになるのではないか、とやや楽観的に期待している。
一方、袋井祭りの方は、若い世代の一部に屋台運行したいという熱意があるため、その熱意を打ち砕かないように、祭りそのものを「無形文化財」もしくは「民俗文化財」に指定して、行政からの積極的支援を受けることのできるよう工夫することで今後も祭りを持続させていけるのではないかと思われる。研究を始めたころは、二つの祭りを比較検討することで「共通解」を求めようと考えていたが、研究の結果としてみれば、同じ過疎地でも、祭りを持続させるための方法には違いがあることが分かった。以上、十分な考察はできなかったが、これが卒業論文の到達点である。

《参考文献》
赤尾渋垂郡辺神社建設委員会(2006)『赤尾渋垂郡辺神社 平成の御造営竣功記念誌』
谷部真吾(2000)『遠州森の祭り』
寺田孝太郎(1876)『笠西村史要』笠西村青年会
静岡県郷土研究協会(1980)『静岡懸神社志』
浅川研究室(2016)『地蔵盆を未来へ』
鳥取県立博物館(2006)『鳥取県の祭り・行事』
袋井市教育委員会(1990)『袋井市史』
小栗和敏『袋井祭り』
南地区郷土史研究会(1986)『ふるさと袋井南』
《参考サイト》
祭礼の持続可能性(1)
http://http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2307.html
冬の地蔵盆
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1167.html
『地蔵盆を未来へ―倉吉の歴史まちづくり(Ⅱ)―』刊行!
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1218.html