そして誰もいなくなった

涙の空手道
2月24日(月)、午後から出校した。卒論提出日にプリンターのバグなどが重なり、仮の卒論を提出するにとどまった学生の正式な論文を受け取るためである。提出が遅れたついでに南部町でのヒアリング成果も取り込んでもらった。演習室には二人の卒業予定者がいて、一人は論文提出の最後の処理に没頭しているし、もう一人は自分の机を中心に部屋の清掃に励んでいる。清掃が進めば進むほど研究室から生活感が失われてゆく。充実した2年を共にした現4年生たちの足取りが「空」にもどる直前の状態にあった。例年ならば、梅の切り花でミニ梅林をつくり、卒業の雰囲気を盛り上げるのだが、なにぶん切り花を仕入れていたトスクは廃業、マルイは休業になってしまったので供給がままならず、飾っていた花々も朽ちてきて、撤去されてしまった。もっと切り花で部屋を盛大に飾りたかったのに。
そんなこんなでバタバタしているところに、一人めの訪問者あり。今年度末で退職される某教授である。その先生は書き下ろしの分厚い論文を自主刊行され、「こんなもん書きましてん」と言って謹呈してくださった。タイトルだけ示そう。
未来社会における空手道が輝くグランドデザインとは
-ランドスケープアーキテクトの射程
正直、わたしはついていけません(笑)。主題はいい。副題もいい。が、主題と副題の関係が理解できないのである。これを無理やり自分に置き換えてみると、
未来社会における麻雀道が輝くグランドデザインとは
-エスノアーキテクチュアの射程
とでもなるだろうか。わたしにはこの主題と副題の組み合わせでなにごとかを論理的に表現する能力はとてもない。しかし、某教授はこうしたタイトルで、じつに56頁の論文を仕上げられている。良くない、とは決していいません。が、良いとも言えない。まぁ、こういうところが、一部の学生から熱い支持を受ける一方で、プロの筋からは冷ややかな視線を集めかねないゆえんなのだろう。わたしは個人的に用意していた記念品を手渡した。すると、その教授は泣き崩れながら、こう仰った。
「12年間、楽しかったわ、ほんま、ありがとうございます・・・」
羨ましい。退職が4年後に迫っている自分を予想するに、心底「楽しかった」と回顧できるようには思えなかったからである。そもそもわたしは44歳で研究所を退いたとき、「あとは余生だ」と感じていた。それぐらい、研究所の後半7年間はタフなものであり、人生のなかであれほどの時期はなかったと今でも思っている。一方、生まれ故郷での研究人生がさほど豊かなものにならないであろうことは容易に想像できたし、教育者としてふさわしい人材でないことも分かっている。ただ、自由な時間が少しばかり増えたことが嬉しかった。そんな自分ではあるけれども、「楽しかった」と涙にむせびながら回顧する某教授を目の当たりにして反省せざるを得なかった。残りの4年で、少しでもいいからそういう境地に近づきたいと思う。




造園道場ラボ
某教授の涙をみるのは、この一年で二度目のことである。前期の中ごろだったか、ご家族の病気等の問題を吐露され、顔をくしゃくしゃにして涙を流された。その後しばらくして、看病のこともあり、前期で退職するというメールが届いた。上層部はそれを受け入れようとしたが、わたしは必死で引き留めた。なんとしても満期退職をしてほしかった。かくして満期退職の運びとなったものの、教授は昨秋奥様を失われた。そのときの落胆ぶりたるや、言語(ごんご)では語れないほどであったが、少しずつ遺品の整理など進められ、兵庫県の自邸を売り払って、なんと奈良市学園前のマンションに引っ越されている(奈良はご令室の故郷)。そして、そこに「造園道場ラボ」なるオフィスを開設された。空手道とランドスケープの活動拠点というわけである。
他人事ではない。わたしも四年後には何事かをはじめなければならない。少なくとも退職にあたって、某教授に負けないよう、新刊書を一冊書き下ろさなければ落とし前はつけられないと思っている。
造園道場ラボはわたしの自宅からわずか20分ばかりのところにある。今後も交流が続くように思っている。


コロナに負けた講義
その後、二人目の訪問者があった。他ゼミの卒業予定者である。この学生は、他ゼミであるにも拘わらず、私の講義にとてもとても熱心であった。毎回、最後の最後まで講義室に残って質問し、その日のBRD(授業内小レポート)を1点でも高くしようとする何人かの履修生の代表格であった。そういえば、あやかめさんがそのような学生だったな。この学年(現4年生)との相性は非常に良かったと思っている。毎回の講義は非常に活力があって質問者が多く、最終講義後の感想文をみても、他ゼミの学生から、「毎週、先生の講義を受けるために大学に来ていました」とか、「1回も欠席しなかった講義は初めてです」などの嬉しいコメントが少なくなかった。
12月だっただろうか、その学生と廊下ですれ違い、以下のような問答をした。
「卒論、どう?」
「う~~ん、ちょっと飽きてきました・・・」
「(去年の)俺の講義の方が面白かったんじゃない?」
「あっ、あれがいちばん面白かったですよ!」
この言葉に鼻の下を伸ばしてしまい、記念品の数が1品増えてしまったのである(上の某教授の記念品とほぼ同じ)。この行動にも、じつはコロナが影響している。なぜなら、わたしはオンライン講義に失敗したからだ。今の4年生と一緒に育んだ活力ある対面講義ができず、それに近い雰囲気をオンデマンドでも作り出したいと藻掻いたが、我がゼミ生からも「心が折れそうになった」というコメントが最後にあった。そうしたムードを2~3年次の学生がほぼ共有していたことは、後期の講義履修生の数やゼミ志望者の数から容易に想像できる。講義というこの上なく重要な分野において、わたしは、コロナに負けたのだ。だからこそいっそう、卒業予定者たちと作り出した活力ある対面講義を懐かしく思うし、次年度の春からはできる限り対面の講義をおこないたいと願っている。
国公立大学2次試験業務
翌25日(木)、国公立大学の2次試験(一般入試前期)がおこなわれた。事前にアンケートがあり、病気をもっているなら書け、というので書きまくった。嘘ではなく真実なのだから、いいでしょ。高血圧、糖尿系、尿酸値、睡眠時無呼吸症候群の症状などを素直に書き連ねた。保健室からの質問メールがきて、ホームドクターでの治療について返事もした。これまで、わたしが担当したのは大阪、岡山、広島、名古屋、福岡の会場だが、さてどうなるか、と注目していたところ、鳥取会場の担当だというので有難いと思う一方、60代の教員が首都圏、名古屋、岡山、福岡などに配置されている状況を知って申し訳ないとも思った。今回、基本的に移動は貸し切りバスであり、福岡と首都圏については、伊丹から飛行機に乗って会場に向かった。大変な負担ではあるけれども、本当に今年ばかりは致し方ない。鳥取会場の仕事が他会場にくらべれば楽であったのは間違いなく、繰り返すけれども、有難い判断だと思った。
入試の業務を終え、演習室に戻ると、部屋はさらに片付いていた。「空」である。あまりにも空虚なので、前日買いこんだ黄色い百合をちょこんと飾ってみた。そろそろ喇叭のような大輪を咲かせているころだろうが、鑑賞してくれる人もいないか。我らがお嬢さんも昨日故郷に退去してしまったし、なによりわたし自身、すでに鳥取には居ないのだから。造園道場ラボの近くで惰眠と散歩の日々を過ごしている。