三次もののけ まちづくり


しもたやです
広島県山間部の三次(みよし)は、天正19年(1591)、三吉氏が築いた比熊山城の城下町に端を発する。関ヶ原の後、領主は毛利、福島、浅野と変わる。藩政期城下町~明治・大正時代の風情をよく残すのが本町通り(歴みち石畳通り)で、北端に近い三勝寺の駐車場に車をとめ中央南寄りにある菓子店舗「風季舎 昌平本家」まで往復で町を歩いた。3月17日(水)午前のことである。
町並みはおそらく「街環」で整備したものであり、「伝建」系ではないけれども、なかなか質の高い景観を維持・形成している。伝統的な町家も少なくない。ただし、ごらんのとおり(↑)、人影はない。人はいないが、もののけが跋扈している(らしい)。歩き始めてまもなく町家の縁台にパンフ類が置かれていたので、手にとってみていると、内側からマダムがあらわれた。珍しい旅客に目を輝かせて質問される。
「どちらからお出でですか?」
「・・・奈良です」
「えぇっ、そんな遠くから、よくまぁこんなところまで・・・」


醤油醸造の古めかしい看板を目にしたので、「醤油を作っておられるのですか」と訊ねると、
「いいえ、しもたやです」
とお答えになった。「しもたや」とは「仕舞うた屋」、つまりすでに閉業した店棚のことをいう。京都にいた学生時代にこの言葉を学び、今は学生に教える身分に変わったが、鳥取県内の旧市街地・街道筋で「しもたや」の語を聞いたことはない。否、京都時代から今に至るまで旧町人層の方が「しもたや」なる言葉を使うのを耳にしたのは初めてのことである。新鮮な驚きがあった。


人形ともののけの世界
本通りを歩いていると人形の店棚が多いことに気付く。広島県北部では、三月の初節句に子どもの誕生・成長への願いを託して、三次人形を贈る風習がある。三次人形は粘土を型にはめて成形・素焼きし、色づけしてニカワを塗ったものである。三次は人形操作師の辻村寿三郎(1933-)が青年期を過ごした町でもある。辻村は満州に生まれた。11歳で日本に引き揚げ、広島市内に1年ほど住んでいたが、原爆投下の3ヶ月前に母の郷里にあたる三次に疎開していた。本通りの南端近くに辻村寿三郎人形館がある。辻村といえば、NHKの『新八犬伝』(1973)や『真田十勇士』(1975)などの人形劇がただちに思い起こされるが、よくできた人形には魂がこもると言われるように、どこか神秘性や不気味さがつきまとう。
三次には、こうした人形の性格と通じる物怪(もののけ)伝説がある。江戸時代中期の三次に実在した稲生(いのう)武太夫が16歳のときにさまざまな怪異に巻き込まれた。その経験を集成した『稲生物怪録』がよく知られている。これをまちづくりに取り入れ、尾関山公園の入口に「三次もののけミュージアム」があり、本通りの低い街灯群に物怪の絵をあしらっている。



卯建と小路のまち
上の陶板ペイブにみるとおり、三次本通りには「卯建の似合うまち」というキャッチコピーもある。全国の町並みレベルでみた場合、新鮮味のないコピーである。卯建(うだつ)を売りにしている町並みなど掃いて捨てるほどありますからね。もうひとつ「小路」を訴求要素としている。大通りから脇に流れる小路にはそれぞれ固有の名前がついていて、これも陶板やら標柱に名前を表示している。まことに結構な取り組みなのだが、過疎による宅地の空地化により、小路が広場状になっているところが目立ち始めており、残念であった。ちなみに、わたしがいちばん気に入った小路は「万光小路」である。


風季舎 昌平本家
私たちの散歩の折り返し地点になった菓子店舗。昭和戦前建立の広島銀行社屋を和洋菓子の店に改装したもの。奥の上段にセルフカフェがあり、店で買った草団子とおはぎを食べながら珈琲を飲んだ。珈琲は150円で、何杯でもお代わり可。ただし、薄いネスカフェです。我らがボノス(鳥取のパン屋さん)では、84円で美味しい本格珈琲が飲めるのに、150円で極薄のネスカフェとは・・・ちょっと残念でありました。団子は美味でしたが。





↑↓町並みにも昭和の匂いがぷんぷんしています。
