麺場力皇(1)

最強の格闘技という幻想
プロレス全盛期だったあの頃、全日本派か新日本派かと問われれば、プロレス動画維新軍団実況の若パヤシ氏と同様、わたしは圧倒的な新日派であった。いま思い起こすと恥ずかしい限りだが、猪木の術中にまんまと嵌まった愚か者の一人である。GWの暇にまかせて動画を見返してみるに、とりわけ鶴龍から四天王の時代にあっては、全日~ノア系に断然分がある。にも係わらず、どうしてあれほど多くの国民は新日系に魅せられたのだろうか。一つは「異種格闘技」というジャンルに胸躍らせていたからであろうと思う。柔道、マーシャルアーツ、ボクシング、空手などの格闘家と猪木の戦いに(まさかアングルがあるとは思いもよらず)心を奪われ、新日のプロレスこそ最強の格闘技だと信じて疑わなかった。異種格闘技の路線は、その後、新日から枝分かれしたUWFやリングスなどに受け継がれて、最終的にはプライドで開花し、大晦日の恒例イベントにまで出世して紅白歌合戦の視聴率を奪いとるほどの勢いがあった。しかしながら、今となっては、UWFもリングスも、果てはプライドの一部においてまでブック(勝敗の結果)とアングル(筋書き)の存在したことが複数のレスラー等の証言で明らかになっている。
アングルありのお芝居系プロレスの代表格がジャイアント馬場であった。海外のエースと戦う馬場の動きはスローモーションのように鈍く、愛弟子のジャンボ鶴田も欽ちゃんに似た愛嬌のある顔をしているから、大げさな雄叫びをする割には凄みがなく、そもそも余計なアピールをする暇があるなら次の技を出せ、と思ったものである。とりわけ晩年の馬場は、団体の経営者としては苦労していただろうが、プロレスラーとしては前座に回り、激しい戦いを回避していた。。そのツケはメインエベンターを務める若手のレスラーにまわってきた。鶴田亡き後の四天王プロレスを支えた三沢、小橋、川田、田上、秋山、高山らの死闘を見返すと言葉が出なくなる。もういいだろう、そこまでしなくても・・・と思うほどの過酷さがそこにはあった。

四天王の時代
もちろん四天王プロレスにもブックとアングルは存在したのだけれども、極限まで戦いを放棄することは許されなかった。馬場と猪木の時代にあっては、トップレスラーが得意技を出した段階で事実上試合は終わる。バックドロップや各種のスープレックス、あるいは卍固めなどのフィニッシュホールドは返すことを禁じられた大技である。さして効いていない場合でも、跳ね返してはいけない。大技がでれば、フォールかギブアップで試合は終わった。負けブックを呑まされる側は愉快ではないけれども、試合を早々に終わらせることで、体のダメージは少なくなる。こうしたエンタメ系の試合運びは楽であり、競技者としての寿命を削ることはない。
しかしながら新日の場合、「異種格闘技」の伝統もあり、猪木は総合格闘技への傾斜を強め、新日を暗黒の時代へと導いていく。多くの選手がプライド等の試合に担ぎ出されては惨敗を重ね、「プロレス(あるいは新日)は弱い、やはり八百長ばかりだったんだ」という印象がはびこるだけでなく、プロレスをやりたい選手たちと格闘技指向の猪木の間に大きな溝が生まれ、団体は分裂し、興業の集客を著しく減らしていった。
一方、総合格闘技と無縁の全日本は、四天王プロレスと呼ばれた過激なストロング・スタイルを演じ、集客に成功していた。四天王プロレスの場合、かつての決め技は繋ぎ技に過ぎなくなって、返されるのが当たり前になる。おまけにUWFの影響からか打撃系の技も多様なかたちでプロレスに吸収されていく。プロレスは「受け」の格闘技である。相手の打撃や得意技をすべて受ける。それを耐えに耐えて自分の得意技をフル稼働し、フォールを取りに行くのだが、どれだけ攻めても相手は降参しない。結果、どちらが勝つにせよ、対戦する双方に凄まじいダメージが残ってしまう。


犠牲者たち
2009年6月13日、プロレスリング・ノアの社長兼看板レスラー、三沢光晴がGHCヘビー級タッグ選手権のリング上で、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けて首と頭を強打し、心肺停止状態に陥り救急車で病院に搬送されたが、そのまま帰らぬ人となった(享年46歳)。過酷な四天王プロレスがその主導者に死をもたらしたのである。三沢と並ぶエース、小橋建太も大怪我を繰り返して早々と引退し、両者の最大のライバルであった高山善廣(旧UWFインター)は寝たきりの人生を送っている。こうした重傷者・死者は新日系より全日~ノア系に多く、女子プロレス系にも少なくないという印象がある。若き日の北斗晶は首の骨を折った経験があり、彼女が引退するまでの、ブル中野、アジャ・コング、神取忍らとの戦いは、「もうやめてくれ」と嘆願したくなるほどの苛烈さが常態化していた。
下は2001年におこなわれたZERO-ONEのリングでの、三沢・力皇(ノア)対小川・村上(UFO)のタッグマッチである。小川直也はいうまでもなくバルセロナ五輪の柔道の銀メダリストであり、このころは総合格闘技とプロレスの双方で活躍していた。プロレスでも、新日本のIWGP王者、橋本真也(ZERO-ONEの創始者)を突然のシュートマッチでKOするなど暴走王の異名があり、アングルを崩しかねない恐れがあったので、三沢と力皇は警戒しており、とくに大相撲からプロレスに転じてまもない力皇は体を張って三沢のボディガード的役割を果たして名を上げた。三沢も高校時代はアマレスの猛者であり、打撃系を中心とするUFOの攻撃にうまくグラウンドで対応して勝利を(アングル通り)おさめている。【続】
↑三沢が村上に放った3本連続のバックドロップはゲーリー・オブライトの引っこ抜きスープレックスを彷彿とさせる。
オブライトの寿命も短かった。