行基の長岡院-菅原遺跡訪問記

5月22日(金)に奈良市疋田(ひさた)町の菅原遺跡に係わる報道が各紙いっせいにあった。どうやら『行基年譜』(1175)にいうところの長岡院の可能性が高く、しかも遺跡の中心に建つ建物が円形を呈するという。大規模宅地造成の事前調査で発見されたため現地説明会はなしということであり、急ぎ関係機関に連絡をとり、24日に奈良市文化財課のご案内で視察が叶った。ここに概要をレポートする。なお、菅原遺跡に係る基礎情報は、調査主体である元興寺文化財研究所のHPに公開されている遺跡解説資料「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」による。

菅原遺跡の風景
菅原遺跡は平城京西京極(西四坊大路)の外側にある。平城宮朱雀門が南面する二条大路の西の延長線と西三坊大路の交わるところに喜光寺(菅原寺)があり、その西北約1kmの丘陵の頂部に菅原遺跡が所在する。喜光寺の本堂は東大寺大僧正の行基(668-749)が大仏殿の試作モデルとして造営したものとされ、この寺で行基は生涯を終えた。丘陵上の遺跡から東南方向に菅原寺の境内をまるごと俯瞰でき、東の遠方には若草山麓の大仏殿を遥拝できる。行基にとってみれば、絶好の場所である。

遺構と年代観
中央の円形建物は東側と北側東半を回廊(単廊)、北側西半と西側を掘立柱塀で囲まれている(南側は不詳)。区画の規模は推定ながら南北38.5m×東西(内法)36.4mを測る。南北回廊の中央には横長の東西棟(伝法堂のような講堂か)が対称に存在した可能性がある。回廊・東西棟ともに掘立柱だが、聖徳太子を供養する法隆寺東院の配置を彷彿とさせる。供養堂(廟)と推定される所以である。この聖域の入口と目されるのは東側掘立柱列(塀)のほぼ中央にある長い柱間部分である。この柱間の西側には雨落溝を伴い、円形建物からこの門の方位を見通すと大仏殿が視界に納まる。南側区画の近くにも雨落溝があり、瓦が大量に出土し、奈良時代中期(745~757年)の軒平瓦を含む。私見ながら、この南側の雨落溝は柱列からやや離れており、幅がかなりひろいので、溝状の廃棄土坑かもしれない。北側回廊の柱穴からは8世紀中ごろの土師器坏も出土している。
円形建物跡は同心円を呈する2列の遺構からなる。外側では16基の掘立柱掘形、内側には基壇地覆の抜取穴が環状に並ぶ。掘立柱列の直径は約14.5m、基壇のそれは約9mを測る。出土遺物から遺構の設置年代は8世紀中期、廃絶は9世紀前半とされる。

↑円形建物跡 ↓基壇地覆抜取り


解説資料に記された復元イメージ
遺跡解説資料によると、菅原遺跡は、南側隣接地で1981年に発見された瓦と風鐸を伴う基壇建物となった山林寺院の一部であり、泉高父『行基年譜』(1175)にいう長岡院に比定される。円形建物の性格は明確ではないが、多宝塔や八角円堂などの円堂建築であることは間違いないと思われる(一番下の図)。円堂建築については、先行研究により個人を供養する機能が推定される。現在のところ、円形の多宝塔を想定する案が有力であり、敦煌莫高窟の壁画には円形の仏塔が描かれており、こうした中国の情報をもとに造られた建物かもしれない。ただし、円形基壇の上に八角堂をおく案や、インドのストゥーパのような土饅頭構造の周りを柵で囲っていたという案も出ており、上部構造についてはなお検討の余地がある。以上が元興寺文化財研究所の見解である。

遺構解釈私案
以上みたように、菅原遺跡は行基49院の一つとされる長岡院であった可能性が高い。そこで発見された円形建物跡は日本建築史に類をみない特殊な遺構である。遺跡を訪問し、その構造や性格について考察してみた。箇条書きでまとめる。
1)正多角形の「円堂」を回廊などが囲む平面配置は法隆寺東院を簡素化したもののようにみえる。東院夢殿が聖徳太子の廟であるのに対して、菅原遺跡の円形建物は行基の廟である可能性が高い。多宝塔ではなく、供養堂(廟)であるとすれば、平安密教の宝塔/多宝塔をモデルとして復元するのは必ずしも適切ではない。そもそも多宝塔の場合、大屋根は宝行、裳階は正方形となり、円筒形塔身との差異を際立たせている。
2)円形に並ぶ16本の柱列の掘形は回廊の柱穴(一辺80~100㎝)の半分程度の小さなものであり、いわゆる側柱ではなく、基壇外側に並ぶ土庇(掘立柱の裳階)と考えられる。遺跡解説資料の復元図では、これを円形の裳階、本体の屋根を円錐形の瓦葺きとする。北京の天壇を思わせる屋根の造形だが、日本の瓦の場合、隅棟を設けて平行に葺くので、瓦葺きならば屋根は多角錐を呈する。これを円錐状にしようとするなら檜皮葺きを採用するほかなかろう。掘立柱の土庇には檜皮葺きがよく似合う。
3)円形を呈する石列の抜取りは円形基壇の地覆にあたる。
4)基壇の高さは二尺(60センチ)以上あったが、基壇土はすべて削平され、礎石据付穴の痕跡はすべて消滅したと推定される。基壇部分については、平城宮第一次大極殿と同様の遺構残存状況と考えられる。
5)基壇上の礎石列は入側柱-側柱の2列配されていたと思われる。側柱列は土庇と対応させて16本とするか、あるいは8本かもしれない。一方、入側列は平面規模(直径数メートル)からみて、8本あるいは4本であったのではないか。この狭い範囲に16本の柱を立てるのは難しい。礎石建の建物には瓦葺き屋根がふさわしく、入側8本柱の場合、身舎の屋根は八角錐、入側4本柱の場合は宝形となる。八角形なら夢殿に近く、宝形なら多宝塔に近い造形となる。
6)いずれにしても基壇上の建物は法隆寺東院の夢殿をよりまるめたようにイメージされる。行基作とされる堺市土塔の最上層に円形遺構が残っているが、行基(と彼の弟子たち)はインドの情報を少なからずもっていたはずであり、中国風の夢殿(八角円堂)をいくぶんインド化してみようとしたのではないか。
東大寺を大本山とする華厳宗は本尊を毘盧遮那=大日如来とする点で空海の真言宗に近しい宗派であり、9世紀初頭に帰国した空海は東大寺の別当に就任している。華厳宗は密教の要素を少なからず含んでいたのであり、良弁と実忠の造営した東大寺の頭塔こそが8世紀の密教系立体マンダラ型の仏塔にほかならない、というのがわたしの持論である。ただし、空海以後普及する宝塔/多宝塔が奈良時代に存在したと言い切れるわけではない。立体マンダラは存在したが、平安密教系の宝塔/多宝塔は存在しなかった可能性も十分あるだろう。長岡遺跡の場合、建物の性格を廟(供養堂)とみなすならば、多宝塔形式の復元は不相応であり、むしろ本体部分は廟としての夢殿風八角円堂のヴァリエーションとして理解すべきである。これに円形もしくは正十六角形の檜皮葺き土庇をつけることで、幾何学的な円形もしくは円錐形を表現し、建物のイメージをインド風に近づけようとしたのではなかろうか。それは柵に囲まれた土饅頭型のストゥーパ(墓)では決してなく、ストゥーパから進化した密教の宝塔/多宝塔でもなく、あくまで廟としての建物をイメージして復元しなければならないものだと思っている。

↑円形建物復元パース(元興寺文化財研究所遺跡解説資料)
【関係サイト】
復元検討web会議(第1回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2415.html
復元検討web会議(第2回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2419.html
復元検討web会議(第3回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2428.html
復元検討web会議(第4回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2439.html
行基の長岡院-菅原遺跡訪問記
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栄山寺八角堂
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広隆寺から興福寺へ
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奈良新聞の報道(菅原遺跡)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2429.html
法隆寺西円堂・夢殿と喜光寺
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2436.html