復元検討web会議(第1回)
栄山寺八角堂の重要性
本日午前、第1回の復元検討会議(リモート)をおこなった。参加者は5名。初回ながら活発な議論が交わされ、刺激的なミーティングとなった。まず行基の略歴などについて司会者が述べ、ついで円形建物の復元について検討した。前日より栄山寺八角堂のことが少し気になり始め、書籍類は手元になかったが、ネットで基礎情報を再確認した。栄山寺八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763)12月20日付けの「造円堂所牒」という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
すなわち、栄山寺八角堂は藤原仲麻呂が父(武智麻呂)を供養する廟(供養堂)であり、行基の長岡院の造営年代(750-760頃)と近接する。夢殿に比べ、丈の高い(柱間に対して柱が高い)建物であり、こうした比例のほうが土庇をとりつけやすい。つまり、年代・造形の両面からみて、夢殿以上に参考とすべき建物と思われたので、会議に参加するメンバーのどなたか図面をお持ちならお示しいただきたいとお願いした。議論は栄山寺八角堂から始まった。以下、箇条書きでまとめる。
1)基壇上に復元する柱列は、栄山寺八角堂に倣い、内側を四天柱、外側を八角にするのが妥当と思われるが、側柱を8本とする場合、土庇の16本柱との対応が難しくなるので、基壇上の側柱は8本の案と16本の案の両方を検討する。
2)屋根については本体を宝行とする案と八角にする案の両方を検討する。前者は宝塔風、後者は八角円堂風。
3)土庇(裳階)を板葺きにしてはどうか、という意見もあった。その場合、葺板が台形状になり、類例を探しえないので、今回は檜皮葺きを採用する。
4)土庇を垂木だけで支えるのは難しいので、庇の柱と本体側柱を繋梁でつなぐ。その場合、本体側柱は8本よりも16本のほうがおさまりやすい(8本でできないわけではない)。
5)円形建物の軸が回廊・塀とずれているようにみえる(航空写真で補正すれば揃うという意見もあり)。軸がずれているとしたら、中央の円形建物の造営時期と掘立柱の囲繞施設の造営年代が異なる可能性がある。まず円形建物を建立し、掘立柱の諸施設は遅れて造営されたか。750~760年ころの軒瓦が南側の雨落溝で出土しているが、瓦を葺いているとしたら、廟の本体部分(礎石建)であり、他の掘立柱建物は檜皮葺と考えられる。両者の年代差は存在したと考えるほうが自然であろう。軸のずれについては、南東側山麓の菅原寺(喜光寺)と東方に望む東大寺の位置関係が影響している可能性もある。
6)航空写真や遺構図をよく観察すると、円形の地覆石の抜き取りは八角形を呈するようにみえる。夢殿、栄山寺八角堂の基壇も円形ではなく、八角形である。
7)土庇の柱配列も長方形を呈する部分と三角形を呈する部分に分けられるのではないか。
8)土庇の柱径が7寸(約20㎝)という点が気にかかる。9世紀前半には消滅する理由の一つかもしれない。
以上の討議を踏まえ、遺跡全体の建物復元配置図を、今週末をめどに作成することとなった。

↑宝行案の場合、屋根は多宝塔のように大きくしたい。
本日午前、第1回の復元検討会議(リモート)をおこなった。参加者は5名。初回ながら活発な議論が交わされ、刺激的なミーティングとなった。まず行基の略歴などについて司会者が述べ、ついで円形建物の復元について検討した。前日より栄山寺八角堂のことが少し気になり始め、書籍類は手元になかったが、ネットで基礎情報を再確認した。栄山寺八角堂は、藤原武智麻呂の没後、子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したと伝える。武智麻呂の墓は当初は佐保山にあったが、天平宝字4年(760年)、栄山寺北側の山上に改葬された。八角堂の建立時期はこの年から仲麻呂の没した天平宝字8年(764)までの5年間に絞られる。正倉院文書に天平宝字7年(763)12月20日付けの「造円堂所牒」という文書があり、この「円堂」は栄山寺八角堂を指すものと考証されている。
すなわち、栄山寺八角堂は藤原仲麻呂が父(武智麻呂)を供養する廟(供養堂)であり、行基の長岡院の造営年代(750-760頃)と近接する。夢殿に比べ、丈の高い(柱間に対して柱が高い)建物であり、こうした比例のほうが土庇をとりつけやすい。つまり、年代・造形の両面からみて、夢殿以上に参考とすべき建物と思われたので、会議に参加するメンバーのどなたか図面をお持ちならお示しいただきたいとお願いした。議論は栄山寺八角堂から始まった。以下、箇条書きでまとめる。
1)基壇上に復元する柱列は、栄山寺八角堂に倣い、内側を四天柱、外側を八角にするのが妥当と思われるが、側柱を8本とする場合、土庇の16本柱との対応が難しくなるので、基壇上の側柱は8本の案と16本の案の両方を検討する。
2)屋根については本体を宝行とする案と八角にする案の両方を検討する。前者は宝塔風、後者は八角円堂風。
3)土庇(裳階)を板葺きにしてはどうか、という意見もあった。その場合、葺板が台形状になり、類例を探しえないので、今回は檜皮葺きを採用する。
4)土庇を垂木だけで支えるのは難しいので、庇の柱と本体側柱を繋梁でつなぐ。その場合、本体側柱は8本よりも16本のほうがおさまりやすい(8本でできないわけではない)。
5)円形建物の軸が回廊・塀とずれているようにみえる(航空写真で補正すれば揃うという意見もあり)。軸がずれているとしたら、中央の円形建物の造営時期と掘立柱の囲繞施設の造営年代が異なる可能性がある。まず円形建物を建立し、掘立柱の諸施設は遅れて造営されたか。750~760年ころの軒瓦が南側の雨落溝で出土しているが、瓦を葺いているとしたら、廟の本体部分(礎石建)であり、他の掘立柱建物は檜皮葺と考えられる。両者の年代差は存在したと考えるほうが自然であろう。軸のずれについては、南東側山麓の菅原寺(喜光寺)と東方に望む東大寺の位置関係が影響している可能性もある。
6)航空写真や遺構図をよく観察すると、円形の地覆石の抜き取りは八角形を呈するようにみえる。夢殿、栄山寺八角堂の基壇も円形ではなく、八角形である。
7)土庇の柱配列も長方形を呈する部分と三角形を呈する部分に分けられるのではないか。
8)土庇の柱径が7寸(約20㎝)という点が気にかかる。9世紀前半には消滅する理由の一つかもしれない。
以上の討議を踏まえ、遺跡全体の建物復元配置図を、今週末をめどに作成することとなった。

↑宝行案の場合、屋根は多宝塔のように大きくしたい。
【関係サイト】
復元検討web会議(第1回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2415.html
復元検討web会議(第2回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2419.html
復元検討web会議(第3回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2428.html
復元検討web会議(第4回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2439.html
行基の長岡院-菅原遺跡訪問記
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2414.html
栄山寺八角堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2417.html
広隆寺から興福寺へ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2423.html
奈良新聞の報道(菅原遺跡)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2429.html
法隆寺西円堂・夢殿と喜光寺
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2436.html
復元検討web会議(第1回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2415.html
復元検討web会議(第2回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2419.html
復元検討web会議(第3回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2428.html
復元検討web会議(第4回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2439.html
行基の長岡院-菅原遺跡訪問記
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2414.html
栄山寺八角堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2417.html
広隆寺から興福寺へ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2423.html
奈良新聞の報道(菅原遺跡)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2429.html
法隆寺西円堂・夢殿と喜光寺
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2436.html