なんでも拓ろう(1)-禰宜谷神社


乾拓実習
6月2日(水)、拓本の実習・演習に取り組みました。拓本とは「木・石・器物などに刻まれた文字・文様を紙に写し取ったもの。また、その技法。湿拓と乾拓とがある。石摺り。搨本(とうほん)。」(weblio辞書)とあります。研究室が得意とするのは乾拓です。フィールドに出る前に、まずは演習室で、神社建築の部材(実肘木・斗束・蟇股)の模様や形を写し取る実習を試みました。
和紙を写し取りたい面に合わせ、固形墨で少しずつ擦っていくと、木目や文様が浮き出てきます。実肘木の絵様はとくに重要で、雲の渦の形で年代が推定できると聞きました。渦が正円に近いと古く、楕円形に凹めばへこむほど新しくなるそうです。


禰宜谷神社を拓る
その後、今年最初のフィールドワークへ。大学に近い禰宜谷神社に8名で訪れました。空山東部の山すそ、禰宜谷の谷間、鳥取市祢宜谷227に所在します。禰宜(祢宜)とは、神職の一つで、一般の神社では宮司の下位、権禰宜の上位に置かれ、宮司を補佐する者の職称です。禰宜谷という地名の由来は意上奴神社の禰宜に関係すると伝承され、昨年調査した北側の紙子谷(元は神子谷)とセットとして考えるべき地名と思われます。源範頼の墓といわれる宝篋印塔が杜の上にあります。『角川日本地名大辞典31 鳥取県』(1982:p.〓)で歴史のあらましを調べてみました。
《禰宜》 江戸期〜明治22年の村名。明治22年〜現在の大字名。近世は因幡国法美郡のうちの鳥取藩領。戸数は文久3年「組合帳」で15戸。文政2年、溜池新堤の検分が行われている(『県史』10)。『因幡志』によれば、若桜街道の駅があり、隣村へは南の西門尾村まで14町、この道の途中に法美・八上の両郡の境をなす三本松があった。社の氏神は武王大明神で、明治7年禰宜谷神社と改称。同22年津ノ井村の大字、昭和38年から鳥取市の大字となる。明治24年の戸数23/人口113、水車1(微発物件一覧)。その後は、昭和35年が32/185、同40年が32/163、同50年が21/99。



神社は小高い丘陵の鬱蒼とした叢林(照葉樹林)のなかにあり、まさに杜(もり)=社(やしろ)の風情がある。杜に入る木製鳥居前に石灯籠が1基、拝殿の前には4基(左右2基ずつ)の灯籠と狛犬一対を置く。今回、乾拓を採取したのは、以下の四か所。
1.鳥居前向かって左の石燈籠(2面)
2.拝殿前石灯籠(対称の2基)
3.本殿向拝虹梁型頭貫絵様
私が担当したのは鳥居前の石燈籠の一面です。固形墨を和紙に擦る際、薄く塗ると凹凸面は現れにくく、逆に濃いと境界線がわかりにくくなってしまいました。境界線とその内側の濃淡に関しても一様に濃くはっきりとさせるのではなく、濃度は境界線>内側になるよう変えるといいとのことです。1の石燈籠には片側に「安政七年(1860)・・・」という制作年、もう一面には「山本善十郎」という寄進者の名前が彫りこまれていました。
拝殿前の4基の石燈籠(↑)のうち、内側の2期にも柱の側面に年号らしき文字が刻まれていましたが、摩耗が激しく、文字が鮮明に浮かびあがってきません。現地での観察では、一方が大正、他方が昭和ではないか、と思われました。今後、トレースなどで確定させていきたいです。(コシヒカリ)


本殿は小振りの一間社流造。紙子谷神社と比べると、かなり立派で見事なつくりをしている。向拝の虹梁型頭貫の拓本を採った。渦は幕末ことの形状を示しており、鳥居前石燈籠の「安政七年」に近いころの造営と思われる。今後、神主さんからのヒアリングや棟札の調査により考察を深めていきたい。

