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広隆寺から興福寺へ

広隆寺桂宮院本堂(山村) 安楽寺八角三重塔(長野)南北朝14C


広隆寺桂宮院本堂

 6月13日(日)、京都太秦の広隆寺(真言宗)へ。広隆寺は推古天皇十一年(603)開山の伝承がある山城(京都)最古の寺院であり、四天王寺、法隆寺等とともに聖徳太子建立の七大寺の一つとされる。また、秦寺、秦公寺、太秦寺などの別名があり、渡来人である秦氏の氏寺とされる。訪問の目的は桂宮院本堂(八角円堂)を視察することであったが、数年前から完全に非公開になっているということで参拝を断念した。事前にネットで情報を集めた際には、門から八角円堂を覗く写真が少なからず掲載されており、門の外から望遠レンズで十分細部をとらえうると思っていたのだが、塀門の外からは一望だにできないということである。仕方がないので、『廣隆寺』なる図録を購入した。その「桂宮院(国宝)」なるページの文章によれば、「建長八年(1251)に中観上人により再建された鎌倉建築で、単層屋根檜皮葺八柱造であり、頂上に八角形の露盤を置き、その上に宝珠を載せている。屋根の勾配が非常に緩く、しかも軒の反りが強いのと、檜皮葺であるため、軽快な風情を与えており、廻縁が広いために安定して落ち着いた美しさを感じさせる。内部には柱がなく、板敷きで、須弥壇等は設けず、中央に聖徳太子像、向かって右に阿弥陀如来、その他如意輪観音像が安置してあった」。
 板敷きや廻縁、及びその床下にある亀腹は中世期の特徴であり採用できないが、内側に柱を立てない檜皮葺八柱造の構造は大変気になるところである。菅原遺跡円形建物の本体部分は基壇上の礎石建瓦葺きであるとしても、周辺の円形に近い(おそらく十六角形の)土庇の構法の復元にとっては有力な参照事例となるであろう。連子窓も縦長ではなく、高い位置で横長に設置しており、上側(マグサ)の長押は頭貫に近く、下側の長押は高い位置となる。下側の長押を土庇との繋梁の受けに使い易い。
 上の写真(左)は国宝建造物の撮影をライフワークとされる山村カメラマンのHPから転載させていただいたものである。右も同じライブラリーからの転載になる安楽寺八角三重塔(南北朝14世紀)だが、三重塔の一重と二重をカットして屋頂部と裳階を組み合わせれば、菅原遺跡円形建物の造形に近づくように思われる。
 というわけで、自主的門前払いを実行した。それにしても疲れたので、門前まわりで蕎麦でもたくろう、としたのだが、緊急事態宣言下の京都、軒並み店は閉まっていた。なんとかテイクアウトしている店をみつけて物色。京都名物、ハモの天麩羅の弁当に舌鼓。


0612興福寺01南円堂01遠景01 0612興福寺01南円堂05唐破風02sam


興福寺南円堂

 広隆寺の檜皮葺き八角堂を見損ねたが、心機一転、奈良の興福寺をめざした。すでに見慣れた大寺ではあるけれども、南円堂と北円堂を観察しなおそうと決めたのである。南円堂は弘仁4年(813)、藤原冬嗣が父の内麻呂の追善のために建立した供養堂である。平安期の鎮壇には空海が関わったと伝承される。興福寺は藤原氏の氏寺(法相宗)であったが、後に摂関家となる北家の力が強くなり、北家の内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特別な位置を占めた。本尊は不空羂索観音菩薩。創建以後、4度の再建が繰り返され、現在の建物は寛保元年(1741)に立柱、寛政元年(1789)に竣工したものである。正面(東)には間口1間・奥行2間の「拝所」があり、唐破風の向拝と本体の繋ぎとなる部分の上に短い裳階を掛けている。


0612興福寺01南円堂03宝珠01 0612興福寺01南円堂06基壇01
 

 
0612興福寺01南円堂04垂木掛01 0612興福寺01南円堂04垂木掛02sam


 江戸時代の建物だけに丈が高い。唐破風と裳階を設けるためにはこれぐらいの高さが必要であり、全体のプロポーションも見事だと思う。連子窓も縦長にして上下に長押をまわす点は他の八角円堂と同じだが、向拝上の正面の裳階はマグサ上の長押の位置にかけている。但し、正面の一辺のみ長押を通さないので壁内の貫を垂木掛としているのか。江戸時代の建物なので、参考にしすぎてはいけないが、八角円堂に裳階をめぐらせるとすれば、マグサの位置の長押に掛けるのが無難と思われる。なお、頭貫の位置に長押がないのも八角円堂の特徴であり、平安期以降の宝塔/多宝塔と異なるところである。
 柱頭の組物は隅が三手先(尾垂木なし)、中間の中備が頭貫上に平三斗を組み、その上を通肘木-三斗を三回重ねる。軒は三軒とする。基壇高さは5尺以上ある。
 

0612興福寺01南円堂02軒下組物01


興福寺北円堂

 興福寺の創建者、藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月、元明・元正天皇が長屋王に命じて建立させた八角円堂である。治承4年(1180)、平重衡による南都焼討で伽藍の大半が被災し、北円堂は承元4年(1210)ころに再建された。東大寺が重源の大仏様によって復興したのとは対照的に、興福寺は古代の和様を継承して再建が進んだ。北円堂は古代の風格をよく伝えており、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいとしばしば賞賛される。本尊は弥勒如来坐像である。


0612興福寺02北円堂01 0612興福寺02北円堂04宝珠01


 軸部は八本の側柱を3重の長押で固める点は他の円堂と同じ(頭貫の位置にはなし)。ただし、扉を置く正面以外の面には間柱を立て縦長の連子窓を2つ対称に並べる(南円堂もこれを継承)。柱上の組物は三手先(尾垂木なし)、中備は平三斗+通肘木+平三斗として桁を受ける。軒は三軒で、地垂木を円とする。南円堂の軒もこれに倣ったものであろう。基壇は低く、2尺余りか。


0612興福寺02北円堂02軸部基壇01 0612興福寺02北円堂02軸部基壇02sam

 
 以上から、菅原遺跡の「円形建物」復元に応用できそうな点を箇条書きしておく。
 
 1)裳階の垂木掛けとしてふさわしいのはマグサ位置の長押である(南円堂)。八角堂の場合、頭貫の位置に長押はまわさない(宝塔/多宝塔ではまわず)
 2)広隆寺桂宮院本堂の屋内無柱式八角堂の構造、安楽寺八角三重塔の長いこけら葺き裳階については検討しておく必要がある。
 3)広隆寺桂宮院本堂は連子窓を横長にして高い位置に設置している。マグサの長押は頭貫に近く、下側の長押も高い位置になって、菅原遺跡「円形建物」の土庇の垂木掛や繋梁の受けの位置として検討に値する。菅原遺跡「円形建物」の場合、八角形を呈する本体に壁・扉・連子窓があったのか微妙ではあるが。
 4)プロポーションとして参照すべきは興福寺南円堂かも? 向拝・裳階をおさめるため柱を高くしている。基壇も高めに設定すると土庇(裳階)の高さを確保できる。裳階は開放とするのではなく、安楽寺八角三重塔のように連子・扉で閉鎖するか。
 5)興福寺南円堂・北円堂の三手先は菅原遺跡には使いづらいのでは? 夢殿・栄山寺八角堂のように平三斗の二軒が妥当と思われる。


0612興福寺02北円堂03軒下組物01 0612興福寺02北円堂03軒下組物02sam 


【関係サイト】
復元検討web会議(第1回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2415.html
復元検討web会議(第2回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2419.html
復元検討web会議(第3回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2428.html
復元検討web会議(第4回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2439.html

行基の長岡院-菅原遺跡訪問記
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2414.html
栄山寺八角堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2417.html
広隆寺から興福寺へ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2423.html
奈良新聞の報道(菅原遺跡)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2429.html
法隆寺西円堂・夢殿と喜光寺
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2436.html

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Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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