行基ノート
記者発表にむけて
菅原遺跡の円形建物に係わる復元検討web会議を6回重ね、復元案も煮詰まってきました。そこで、県庁記者クラブとスケジュール調整した結果、以下の日時・会場で記者発表をすることとあいなりました。書き留めておきます。
10月18日(月)午後1時~
@奈良県庁内・文化教育記者クラブ
以下は研究成果ではなく、某課に提出した書類です。 最近あまりブログを更新していないので転載しておきます。
新政権には落胆しっぱなしですが、私たちにも影響が及んでいます。総選挙前倒しの影響で以下に日時変更しました。
11月8日(月)午前11時~
@奈良県庁内・文化教育記者クラブ
菅原遺跡の円形建物に係わる復元検討web会議を6回重ね、復元案も煮詰まってきました。そこで、県庁記者クラブとスケジュール調整した結果、以下の日時・会場で記者発表をすることとあいなりました。書き留めておきます。
@奈良県庁内・文化教育記者クラブ
以下は研究成果ではなく、某課に提出した書類です。 最近あまりブログを更新していないので転載しておきます。
新政権には落胆しっぱなしですが、私たちにも影響が及んでいます。総選挙前倒しの影響で以下に日時変更しました。
11月8日(月)午前11時~
@奈良県庁内・文化教育記者クラブ
行基(668-749)という律令期の僧は、仏教の源郷たるインドに強い憧憬を抱いた仏教者だと思われる。行基自身は渡唐していないが、師の道昭(629-700)は遣唐留学僧として玄奘(602-664)に師事した。玄奘三蔵は629年に陸路でインドに向かい、彼の地で仏教修学に邁進し、645年に経典657部を唐に持ち帰って漢語訳した。当時の中国で最もインド仏教の知識を有した高僧であり、その知識を弟子の道昭に伝え、帰国後、間接的ではあるけれども、行基は道昭からインドの知識を吸収したものと推察される。
それを匂わせる仏教遺産が堺市大野寺の土塔である。奈良時代前半(720年代)に造営された土塔は十三重塔の最上部に円形の粘土ブロックを残すモニュメントであり、屋根も壁も本瓦を直葺きにしていた。日本建築史上類をみないこの建築は、インド的な巨大ストゥ-パを和風化したようにみえる。とくに頂部の円形構造物(おそらく伏鉢)の「円」はサンスクリット語のマンダラ、あるいはチベット語のメンダルに相当し、9世紀以降に隆盛する真言密教の曼陀羅との関係を想起させる。
天平8年(736)大仏造営のため聖武天皇がインド僧菩提僊那、チャンパ(林邑=カンボジア)僧仏哲等を招聘した際、大宰府でかれらを出迎えたのは行基であり、平城京まで案内した。おそらく行基は菩提僊那からもインドの情報を相当吸収したものと推察される。行基は天平12年から勅命により毘盧遮那大仏建立を支援することとなり、天平15年(743)大仏造営の勧進就任を経て、同17年(745)東大寺大僧正に任命される。行基の入滅(749)後しばらくして、東大寺別当良弁が南大門の正面(南方)約1kmのところに頭塔を造営する(行基の供養かも?)。頭塔は五重の土塔であり、壁面に44体の石仏を貼り付けている。いわばボロブドール(インドネシアの世界遺産・8世紀)の日本版というべきモニュメントであり、大野寺の土塔をさらに南アジアの立体マンダラ風に仕上げたものと推察される。
この時代、インドではバラモン教呪術の影響を受けた「密教」が流行し始めていた。密教は、一方では、中国中原地域を経由して日本にまで伝来し、他方ではチベット・ブータン地域や東南アジアにまで拡散していった。日本の場合、空海が日本に帰国する9世紀初頭以降、密教(真言宗)が波及していくというのが常識的な理解だが、わたしの見方は異なっている。8世紀に造営された東大寺大仏(毘盧遮那仏)こそがその鍵を解くものである。華厳教の総本山東大寺の本尊仏「毘盧遮那」はサンスクリット語ヴァイローチャナ(vairocana)の漢音訳であるのに対し、9世紀に空海がもたらした真言密教の本尊「大日如来」はヴァイローチャナの意訳である。すなわち、「毘盧遮那=大日如来」という等式が成立し、華厳教はすでに真言密教の要素を多分に含んでいたと考えるのが妥当である。言い換えるならば、8世紀に造営された東大寺こそが先駆的な密教系の寺院であり、その本尊たる毘盧遮那大仏は密教の大日如来にほかならなかった。華厳経が密教であるならば、密教のシンボルというべき宝塔/多宝塔も存在したであろうと思いがちだが、奈良時代(8世紀)の日本に宝塔/多宝塔は未だ出現していない。その代わりのモニュメントとして位置づけられるのが、頭塔や土塔ではないかと私は思っている。
とはいえ、古代インドの仏教モニュメントは壊滅的状況に近く、立体マンダラ的な遺産の実情を知り得ないが、チベット・ブータン地域では直訳の仏典だけでなく多くの密教系遺産がよく保全されている。じっさい、東大寺頭塔の形状や配置はチベット・ブータン地域の伽藍とよく似ている。戒壇状テラスの壁面に多数の仏像を配し、その頂部に円形のストゥーパ(舎利塔)を置く立体マンダラの造形はもちろんのこと、伽藍正門の正面から一定の距離を隔てて立地する配置の類似性にはとくに注目したい。こうした歴史観については、2019年秋の中国建築学会(北京)及び中国科学技術史学会(福州)の国際シンポジウム論文集に論文を掲載し、講演をした。その際、2019年度科研によって旅費の一部を拠出している。
これまでみたように、古代アジア世界における密教の拡散という視点から、行基と係わりの深い大野寺や東大寺の仏教遺産を評価するならば、インド・チベット・ブータン地域との類似性を無視できないと思われる。とりわけ行基の場合、インドへの憧憬を円(マンダラ)の造形に託した感がある。このたび発見された、行基の供養堂と目される菅原遺跡(奈良市)の場合も、円形基壇の外側に16本の柱を環状に配列するものであり、日本建築史上類例のない平面をしているが、それは従来の日本的な木造建築の技術によって古代インドのストゥーパ的な円堂を表現しようとしたものに思えてならない。木造で円を表現するのはきわめて難しい仕事であり、こうした諸課題を抱えていたからこそ、行基と係わる菅原遺跡の建築復元に取り組んだ次第である。
コロナ禍のなかでいかに科研を遂行するか苦しんできたが、菅原遺跡の「円堂」復元は頭塔や土塔とともに、これまで研究室が科研費等で調査研究してきた古代インド、チベット・ブータンのストゥーパ、あるいは平安期以降の日本の宝塔・多宝塔等と比較するにあたってのメルクマールとなる遺跡として位置づけている。科研の主題である「仏教(密教)と調伏」は「仏教と在地の信仰・宗教の習合」と言い換えることもできる。そうした観点から、古代日本の円堂を復元し、アジアの仏教史・建築史のなかでの相対的位置を明らかにしたい。
【参考文献】
浅川滋男「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较」
『中国建筑学会建筑史分会年会及学术研讨会 2019 论文集(上)近70年建筑史研究与
历史建筑被保护 -中华人民共和国的建国70周年纪念』中国建筑学会 建筑史分会年会・
北京的工业大学、2019:pp.58-72
浅川滋男「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相 比较」
『2019年中国科技史学会建筑史专业委员会年会及国际学术的研讨会论文 集』中国科学
技术历史学会建筑史专业委员会・福州大学、2019:pp.71-85
浅川滋男「東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて」『能海寛と宇内一統宗教』同成社、2021:pp. 187-220
それを匂わせる仏教遺産が堺市大野寺の土塔である。奈良時代前半(720年代)に造営された土塔は十三重塔の最上部に円形の粘土ブロックを残すモニュメントであり、屋根も壁も本瓦を直葺きにしていた。日本建築史上類をみないこの建築は、インド的な巨大ストゥ-パを和風化したようにみえる。とくに頂部の円形構造物(おそらく伏鉢)の「円」はサンスクリット語のマンダラ、あるいはチベット語のメンダルに相当し、9世紀以降に隆盛する真言密教の曼陀羅との関係を想起させる。
天平8年(736)大仏造営のため聖武天皇がインド僧菩提僊那、チャンパ(林邑=カンボジア)僧仏哲等を招聘した際、大宰府でかれらを出迎えたのは行基であり、平城京まで案内した。おそらく行基は菩提僊那からもインドの情報を相当吸収したものと推察される。行基は天平12年から勅命により毘盧遮那大仏建立を支援することとなり、天平15年(743)大仏造営の勧進就任を経て、同17年(745)東大寺大僧正に任命される。行基の入滅(749)後しばらくして、東大寺別当良弁が南大門の正面(南方)約1kmのところに頭塔を造営する(行基の供養かも?)。頭塔は五重の土塔であり、壁面に44体の石仏を貼り付けている。いわばボロブドール(インドネシアの世界遺産・8世紀)の日本版というべきモニュメントであり、大野寺の土塔をさらに南アジアの立体マンダラ風に仕上げたものと推察される。
この時代、インドではバラモン教呪術の影響を受けた「密教」が流行し始めていた。密教は、一方では、中国中原地域を経由して日本にまで伝来し、他方ではチベット・ブータン地域や東南アジアにまで拡散していった。日本の場合、空海が日本に帰国する9世紀初頭以降、密教(真言宗)が波及していくというのが常識的な理解だが、わたしの見方は異なっている。8世紀に造営された東大寺大仏(毘盧遮那仏)こそがその鍵を解くものである。華厳教の総本山東大寺の本尊仏「毘盧遮那」はサンスクリット語ヴァイローチャナ(vairocana)の漢音訳であるのに対し、9世紀に空海がもたらした真言密教の本尊「大日如来」はヴァイローチャナの意訳である。すなわち、「毘盧遮那=大日如来」という等式が成立し、華厳教はすでに真言密教の要素を多分に含んでいたと考えるのが妥当である。言い換えるならば、8世紀に造営された東大寺こそが先駆的な密教系の寺院であり、その本尊たる毘盧遮那大仏は密教の大日如来にほかならなかった。華厳経が密教であるならば、密教のシンボルというべき宝塔/多宝塔も存在したであろうと思いがちだが、奈良時代(8世紀)の日本に宝塔/多宝塔は未だ出現していない。その代わりのモニュメントとして位置づけられるのが、頭塔や土塔ではないかと私は思っている。
とはいえ、古代インドの仏教モニュメントは壊滅的状況に近く、立体マンダラ的な遺産の実情を知り得ないが、チベット・ブータン地域では直訳の仏典だけでなく多くの密教系遺産がよく保全されている。じっさい、東大寺頭塔の形状や配置はチベット・ブータン地域の伽藍とよく似ている。戒壇状テラスの壁面に多数の仏像を配し、その頂部に円形のストゥーパ(舎利塔)を置く立体マンダラの造形はもちろんのこと、伽藍正門の正面から一定の距離を隔てて立地する配置の類似性にはとくに注目したい。こうした歴史観については、2019年秋の中国建築学会(北京)及び中国科学技術史学会(福州)の国際シンポジウム論文集に論文を掲載し、講演をした。その際、2019年度科研によって旅費の一部を拠出している。
これまでみたように、古代アジア世界における密教の拡散という視点から、行基と係わりの深い大野寺や東大寺の仏教遺産を評価するならば、インド・チベット・ブータン地域との類似性を無視できないと思われる。とりわけ行基の場合、インドへの憧憬を円(マンダラ)の造形に託した感がある。このたび発見された、行基の供養堂と目される菅原遺跡(奈良市)の場合も、円形基壇の外側に16本の柱を環状に配列するものであり、日本建築史上類例のない平面をしているが、それは従来の日本的な木造建築の技術によって古代インドのストゥーパ的な円堂を表現しようとしたものに思えてならない。木造で円を表現するのはきわめて難しい仕事であり、こうした諸課題を抱えていたからこそ、行基と係わる菅原遺跡の建築復元に取り組んだ次第である。
コロナ禍のなかでいかに科研を遂行するか苦しんできたが、菅原遺跡の「円堂」復元は頭塔や土塔とともに、これまで研究室が科研費等で調査研究してきた古代インド、チベット・ブータンのストゥーパ、あるいは平安期以降の日本の宝塔・多宝塔等と比較するにあたってのメルクマールとなる遺跡として位置づけている。科研の主題である「仏教(密教)と調伏」は「仏教と在地の信仰・宗教の習合」と言い換えることもできる。そうした観点から、古代日本の円堂を復元し、アジアの仏教史・建築史のなかでの相対的位置を明らかにしたい。
【参考文献】
浅川滋男「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较」
『中国建筑学会建筑史分会年会及学术研讨会 2019 论文集(上)近70年建筑史研究与
历史建筑被保护 -中华人民共和国的建国70周年纪念』中国建筑学会 建筑史分会年会・
北京的工业大学、2019:pp.58-72
浅川滋男「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相 比较」
『2019年中国科技史学会建筑史专业委员会年会及国际学术的研讨会论文 集』中国科学
技术历史学会建筑史专业委员会・福州大学、2019:pp.71-85
浅川滋男「東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて」『能海寛と宇内一統宗教』同成社、2021:pp. 187-220