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2021年度卒業論文 -中間報告(1)

大僧正行基と長岡院 -菅原遺跡を中心に-
Gyoki as an Archbishop and his Annex called Nagaoka-in – Focusing on the Sugawara ruins-

 2021年5月22日、奈良市疋田(ひきた)町の菅原遺跡に係わる報道が各紙いっせいにあった。『行基年譜』(1175)にいう長岡院に比定できる可能性が高く、しかも遺跡の中心に建つ遺構が円形(もしくは正多角形)を呈することから、「行基の供養堂」説が浮上し注目を集めたが、大規模宅地開発のため遺跡は取り壊されるという。円形の建物は日本建築史上例外的な存在であり、突出した文化財価値を備えている。研究室(OB含む)では遺跡供養のためにも復元研究に取り組むことになった。

1.行基略歴
 行基は天智天皇7年(668)、河内国大鳥郡(後の和泉国家原村=現在の堺市)で生まれた。天武天皇11年(682)15歳の時、大官大寺で得度し、持統天皇5年(691) 24歳で高宮寺徳光禅師のもと受戒する。このころ道昭(629-700)を師とし法相宗を学んだという。道昭は唐で玄奘三蔵に師事した遣唐留学僧であり、玄奘からインドの情報を吸収していたと想像されるが、道昭と行基の邂逅に係る記載には潤色を含むという指摘もある。
 大宝4年(704)、和泉の生家を「家原寺」という小寺に改めるも、40歳で生駒山の草野仙房に移住し修行する。養老元年(717)「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、人民を妖惑している」とあり、行基集団は僧尼令に違反するとして、朝廷からの弾圧を受けた。また天平2年(730)、平城京の東の丘陵で妖言を吐き、数千人以上の民衆に説法し惑わしているとして批判された(続日本紀)。このように奈良時代前期にあって、若き行基は反体制の立場から貧民救済を実践し朝廷から弾圧を受けていたが、天平3年(731)朝廷は弾圧を緩め、翌年から河内国狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平8年(736)インド僧菩提僊那や林邑(チャンパ)僧仏哲、唐僧道璿とともに来日した際、大宰府で行基が出迎え、平城京に導いた。三人の外国僧は大安寺に住したという。  
 天平10年(738)朝廷より「行基大徳」の諡号(しごう)が授けられた。天平12年から聖武天皇の勅命により毘盧遮那大仏建立に協力する。当時、都は恭仁京(現京都府木津川市)にあり大仏鋳造は甲賀の地で着工された。天平15年(743)、行基は大仏像造営の勧進に起用される。その2年後、都は平城京に戻り、大仏は東大寺に場所を変えて造営が進んだ。行基は天平17年に朝廷より仏教界における最高位「大僧正」の位を最初に贈られた。しかしながら、大仏開眼を前に天平21年(749)、喜光寺(菅原寺)で入滅(享年81歳)。

2. 行基四十九院と土塔
 仏教における「四十九院」の原義は、弥勒菩薩の居所である兜率天の内院にある49の宮殿を意味する。行基は生涯にわたって49の寺院を建立したと言われる。ただし、49という数字は「四十九院」や「四十九日」との語呂合わせであって、行基四十九院の場合、寺院数が実態を反映しているのか疑わしい。49院の名称や所在地が詳らかなわけではなく、行基四十九院に含まれることが確定しているのは、大野寺(大阪府堺市)、隆福院(奈良市大和田町)、昆陽施院(兵庫県伊丹市)、隆福尼院(奈良市大和田町)、発菩提院(京都府相楽郡山城町)などに限られている。大野寺はとくに有名で、730年頃に造営された土塔は十三重塔の最上部に「円」形の粘土ブロックを残すモニュメントであり、屋根も壁も本瓦を直葺きしていた。日本建築史上類をみないこの建築は、インド的な巨大ストゥーパを日本化したもののようにみえる。


3. 菅原遺跡の発見
 菅原遺跡は平城京西京極(西四坊大路)の外側にある。二条大路と西三坊大路の交わるところに行基入滅の菅原寺(喜光寺)が境内を構え、その西北約1kmの丘陵頂部に菅原遺跡が所在する。菅原寺の本堂は行基が東大寺大仏殿の試作モデルとして造営したものとされる。丘陵上の遺跡から東南方向に菅原寺の境内をまるごと俯瞰でき、東の遠方には若草山麓の大仏殿を遥拝できる。行基にとってみれば、絶好の場所である。
 『行基年譜』には「長岡院 在菅原寺西岡。己上両寺、卌九院之外也」とみえる。長岡院は菅原寺の西の丘にある、という位置関係の記載からみて、菅原遺跡が行基の「長岡院」である可能性は高いと言えよう。但し、両寺は49院の外(ほか)であるという注記に従うならば、長岡院と菅原寺は行基四十九院とは別の寺院として位置づけられていたのかもしれない。
 発掘調査でみつかった中央の「円形」建物は東側と北側東半を回廊(単廊)、北側西半と西側を掘立柱塀で囲まれている(南側は不詳)。 区画の規模は推定ながら南北38.5m×東西(内法)36.4mを測る。南北回廊の中央には横長の東西棟が対称に存在した可能性がある。回廊・東西棟ともに掘立柱だが、聖徳太子を供養する法隆寺東院の配置を彷彿とさせる。「円形」建物が供養堂と推定される所以である。南側の雨落溝では瓦が大量に出土し、奈良時代中期(745~757)の軒平瓦を含む。北側回廊の柱穴からは8世紀中ごろの土師器坏も出土している。
 「円形」建物跡は同心円を呈する2列の遺構からなる。外側では16基の掘立柱掘形、内側には基壇地覆の抜取穴が環状に並ぶ。掘立柱列の直径は約14.5m、基壇のそれは約9mを測る。出土遺物から遺構の設置年代は8世紀後半、廃絶は9世紀前半とされる。現在、法隆寺夢殿、栄山寺八角堂、興福寺北円堂などの古代の供養堂を参照し、研究室として復元に取り組んでいる。


菅原遺跡平面配置図菅原遺跡の平面配置図と動線(復元)

4. アジア的世界からみた菅原遺跡の円堂 
 出土遺構と復元案について、最終的には、研究室がこれまで調査研究してきた古代のインド、チベット・ブータン、中国のストゥーパ、平安期以降の日本の宝塔・多宝塔等との比較を試み、アジアの仏教史・建築史のなかでの座標を明らかにしたい。(玉田)

【参考文献・サイト】
井上薫(1997)『行基事典』国書刊行会
行基菩薩開基49ヶ院
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/gyoki49.htm
元興寺文化財研究所HP
「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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