2021年度卒業論文 -中間報告(3)
荒金鉱山と岩井町営軌道―岩美町の近代化遺産として―
Arakane mines and Iwai municipal railroad tracks-As the modernization heritage in Iwami town-
岩美町の荒金鉱山は、昭和46年(1971)の廃鉱後、排水の汚染により、公害の巣窟のようにみなされ、衛生工学的な処理ばかりに注目が集まってきたが、歴史的にみるならば、鳥取県の近代化に貢献した産業遺産、すなわち「近代化遺産」としての文化財価値も備えている。本研究は荒金鉱山及び鉱山と関係の深い岩井町営軌道の歴史を明らかにするとともに、今に残る近代化遺産としての価値を検証しようとするものである。
1.荒金鉱山の歴史
日本最古の鉱山についての記録は奈良時代の正史『続日本紀』に登場する。文武天皇二年(698)三月五日、「因幡の国より銅鉱を献ず」とみえる。厳密に言うならば、この銅鉱が岩美町の荒金鉱山に比定される確証はないけれども、和銅年間(708~712)には因幡国から元明天皇へ銅を献上し、鉱(あらかね)すなわち荒金と命名されていたようである。
その後の展開は近代にまで下る。明治22年(1889)岩美町法正寺にある宝得鉱山を経営していた山添貞三が、宝得鉱山の裏側にあたる荒金鉱山の古い坑道で、旧小田村の小倉勝次郎に採鉱を命じた。明治30年(1897)銅の露頭を発見し、数人で採掘を始めたが、成果は芳しいものではなかった。ここから本坑を開き、それが荒金鉱山の出発点となって、まもなく鉱山は島根の星野氏所有となる。
大正2年(1913)鉱山は星野氏から、島根津和野の豪商・堀藤十郎の手に渡る。堀は諸々の設備を整えて経営に尽力し、鉱山は隆盛期を迎えた。しかし大正9年(1920)、財界に大変動が起こり、荒金鉱山は一時休山状態に陥る。大正12年(1923)荒金鉱山は久原鉱業株式会社に委譲される。久原鉱業は日本鉱業株式会社と社名を変更し、一層の設備更新を図る。昭和4年(1929)の従業員は530名余に及び、銅の最高生産量を記録した。
隆盛期を迎えたこの頃、従業員の社宅が山上に建設され、寄合・演劇・映画上映に利用された集会所、理髪店などの福利厚生施設が鉱山周辺に存在し、鉱山町を形成していた。
昭和18年(1943)9月10日、鳥取大地震が発生し、坑道内の施設が壊滅的な被害を受け、採掘中止を余儀なくされる。この時、地震により堆積した鉱泥が荒金鉱山下部に流れこみ、朝鮮半島出身の鉱山労働者や荒金集落の住民たちなど、多くの命が犠牲になった。死者とともに、鉱山町を形成した住居なども破壊された。
震災を機に、会社は百名ほど人員を削減し、従来からの副業である沈殿銅の採集に転換したが、昭和27年(1952)から沈殿銅の品質が低下し、銅の生産量が減少に転ずる。
昭和30年(1955)頃から経営はさらに悪化し、昭和32年一月末日限りで操業停止、中国鉱山株式会社に鉱業権を譲渡した。集会所や理髪店などの施設も次々と売却され、鉱山町は徐々に空洞化していった。中国鉱山株式会社はその後も人員削減を繰り返しながら操業してきたが、昭和46年(1965)4月5日、鉱業権を破棄し会社は消滅した。事実上の閉鉱である。
昭和10年頃の鉱山の様子
2.岩井町営軌道の歴史
岩井町営軌道は、岩井村営軌道として大正15年(1926)1月頃から運営を開始した。当初は旅客送迎のみだったが、4月には、荒金鉱山から岩井温泉まで馬車軌道で運び出された鉱石を岩美駅まで貨車に荷出していた。駅まで運ばれた鉱石は鉄道省線に積み替えて、姫路市飾磨港まで運ばれ、九州の佐賀関まで輸送していた。
昭和2年(1928)の町制施行により、町営軌道となる。町による運営は成功するかと思われたが、昭和8年頃からの自動車の普及に伴い、軌道収益が減少し始め、経営が悪化していく。同時に、鉱石の運搬も、鉱石の採掘量減少に伴う運搬費節約のために、トラックに取って代わられる。
翌年、昭和9年(1934)6月6日の岩井大火、同年9月19~21日の豪雨大水害により、岩井温泉は壊滅状態に陥り、蒲生川河岸の軌道も流出するなどの被害があり、町営軌道は営業停止を余儀なくされた。昭和11年に営業再開。翌年、日中戦争が始まり、軍需優先政策から鉄の不足が深刻になって、軌道の取り換えや修理が困難になる。軌道の劣化によって列車の速度が遅くなり、運賃も値上がりした。昭和19年(1944)に戦中の企業整備により運休、事実上の廃業となる。その後、昭和39年(1964)3月27日付で岩井町営軌道は廃止となった。
Arakane mines and Iwai municipal railroad tracks-As the modernization heritage in Iwami town-
岩美町の荒金鉱山は、昭和46年(1971)の廃鉱後、排水の汚染により、公害の巣窟のようにみなされ、衛生工学的な処理ばかりに注目が集まってきたが、歴史的にみるならば、鳥取県の近代化に貢献した産業遺産、すなわち「近代化遺産」としての文化財価値も備えている。本研究は荒金鉱山及び鉱山と関係の深い岩井町営軌道の歴史を明らかにするとともに、今に残る近代化遺産としての価値を検証しようとするものである。
1.荒金鉱山の歴史
日本最古の鉱山についての記録は奈良時代の正史『続日本紀』に登場する。文武天皇二年(698)三月五日、「因幡の国より銅鉱を献ず」とみえる。厳密に言うならば、この銅鉱が岩美町の荒金鉱山に比定される確証はないけれども、和銅年間(708~712)には因幡国から元明天皇へ銅を献上し、鉱(あらかね)すなわち荒金と命名されていたようである。
その後の展開は近代にまで下る。明治22年(1889)岩美町法正寺にある宝得鉱山を経営していた山添貞三が、宝得鉱山の裏側にあたる荒金鉱山の古い坑道で、旧小田村の小倉勝次郎に採鉱を命じた。明治30年(1897)銅の露頭を発見し、数人で採掘を始めたが、成果は芳しいものではなかった。ここから本坑を開き、それが荒金鉱山の出発点となって、まもなく鉱山は島根の星野氏所有となる。
大正2年(1913)鉱山は星野氏から、島根津和野の豪商・堀藤十郎の手に渡る。堀は諸々の設備を整えて経営に尽力し、鉱山は隆盛期を迎えた。しかし大正9年(1920)、財界に大変動が起こり、荒金鉱山は一時休山状態に陥る。大正12年(1923)荒金鉱山は久原鉱業株式会社に委譲される。久原鉱業は日本鉱業株式会社と社名を変更し、一層の設備更新を図る。昭和4年(1929)の従業員は530名余に及び、銅の最高生産量を記録した。
隆盛期を迎えたこの頃、従業員の社宅が山上に建設され、寄合・演劇・映画上映に利用された集会所、理髪店などの福利厚生施設が鉱山周辺に存在し、鉱山町を形成していた。
昭和18年(1943)9月10日、鳥取大地震が発生し、坑道内の施設が壊滅的な被害を受け、採掘中止を余儀なくされる。この時、地震により堆積した鉱泥が荒金鉱山下部に流れこみ、朝鮮半島出身の鉱山労働者や荒金集落の住民たちなど、多くの命が犠牲になった。死者とともに、鉱山町を形成した住居なども破壊された。
震災を機に、会社は百名ほど人員を削減し、従来からの副業である沈殿銅の採集に転換したが、昭和27年(1952)から沈殿銅の品質が低下し、銅の生産量が減少に転ずる。
昭和30年(1955)頃から経営はさらに悪化し、昭和32年一月末日限りで操業停止、中国鉱山株式会社に鉱業権を譲渡した。集会所や理髪店などの施設も次々と売却され、鉱山町は徐々に空洞化していった。中国鉱山株式会社はその後も人員削減を繰り返しながら操業してきたが、昭和46年(1965)4月5日、鉱業権を破棄し会社は消滅した。事実上の閉鉱である。

2.岩井町営軌道の歴史
岩井町営軌道は、岩井村営軌道として大正15年(1926)1月頃から運営を開始した。当初は旅客送迎のみだったが、4月には、荒金鉱山から岩井温泉まで馬車軌道で運び出された鉱石を岩美駅まで貨車に荷出していた。駅まで運ばれた鉱石は鉄道省線に積み替えて、姫路市飾磨港まで運ばれ、九州の佐賀関まで輸送していた。
昭和2年(1928)の町制施行により、町営軌道となる。町による運営は成功するかと思われたが、昭和8年頃からの自動車の普及に伴い、軌道収益が減少し始め、経営が悪化していく。同時に、鉱石の運搬も、鉱石の採掘量減少に伴う運搬費節約のために、トラックに取って代わられる。
翌年、昭和9年(1934)6月6日の岩井大火、同年9月19~21日の豪雨大水害により、岩井温泉は壊滅状態に陥り、蒲生川河岸の軌道も流出するなどの被害があり、町営軌道は営業停止を余儀なくされた。昭和11年に営業再開。翌年、日中戦争が始まり、軍需優先政策から鉄の不足が深刻になって、軌道の取り換えや修理が困難になる。軌道の劣化によって列車の速度が遅くなり、運賃も値上がりした。昭和19年(1944)に戦中の企業整備により運休、事実上の廃業となる。その後、昭和39年(1964)3月27日付で岩井町営軌道は廃止となった。
3.岩美町近代化遺産の現状
(1)荒金鉱山: 岩美町鉱害防止協会が鉱山からの重金属を含む汚染水の処理をおこなっている。鉱山自体が近代化遺産であり、坑道は予約すれば見学可能である。鉱夫の信仰した神社(山神さん)が灌木林の中に残っている。山神さんは坑道で働く鉱夫たちの心の拠り所であった。残念ながら、鉱山町の遺跡は跡形もない。清掃・除草作業によって痕跡を探すことはできるかもしれないが、まずは昔の地図などを探すところから始めなければならない。ただし、空き瓶や陶器など鉱山町時代の遺物とおぼしき廃棄物を造成地層中で発見した。なお、岩美町荒金の「行者の館」のそばに鳥取大地震で亡くなった朝鮮人労働者の慰霊碑が建設されている。

(2)岩井町営軌道: 岩美駅近くに石碑が建つのみで、軌道跡や駅舎などは残っていない(軌道跡を想像できないわけではない)。岩井町営軌道と連結し、荒金鉱山に接続していた久原鉱業のトロッコのレールは、岩美町相山の山中に残っており、荒金鉱山を見学した際、敷地内にレール跡を発見した。

4.今後の課題
岩井町営軌道・荒金鉱山については、今年の7 月末頃に一度フィールドワークをおこない、8月には「行者の館」で鉱山関係の道具や古写真を撮影した。今後は以下の活動に取り組みたい。
1)町営軌道・鉱山の文献研究の深化
2)鉱山町に係わる古写真・図面・文献の精査(主にネット)
3)鉱山を再訪し、関連遺物を収集。
4)近代化遺産としての鉱山・軌道跡の総合的評価
(天破活殺)
≪参考文献≫
岩美町教育委員会内岩美町誌刊行委員会編(1968)『岩美町誌』岩美町
岩美町誌執筆編集員会編(2006)『新編岩美町誌上巻・下巻』岩美町
(1)荒金鉱山: 岩美町鉱害防止協会が鉱山からの重金属を含む汚染水の処理をおこなっている。鉱山自体が近代化遺産であり、坑道は予約すれば見学可能である。鉱夫の信仰した神社(山神さん)が灌木林の中に残っている。山神さんは坑道で働く鉱夫たちの心の拠り所であった。残念ながら、鉱山町の遺跡は跡形もない。清掃・除草作業によって痕跡を探すことはできるかもしれないが、まずは昔の地図などを探すところから始めなければならない。ただし、空き瓶や陶器など鉱山町時代の遺物とおぼしき廃棄物を造成地層中で発見した。なお、岩美町荒金の「行者の館」のそばに鳥取大地震で亡くなった朝鮮人労働者の慰霊碑が建設されている。


(2)岩井町営軌道: 岩美駅近くに石碑が建つのみで、軌道跡や駅舎などは残っていない(軌道跡を想像できないわけではない)。岩井町営軌道と連結し、荒金鉱山に接続していた久原鉱業のトロッコのレールは、岩美町相山の山中に残っており、荒金鉱山を見学した際、敷地内にレール跡を発見した。

4.今後の課題
岩井町営軌道・荒金鉱山については、今年の7 月末頃に一度フィールドワークをおこない、8月には「行者の館」で鉱山関係の道具や古写真を撮影した。今後は以下の活動に取り組みたい。
1)町営軌道・鉱山の文献研究の深化
2)鉱山町に係わる古写真・図面・文献の精査(主にネット)
3)鉱山を再訪し、関連遺物を収集。
4)近代化遺産としての鉱山・軌道跡の総合的評価
(天破活殺)
≪参考文献≫
岩美町教育委員会内岩美町誌刊行委員会編(1968)『岩美町誌』岩美町
岩美町誌執筆編集員会編(2006)『新編岩美町誌上巻・下巻』岩美町