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円堂ノート(1)

1.菅原遺跡「円堂」の発見
(1)菅原遺跡の報道と視察
 2021年5月22日(金)、奈良市疋田(ひきた)町の菅原遺跡に係わる報道があった。行基が没した菅原寺との位置関係からみて、『行基年譜』にいう長岡院に比定できる可能性が高く、しかも遺跡の中心に建つ遺構が円形を呈することから、「行基の供養堂」説が浮上し注目を集めたが、大規模宅地開発のため遺跡は取り壊されると聞いた。円形平面の建物は、平安密教のシンボルというべき宝塔/多宝塔を例外とすれば、日本建築史上例外的な存在であり、とりわけ奈良時代以前においては類例がない。この点だけをみても、菅原遺跡は特筆すべき文化財価値を備えている。これだけ価値の高い遺跡が消滅することを知り、遺跡を供養するためにも、復元研究に取り組むべきと考えた。

(2)本研究の目的
  5月22日の視察後、復元の構想について池田係長に打ち明けたところ、調査主体である(公財)元興寺文化財研究所に連絡をとるように示唆されたので、発掘調査を担当した村田裕介氏に連絡した。村田氏によれば、発掘調査の正式な報告書の刊行は令和4年度事業となるが、元興寺文化財研究所HPに速報「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」(参考サイト1)が公開されており、その資料を活用する復元研究を禁ずるものではない、という回答をいただいた。本研究は、この速報と遺跡視察の成果に基づき、円堂を中心とする菅原遺跡建物跡群の復元を試みるものである。

2.菅原遺跡の概要と遺構
(1)菅原遺跡と行基の長岡院
 菅原遺跡は平城京西京極の外側に位置する(図01)。平城京二条大路の西の延長線と西三坊大路の交わるところに喜光寺(菅原寺)があり、その西北約1kmの丘陵頂部に菅原遺跡が所在する。菅原遺跡と喜光寺の位置関係は『行基年譜』(1175)にいう「長岡院 在菅原寺西岡」の記載に一致し、東大寺大僧正行基(668-749)の創建にかかる「長岡院」の可能性が高いとされる。喜光寺の本堂は行基が東大寺大仏殿を建立する前に大仏殿の圧縮モデルとして試作されたものとされ、行基は喜光寺で生涯を終えた。丘陵上の菅原遺跡から東南方向に喜光寺の境内を俯瞰でき、東の遠方には若草山麓の大仏殿を遥拝できる(図02)。毘盧遮那大仏鋳造を指揮した行基にとって絶好の場所であり、この場所に建つ建物が行基の供養堂と目される所以である。そして、それは『行基年譜』にいう長岡院であろうという推察を否定しえない。

(2)囲繞施設の遺構
 菅原遺跡の中央に鎮座する円形建物(円堂)は東側と北側東半を回廊(単廊)、北側西半と西側を掘立柱塀で囲まれている。北回廊は5間×2間の東西棟堀立柱建物(柱間10尺等間)にとりつく。南側は不詳ながら、同様の東西棟掘立柱建物の北西隅の柱堀形らしき遺構がみつかっている。南北対称の位置に東西棟が存在した可能性がある。
 北側と西側を画する回廊(掘立柱の単廊)の柱間は等間ではなく、7.5尺、7,7尺、8.3尺、10尺と多様である。筆者が奈良文化財研究所在職中に参加した薬師寺西回廊の発掘調査でも、柱間は等間ではなく、ごく一部で柱間に乱れを確認したが、菅原遺跡の場合は柱間のばらつきが著しい。丘陵地形に対応した可能性がある。回廊の柱堀形は80~100㎝四方であり、直径1尺程度の柱痕跡を確認できる。
 北東と東側の掘立柱塀の柱間も7尺、10尺、11尺、12尺など多様だが、とくに注目すべきは北側東西棟(5間×2間)の東脇の柱間が12尺と広いことであり、ここに脇門が存在した可能性がある。また、東側の掘立柱塀のほぼ中央には柱間20尺の部分があるのだけれども、その中間に小さなピットも存在する。円堂からこの方角を望むと、東大寺大仏殿を遥拝できる。ここに柱間2間(10尺等間)の棟門が存在した可能性がある。それは、伽藍への出入口というよりも、遠方の大仏殿を荘厳する装置であったかもしれない。
 北側の回廊・掘立柱塀にとりつく東西棟(5間×2間)は桁行・梁間とも10尺等間であり、柱堀形は回廊とほぼ同規模である。一方、南側の推定「東西棟」は先述のように、北西隅の柱堀形しか検出されていないが、その堀形の北側で検出された南側回廊の雨落溝の位置関係から考えると、梁間の柱間を12尺にとるべきかもしれない。この場合、南側の東西棟の方が北側の東西棟より梁間規模がやや大きくなる。
 回廊・掘立柱塀・東西棟等で構成される囲繞施設の規模は推定ながら南北38.5m×東西36.4mを測る。回廊・東西棟等はいずれも掘立柱ながら、聖徳太子を供養する八角円堂「夢殿」を中心に据えた法隆寺東院の伽藍配置を彷彿とさせる。菅原遺跡の円堂を供養堂と推定する一因である。上述した南北の東西棟の機能は不明ながら、法隆寺東院と比較するならば、南側は「礼堂」、北側は「絵殿・舎利殿」に相当する。


(3)円堂の遺構
 菅原遺跡の円堂跡は同心円を呈する2列の遺構からなる。内側には基壇地覆の抜取穴(幅20~25㎝程度)が環状に並ぶ。基壇の直径は最大でおよそ34~35尺を測る(後述)。なお、地覆は「円形」を呈すると記されているが、現場で確認したところ、直線を呈する地覆抜取穴を3ヶ所以上含むので、基壇は必ずしも円形とは限らず、正多角形の可能性がある。基壇地覆の内側に遺構は存在しない。基壇土はすべて削平され、柱礎石の据付穴や根石もすべて失われている。したがって、遺構そのものから基壇上の柱配置を復元することはできない。
 基壇の外側には、土庇の痕跡と思われる16基の掘立柱掘形・抜取穴が環状に並ぶ。掘立柱列の直径は50尺前後を測る。堀形・抜取穴は回廊のそれに比べてはるかに貧相であり、柱痕跡は直径7~8寸程度の細身のものである。

(4)遺物と年代観
 菅原遺跡の南面遮蔽施設(おそらく回廊と南側東西棟建物)の北側近くに雨落溝があり、瓦が大量に出土し、奈良時代中期(745~757年)の軒平瓦を含む。また、北面回廊の柱穴からは8世紀中ごろの土師器坏も出土している。こうした出土遺物のほかに注目すべきは遺構の方位のずれである。今回、遺構図を精査するなかで、円堂と囲繞施設で方位軸に3°ばかりのずれがあることを確認した。円堂の南北軸は囲繞施設の南北軸に対して右回りに3°回転しているのである。これは円堂と囲繞施設で造営期に若干の時間差があったことを暗示している。今のところ、以下のように理解している。

Ⅰ期: 750~760年ころ(行基没:749年、出土軒瓦の上限:757年)
 円堂を建立(土庇はやや遅れるか)
Ⅱ期: 760~770年ころ
 掘立柱の回廊等囲繞施設が完成
 (円堂土庇はこの時期にくいこむか)
Ⅲ期: 9世紀前半
 廃絶


*「円堂ノート」連載
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2452.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2454.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2456.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2460.html


 

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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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