円堂ノート(2)
2.復元の前提と類例
(1)速報にみる円堂の復元イメージ
菅原遺跡の南隣接地で1981年に発掘調査がおこなわれ、『菅原遺跡』(奈良大学平城京発掘調査報告書第1集・1982)が刊行されている。前掲速報「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」(2021)によると、今回発見された遺跡は、1981年調査でみつかった仏堂跡(瓦や風鐸を伴う基壇建物)を含む山林寺院の一部であり、円形建物跡の性格は明確ではないが、多宝塔や八角円堂などの円堂建築であることは間違いないとする。さらに円堂建築については、個人を供養する機能が推定され、円形の多宝塔を想定する案が有力である。その傍証として敦煌莫高窟の壁画には円形の仏塔が描かれており、こうした中国の情報をもとに造られた建物かもしれないとして復元パースを描いている(図〓)。ただし、円形基壇の上に八角堂をおく案や、インドのストゥーパのような土饅頭構造の周りを柵で囲っていたという案も記されており、上部構造についてはなお検討の余地がある。以上が速報段階の見解である。
速報の図4として示された復元パースは、空海がもたらした平安密教(真言宗)の多宝塔を彷彿とさせるものだが、奈良時代の日本に宝塔/多宝塔の類が伝来していたという証拠は存在しない。また、敦煌莫高窟の壁画では宝塔と断じてよい画像を確認できるものの、多宝塔については「多宝塔に似た二重構造の建造物」を描いているにすぎない(蕭黙『敦煌建築研究』1981・文物出版社)。それらは「多宝塔風」にみえるだけであって、宝塔に裳階をつけた多宝塔だと確定しているわけではないのである。また、建築的にみた場合、速報の復元パースでは、本体の大屋根および裳階屋根が円錐形を呈している点に最も不自然さがある。平安期以降の多宝塔では大屋根・裳階屋根とも方形(あるいは宝形)の形式であり、いずれの屋根も本瓦を平行に葺きおろす。ところが、速報の復元案では、屋根が円錐形になるため、本瓦は天壇(北京)の屋根のように台形状を呈し、棟から軒に向かって末広がりにならなければならない。こうした瓦は、残念ながら、古代日本ではみつかっていない。円錐形の屋根を瓦や板で葺きあげることは不可能である。円錐形屋根がつくれないからこそ、日本では「六角円堂」「八角円堂」などの正多角形平面の堂宇が円形建物の代替として出現し、屋根は隅棟が放射状に伸びるものの、一般部の瓦は平行に葺かれたのである。
宝塔/多宝塔以外の考え方として、「円形基壇の上に八角堂をおく案や、インドのストゥーパのような土饅頭構造の周りを柵で囲っていたという案」も速報で取り上げている。後者については、おそらくサーンチの仏塔(インド中部・前3世紀)のような墳墓状の初期ストゥーパを意識しているのであろうが、時代・構造などからみて論外というほかなく、可能性として残るのは「円形基壇の上に八角堂をおく案」のみと思われる。なお、速報では「多宝塔や八角円堂などの円堂建築」として一括しているが、多宝塔と八角円堂は似て非なる建築である。八角円堂は物故した個人を供養する「廟」のような施設であるのに対して、真言密教のシンボルというべき多宝塔は大日如来や多宝如来などを祀る非舎利塔系の仏塔であり、両者を混同することはできない。
(2)円堂遺構の特徴-平城宮第一次大極殿との類似性
菅原遺跡円堂跡の出土状況は平城宮第一次大極殿跡と非常によく似ている。第一次大極殿の跡地は、奈良時代後半に「西宮」が造営されたことで削平・攪乱が激しく、基壇土はすべて失われ、基壇・階段の地覆の据付溝と抜取穴のみ残し、柱位置は不明である。幸いなことに、階段の地覆の痕跡が検出できたので、階段位置から柱位置を推定した。これについては、さらに藤原宮大極殿跡や大官大寺金堂・講堂跡などを参考にして検証もした。
菅原遺跡の円堂跡も、先述のように、基壇地覆石の抜取穴を11ヶ所に残すのみであり、階段の地覆は未検出ながら、北側に2ヶ所抜取穴のない部分があり、南側正面にもやや短いが同様の部分がある。基壇の高さはおそらく4尺以上あり、礎石の据付穴の深さは3尺程度に収まるので、基壇土とともにすべての据付穴・根石が失われたものと推定される。基壇面の柱配置は遺構から直接復元することは不可能であり、奈良時代の八角円堂である法隆寺夢殿や栄山寺八角堂を参考とする以外方法がないと思われる。
基壇周囲の土庇(裳階)状の掘立柱列は小規模なものであり、柱間は10~11尺程度で環状に並んでいるが、等間とは言い切れない。柱間に寸法差が生まれる理由については、復元の過程で説明する。日本全国に古代~近世の八角円堂が現存するが、土庇や裳階をもつ例はない(薬師寺玄奘三蔵院の八角堂は現代建築)。土庇ではないが、裳階を伴う八角形建物としては長野県上田市の安楽寺三重塔がある。菅原遺跡円堂の場合、土庇状の裳階を有する八角堂という点は特異であり、既存の八角堂の寸法・比例等を採用するにあたって一定の操作・介入が必要となるであろう。
(1)速報にみる円堂の復元イメージ
菅原遺跡の南隣接地で1981年に発掘調査がおこなわれ、『菅原遺跡』(奈良大学平城京発掘調査報告書第1集・1982)が刊行されている。前掲速報「菅原遺跡-平城京西方の円堂遺構-」(2021)によると、今回発見された遺跡は、1981年調査でみつかった仏堂跡(瓦や風鐸を伴う基壇建物)を含む山林寺院の一部であり、円形建物跡の性格は明確ではないが、多宝塔や八角円堂などの円堂建築であることは間違いないとする。さらに円堂建築については、個人を供養する機能が推定され、円形の多宝塔を想定する案が有力である。その傍証として敦煌莫高窟の壁画には円形の仏塔が描かれており、こうした中国の情報をもとに造られた建物かもしれないとして復元パースを描いている(図〓)。ただし、円形基壇の上に八角堂をおく案や、インドのストゥーパのような土饅頭構造の周りを柵で囲っていたという案も記されており、上部構造についてはなお検討の余地がある。以上が速報段階の見解である。
速報の図4として示された復元パースは、空海がもたらした平安密教(真言宗)の多宝塔を彷彿とさせるものだが、奈良時代の日本に宝塔/多宝塔の類が伝来していたという証拠は存在しない。また、敦煌莫高窟の壁画では宝塔と断じてよい画像を確認できるものの、多宝塔については「多宝塔に似た二重構造の建造物」を描いているにすぎない(蕭黙『敦煌建築研究』1981・文物出版社)。それらは「多宝塔風」にみえるだけであって、宝塔に裳階をつけた多宝塔だと確定しているわけではないのである。また、建築的にみた場合、速報の復元パースでは、本体の大屋根および裳階屋根が円錐形を呈している点に最も不自然さがある。平安期以降の多宝塔では大屋根・裳階屋根とも方形(あるいは宝形)の形式であり、いずれの屋根も本瓦を平行に葺きおろす。ところが、速報の復元案では、屋根が円錐形になるため、本瓦は天壇(北京)の屋根のように台形状を呈し、棟から軒に向かって末広がりにならなければならない。こうした瓦は、残念ながら、古代日本ではみつかっていない。円錐形の屋根を瓦や板で葺きあげることは不可能である。円錐形屋根がつくれないからこそ、日本では「六角円堂」「八角円堂」などの正多角形平面の堂宇が円形建物の代替として出現し、屋根は隅棟が放射状に伸びるものの、一般部の瓦は平行に葺かれたのである。
宝塔/多宝塔以外の考え方として、「円形基壇の上に八角堂をおく案や、インドのストゥーパのような土饅頭構造の周りを柵で囲っていたという案」も速報で取り上げている。後者については、おそらくサーンチの仏塔(インド中部・前3世紀)のような墳墓状の初期ストゥーパを意識しているのであろうが、時代・構造などからみて論外というほかなく、可能性として残るのは「円形基壇の上に八角堂をおく案」のみと思われる。なお、速報では「多宝塔や八角円堂などの円堂建築」として一括しているが、多宝塔と八角円堂は似て非なる建築である。八角円堂は物故した個人を供養する「廟」のような施設であるのに対して、真言密教のシンボルというべき多宝塔は大日如来や多宝如来などを祀る非舎利塔系の仏塔であり、両者を混同することはできない。
(2)円堂遺構の特徴-平城宮第一次大極殿との類似性
菅原遺跡円堂跡の出土状況は平城宮第一次大極殿跡と非常によく似ている。第一次大極殿の跡地は、奈良時代後半に「西宮」が造営されたことで削平・攪乱が激しく、基壇土はすべて失われ、基壇・階段の地覆の据付溝と抜取穴のみ残し、柱位置は不明である。幸いなことに、階段の地覆の痕跡が検出できたので、階段位置から柱位置を推定した。これについては、さらに藤原宮大極殿跡や大官大寺金堂・講堂跡などを参考にして検証もした。
菅原遺跡の円堂跡も、先述のように、基壇地覆石の抜取穴を11ヶ所に残すのみであり、階段の地覆は未検出ながら、北側に2ヶ所抜取穴のない部分があり、南側正面にもやや短いが同様の部分がある。基壇の高さはおそらく4尺以上あり、礎石の据付穴の深さは3尺程度に収まるので、基壇土とともにすべての据付穴・根石が失われたものと推定される。基壇面の柱配置は遺構から直接復元することは不可能であり、奈良時代の八角円堂である法隆寺夢殿や栄山寺八角堂を参考とする以外方法がないと思われる。
基壇周囲の土庇(裳階)状の掘立柱列は小規模なものであり、柱間は10~11尺程度で環状に並んでいるが、等間とは言い切れない。柱間に寸法差が生まれる理由については、復元の過程で説明する。日本全国に古代~近世の八角円堂が現存するが、土庇や裳階をもつ例はない(薬師寺玄奘三蔵院の八角堂は現代建築)。土庇ではないが、裳階を伴う八角形建物としては長野県上田市の安楽寺三重塔がある。菅原遺跡円堂の場合、土庇状の裳階を有する八角堂という点は特異であり、既存の八角堂の寸法・比例等を採用するにあたって一定の操作・介入が必要となるであろう。
(3)円堂再訪
菅原遺跡の円堂跡を復元するため、平安~鎌倉期の重要な八角円堂を訪問した。いずれも馴染み深い建造物だが、再訪によって改めて気づかされる点も少なくなかった。
①法隆寺東院夢殿: 斑鳩宮の故地に建てられた聖徳太子の供養堂である。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。建立は天平11年(739)もしくは天平9年(737)とされる。外観は低平な印象があるけれども、基壇を二重にして高さを確保している。基壇上の柱配列が、入側筋・側柱筋の両方で正八角形を呈す。
②栄山寺八角堂: 藤原武智麻呂の没後、子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立した供養堂とされる(図05 )。竣工の年代は武智麻呂の墓が栄山寺北側の山上に改葬された天平宝字4年(760)から仲麻呂の没した天平宝字8年(764)までの5年間に絞られる。基壇上の柱配置は入側筋が四本柱、側柱筋が八角形を呈する。夢殿に比べ、柱間に対して柱が長く、こうした縦長の比例のほうが土庇をつけやすい。年代・造形からみて 、夢殿以上に重要な奈良時代の類例と考えられる。
③法隆寺西円堂: 法隆寺西院伽藍北西の小高い場所に建つ八角円堂。現存する遺構は鎌倉時代建長2年(1250)の再建だが、当初は養老2年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願によって、行基が建立したという寺伝がある。全体に古代の趣きをよく残す。とくに注目されるのは正面の向拝である。円堂から独立する四本柱で片流れの屋根を支える。ただし、向拝垂木上端の位置は本体の連子窓の楣の位置にあわせており、向拝の屋根面は八角堂屋根とほぼ接している。正面から遠望するに錣葺き風にみえる。
④興福寺北円堂: 藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月、元明・元正天皇が長屋王に命じて建立させた八角円堂(図06 )。治承4年(1180)、平重衡による南都焼討で伽藍の大半が被災し、北円堂は承元4年(1210)ころに再建された。東大寺が重源の大仏様によって復興したのとは対照的に、興福寺は古代の和様を継承した中世新和様で再建が進んだ。北円堂は古代の風格をよく伝えており、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されることがしばしばある 。柱上の組物は手先にひろがりのない三手先で尾垂木もない。軒は三軒で、地垂木を円とする。基壇は低く、高さ2尺余り。
⑤興福寺南円堂: 弘仁4年(813)、藤原冬嗣が父の内麻呂の追善のために建立した供養堂。平安期の鎮壇には空海が関わったと伝承される。興福寺は藤原氏の氏寺(法相宗)である。創建以後、4 度の再建が繰り返され、現在の建物は寛保元年(1741)に立柱、寛政元年(1789)に竣工したものである。正面(東)には間口1間・奥行2間の「拝所」があり、唐破風の向拝と本体の繋ぎとなる部分の上に短い裳階を掛けている。江戸時代の建物だけに丈が高い。唐破風と裳階を設けるためにはこれぐらいの高さが必要であり、土庇状の裳階を有する菅原遺跡円堂の復元にとっても参考になる(図07) 。向拝上の正面裳階は楣上の長押の位置にかけている。八角円堂に裳階をめぐらせるとすれば、楣位置の内法長押に掛けるのが無難と思われる。柱頭の組物は隅が北円堂と同じ手先にひろがりのない三手先(尾垂木なし)、軒は三軒とする。基壇高は5尺以上ある。
⑥安楽寺八角三重塔: 長野県上田市にある禅宗寺院の塔(図08) 。13世紀末の建立と推定されている禅宗様の代表作であり、江戸時代以前の遺構としては唯一の八角塔である。とりわけ注目されるのは初重の裳階である。法隆寺西院や薬師寺東塔の裳階は短いものだが、安楽寺三重塔では本体初重屋根より裳階を長くしており、菅原遺跡の裳階と似ている。安楽寺三重塔では、本体の八角側柱筋に建具はなく、裳階外側に建具を嵌め込んでいる。
⑦薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔: 玄奘三蔵(602-664)の遺徳を讃えるため薬師寺に造営された分院(図09 )。玄奘の思想は弟子の慈恩大師により「法相宗」として大成し、遣唐留学僧の道昭により日本に招来された。行基は道昭に学んだとされるが、潤色を含むという指摘もある 。薬師寺は平成3年(1991)に玄奘三蔵院伽藍を建立した。設計監理は伊藤平左ェ門建築事務所、棟梁を西岡常一が務めた。中央の玄奘塔(八角円堂)には玄奘頂骨の分骨を収める。裳階を伴う特殊な八角堂である。薬師寺の場合、東塔に裳階がつき、金堂等の建物跡にも裳階の遺構が残っているので、八角堂にも裳階をつけたものと思われる。上記①~⑤の八角堂は裳階のない平屋建だが、裳階付きの玄奘塔はそれら以上に豪壮華麗にみえる。現代建築ではあるけれども、土庇状裳階を伴う菅原遺跡円堂の類例としておおいに参考にすべきと考える。
*「円堂ノート」連載
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2452.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2454.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2456.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2460.html
菅原遺跡の円堂跡を復元するため、平安~鎌倉期の重要な八角円堂を訪問した。いずれも馴染み深い建造物だが、再訪によって改めて気づかされる点も少なくなかった。
①法隆寺東院夢殿: 斑鳩宮の故地に建てられた聖徳太子の供養堂である。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。建立は天平11年(739)もしくは天平9年(737)とされる。外観は低平な印象があるけれども、基壇を二重にして高さを確保している。基壇上の柱配列が、入側筋・側柱筋の両方で正八角形を呈す。
②栄山寺八角堂: 藤原武智麻呂の没後、子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立した供養堂とされる(図05 )。竣工の年代は武智麻呂の墓が栄山寺北側の山上に改葬された天平宝字4年(760)から仲麻呂の没した天平宝字8年(764)までの5年間に絞られる。基壇上の柱配置は入側筋が四本柱、側柱筋が八角形を呈する。夢殿に比べ、柱間に対して柱が長く、こうした縦長の比例のほうが土庇をつけやすい。年代・造形からみて 、夢殿以上に重要な奈良時代の類例と考えられる。
③法隆寺西円堂: 法隆寺西院伽藍北西の小高い場所に建つ八角円堂。現存する遺構は鎌倉時代建長2年(1250)の再建だが、当初は養老2年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願によって、行基が建立したという寺伝がある。全体に古代の趣きをよく残す。とくに注目されるのは正面の向拝である。円堂から独立する四本柱で片流れの屋根を支える。ただし、向拝垂木上端の位置は本体の連子窓の楣の位置にあわせており、向拝の屋根面は八角堂屋根とほぼ接している。正面から遠望するに錣葺き風にみえる。
④興福寺北円堂: 藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月、元明・元正天皇が長屋王に命じて建立させた八角円堂(図06 )。治承4年(1180)、平重衡による南都焼討で伽藍の大半が被災し、北円堂は承元4年(1210)ころに再建された。東大寺が重源の大仏様によって復興したのとは対照的に、興福寺は古代の和様を継承した中世新和様で再建が進んだ。北円堂は古代の風格をよく伝えており、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されることがしばしばある 。柱上の組物は手先にひろがりのない三手先で尾垂木もない。軒は三軒で、地垂木を円とする。基壇は低く、高さ2尺余り。
⑤興福寺南円堂: 弘仁4年(813)、藤原冬嗣が父の内麻呂の追善のために建立した供養堂。平安期の鎮壇には空海が関わったと伝承される。興福寺は藤原氏の氏寺(法相宗)である。創建以後、4 度の再建が繰り返され、現在の建物は寛保元年(1741)に立柱、寛政元年(1789)に竣工したものである。正面(東)には間口1間・奥行2間の「拝所」があり、唐破風の向拝と本体の繋ぎとなる部分の上に短い裳階を掛けている。江戸時代の建物だけに丈が高い。唐破風と裳階を設けるためにはこれぐらいの高さが必要であり、土庇状の裳階を有する菅原遺跡円堂の復元にとっても参考になる(図07) 。向拝上の正面裳階は楣上の長押の位置にかけている。八角円堂に裳階をめぐらせるとすれば、楣位置の内法長押に掛けるのが無難と思われる。柱頭の組物は隅が北円堂と同じ手先にひろがりのない三手先(尾垂木なし)、軒は三軒とする。基壇高は5尺以上ある。
⑥安楽寺八角三重塔: 長野県上田市にある禅宗寺院の塔(図08) 。13世紀末の建立と推定されている禅宗様の代表作であり、江戸時代以前の遺構としては唯一の八角塔である。とりわけ注目されるのは初重の裳階である。法隆寺西院や薬師寺東塔の裳階は短いものだが、安楽寺三重塔では本体初重屋根より裳階を長くしており、菅原遺跡の裳階と似ている。安楽寺三重塔では、本体の八角側柱筋に建具はなく、裳階外側に建具を嵌め込んでいる。
⑦薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔: 玄奘三蔵(602-664)の遺徳を讃えるため薬師寺に造営された分院(図09 )。玄奘の思想は弟子の慈恩大師により「法相宗」として大成し、遣唐留学僧の道昭により日本に招来された。行基は道昭に学んだとされるが、潤色を含むという指摘もある 。薬師寺は平成3年(1991)に玄奘三蔵院伽藍を建立した。設計監理は伊藤平左ェ門建築事務所、棟梁を西岡常一が務めた。中央の玄奘塔(八角円堂)には玄奘頂骨の分骨を収める。裳階を伴う特殊な八角堂である。薬師寺の場合、東塔に裳階がつき、金堂等の建物跡にも裳階の遺構が残っているので、八角堂にも裳階をつけたものと思われる。上記①~⑤の八角堂は裳階のない平屋建だが、裳階付きの玄奘塔はそれら以上に豪壮華麗にみえる。現代建築ではあるけれども、土庇状裳階を伴う菅原遺跡円堂の類例としておおいに参考にすべきと考える。
*「円堂ノート」連載
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2452.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2454.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2456.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2460.html