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円堂ノート(3)

3.建物跡の復元
(1)基準尺の割り出し
 天平の建築および建物跡では柱間10尺を単位とし、その倍数で設計されることがしばしばある。菅原遺跡円堂跡の場合、内側の基壇の径を30尺(10尺×3)、土庇の直径を50尺(10尺×5)とみれば、上記の原則にあてはまるのだが、実際の寸法は微妙な値を示している。外側をめぐる土庇(裳階)の径は対辺間距離(内接円直径)では145.3㎝、対角線距離(外接円直径)では148.6㎝となる。前者を49尺、後者を50尺とみた場合、設計寸法の基準尺(1小尺)=296.5㎜という奈良時代後半にふさわしい寸法が得られる。この1小尺が菅原遺跡の基準寸法と考えている。一方、基壇地覆(抜取外周)の場合、対辺間距離(内接円)は978㎝、対角線(外接円)は1,001㎝(33.81尺)であり、33~34尺とみるべきかもしれないが、35尺(1,036㎝)の誤差と理解することもできる。以上から基壇建物を敢えて「円」としてとらえる場合、基壇径=35尺、土庇径=50尺が理想的な設計寸法であった可能性があるであろう(図03・10 )。
(2)円堂3案
 発掘された出土遺構から得られる情報は十分なものではなく、とりわけ円堂については、前代未聞の遺構なので、復元案は確定的なものになりえない。以下の3案を図化する。 
 A案(栄山寺八角堂を意識した復元案)
 B案(薬師寺玄奘三蔵院八角堂と安楽寺三重塔を意識した復元案)
 C案(法隆寺夢殿と興福寺北円堂を意識した復元案)

A案(栄山寺八角堂を意識した復元案)図11
  八角円堂: 基壇十六角形 平屋建本瓦葺 平三斗(または出三斗)、二軒(地方飛方) 柱径1.5尺
   土庇(裳階): 檜皮葺・建具無 柱径8寸 繋虹梁・間斗束  全体を赤色塗装
 すでに述べたように、菅原遺跡円堂跡の類例として最も重要な建造物は栄山寺八角堂である。造営年代が近接し、夢殿に比べて縦長の造形が裳階を収めるにふさわしい。柱の入側筋に4本柱を立て、側柱筋は正八角形に8本の柱を立てる。柱自体も正八角形であり、対辺間寸法で1.36尺、対角線で1.47尺となる。これを「円」としてみるならば、φ=約1.5尺と理解できるかもしれない。入側筋を正方形としつつ側柱筋を正八角形にするには、入側柱-側柱の柱間を7尺(厳密には7.1=10/√2尺)にする必要がある。土庇の柱間も10尺を基本とし、それと平行な位置の基壇上に入側筋の4本柱を配する。八角堂本体を構造的にみると、栄山寺八角堂のプロポーションでもなお、土庇をつけると低平な造形となるので、柱高及び柱間建具を約1.2倍にした。土庇の垂木掛けとなるのは、八角堂本体の内法長押である(法隆寺西円堂及び興福寺南円堂の向拝・裳階を参照)。この位置に垂木を渡すと裳階屋根の上面は本体の頭貫のあたりで納まり、上下屋根の全景は錣葺きに近い外観となる。八角堂の柱上組物は平三斗だが、地隅木を受ける関係上、手先方向にも肘木と斗がせりだすので、外見上は出三斗と言うべきか。小壁には壁付きの通長押をめぐらせ、中備は間斗束とする。基壇高3.5尺、本体側柱の柱高16.4尺、宝珠頂部までの総高35.1尺。
 土庇の柱を八角堂の側柱とつないでみると、屋根見上図では長方形に収まる部分(柱間10尺)と三角形に収まる部分(柱間10.8尺)が入れ替わる。前者では平行垂木、後者では配付垂木となる。こうした十六角形の屋根の葺材としてふさわしいのは檜皮であり、瓦や板を葺くのはほぼ不可能である。本体の基壇を円形ではなく、十六角形としたのは、地覆抜取跡で直線状のものが複数あったことに加え、土庇(裳階)屋根との平行関係を示したかったからである。しかしながら、復元CG(口絵1 ・図12 )にみるように、十六角形の檜皮葺き屋根は限りなく「円」に近くみえる。なお、八角屋根の隅木に吊した風鐸は南側の敷地で発見された遺跡の報告書[奈良大学1982]に掲載された風鐸の残欠をベースにして、平城宮第一次大極殿の復元で採用した風鐸を参照してデザインした(A・B・C案とも)

B案(薬師寺玄奘三蔵院八角堂と安楽寺三重塔を意識した復元案)図1 3
  八角円堂: 基壇八角形 平屋建本瓦葺 平三斗(または出三斗)、二軒(地方飛方) 柱径1.5尺
   土庇(裳階): 檜皮葺・建具無 柱径8寸 繋虹梁・間斗束   全体を白木(塗装なし)
 昭和に新築された薬師寺玄奘三蔵院の玄奘塔は裳階のある八角堂という点で無視できない存在である。菅原遺跡円堂の場合、裳階の柱は基壇外側に掘立とするが、玄奘塔では基壇上面に収まる。菅原遺跡の円堂を玄奘塔のイメージに近づけるためには、八角堂本体の柱を2尺ばかり高くすればよいのだが、それだけだとA案と差別化し難いので、法隆寺金堂や安楽寺三重塔にならって裳階に建具を入れた(図14 )。また、塗装を施さない白木造にして赤色塗装のA案・C案と差別化した。ただし、裳階の建具については、より慎重に考察した。裳階に建具をいれるB案を「建具有B案」、建具を入れないB案を「建具無B案」とする。長野県上田市の安楽寺三十塔(12世紀末ころ)では、大日如来像の鎮座する初重は、八角堂(初重)側柱は開放であり、 裳階のみに建具をいれる。これを参照し、建具有B案も八角堂側柱筋に建具を入れない。一方、建具無B案は八角堂の側柱筋に建具を入れ、裳階は吹き放ちとする。建具無B案(図15 )には玄奘塔に近い外観であるけれども、A案と差別化が難しい。建具有B案は軽やかさ、爽やかさは失われてしまうが、A案・C案との差別化には成功している。基壇高3.5尺、本体側柱の柱高18尺、宝珠頂部までの総高36尺。

C案(法隆寺夢殿と興福寺北円堂を意識した復元案)口絵2 ・図1 6・17
  八角円堂: 基壇十六角形 平屋建本瓦葺 二手先(または三手先) 二軒(地方飛方) 柱径1.5尺
   土庇(裳階): 檜皮葺・建具無 柱径8寸 登梁   全体を赤色塗装
 最も美しい八角堂と称賛される興福寺北円堂の造形を取り入れたいと考えた。A案は栄山寺八角堂をベースにして復元したが、全体的に低平なイメージがある。この比例に近い法隆寺西円堂を南から見上げたとき、正面の向拝ばかり目立って八角屋根の印象が希薄になっている。これに対して、興福寺の北円堂や南円堂は柱上の三手先(尾垂木なし)の効果があり、八角堂としての姿が凛としている。菅原遺跡の円堂でも、裳階上に柱を立ち上げて二手先もしくは三手先で軒を荘厳すれば、八角屋根もまた際立つであろう、と考えた。組物には二手先を採用することにした。周知のように、奈良時代の建造物遺構には二手先を用いる例はないが、二手先が存在しなかったわけではなく、現存しないだけのことと思われる。その証拠に、西安の慈恩寺大雁塔楣石(7世紀中期)に刻された「大殿」図の組物は二手先を表現している。筆者が1992年に携わった平城宮第一次大極殿院1/100模型の設計では、閤門(南門)の組物として大雁塔楣石の二手先の再現を試みた[浅川1994 ] 。今回の菅原遺跡円堂の復元では、大極殿院閤門で復元設計した二手先をもとにして、手先にひろがりのない二手先を隅の柱上に採用した。この場合も地隅木等を支えるため、さらに肘木を一手前方にせり出すので尾垂木のない三手先と言うべきかもしれない。
 こうした二手先組物を実現するためには、入側-側柱筋には放射状に繋虹梁を渡す必要があるので、円堂の平面を法隆寺夢殿型(入側筋も八本柱)に改める必要がある(柱間4尺等間)。側柱、入側柱の柱径はA・B案と同じにした。この場合、小屋組と屋根も夢殿風に変えなければならないが、当初の夢殿の小屋組は不詳であり、修理工事報告書の復元図に倣うほかないと判断した。その小屋組を隠すため、天井を全面に張る。屋根の棟飾も夢殿に倣い火炎宝珠として、A案・B案と差別化した。基壇高3.5尺、本体側柱の柱高16.4尺、宝珠頂部までの総高41.8尺。
 土庇の構造は敢えて登梁式とした。A・B案では繋虹梁としたものの、八角堂本体の柱は八角形断面であり、外側の相接する2面に虹梁を大入するのはやっかいな仕事である。当初から繋虹梁無しの構法を模索しており、C案では思い切って登梁を採用してみることにした。敢えて登梁としたのは、細身の掘立柱にふさわしい構法と考えたからである。また、繋虹梁を用いないことで裳階屋根を低めに抑えることができる。登梁の出現は江戸期からとも言われているが、中国建築史及び東南アジア民族建築の立場からみると、登梁は古式である。南方中国の伝統的木造建築に常用される穿斗式構法はさほど古いものではなく、以前はベトナム・ラオスなどの近隣地域で普及している登梁が用いられていたと推定される。大仏様の遊離尾垂木もルーツを探れば登梁の圧縮形と考えられる。


(3)囲繞施設の復元
 囲繞施設の復元についても個別に説明する(図10)。
 北側の東西棟(5間×2間:柱間10尺等間):   機能・性格は明らかではないので、門でもあり、仏堂でもあるような無難な平屋の意匠とした。正背面とも中央間を開き戸、脇間を連子窓、隅間を土壁とし、単廊に連続する西妻壁の南1間も開き戸とした。東妻壁の脇の掘立柱塀は12尺と柱間が拾いので脇門とみなし、東西棟の東妻壁は2間とも土壁とした。小屋組は扠首組とし、妻飾のみ豕扠首とした。屋根は切妻造檜皮葺き。軒は一軒・平三斗。南側にも同類の東西棟が存在した可能性がある。
 単廊(梁間10尺): 北面回廊は桁行柱間が東西棟の西妻壁より、10尺、8.3尺、10尺、7.7尺、10尺(隅)と変化し、そこで南に折れ、西面回廊は10尺(隅)、7.5尺×2、10尺×3まで確認できる。残りは推測ながら、10尺×5、7.5尺×3、10尺(隅)と伸びて南面回廊につながり南側の東西棟に接続する。単廊の構造については、白鳳様式の法隆寺回廊や山田寺回廊を天平風に修正し、掘立柱に見合う小屋組として扠首組を採用した。軒と扠首上は大斗肘木で収め、屋根は檜皮葺・一軒とした。いくぶんやっかいなところは単廊と東西棟の取り合いだが、回廊の棟木端が東西棟妻壁の頭貫と虹梁の間におさまるように調整した。
 掘立柱塀と門: 北面の東西棟東妻壁から東に向けて12尺、7尺×2、9.6尺(隅)と続いて南に折れ、11尺(隅)、7.5尺×2、10尺×2、20尺、10尺のところまで確認できる。そこから先は10尺×5、11尺(隅)と推定した。このうち、東西棟に接続する北面の12尺部分に脇門があり、東面の柱間20尺のところにも10尺×2間の棟門(東大寺を遥拝する方向)があると考えた。塀は横板落込式の壁の頂部を 鎬をつけた水平材で押さえる構法とした。出土遺構から判明したわけではないが、南面の塀にも東西棟に接続する柱間に脇門を設けた。塀の高さ8尺、棟門の高さ11尺。【続】


*「円堂ノート」連載
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2452.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2454.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2456.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2460.html

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Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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