ブータン 山の教室-学生レポート(3)


大晦日のプレゼント
ついに65回めの大晦日=誕生日を迎えてしまいました。普通なら退職の歳でありまして、私も今年で終わりかな、と思う時もあったのですが、幸か不幸か再雇用にありつき、あと3年大学で働くことになりそうです(この問題については、出雲大神からお裁きがあると思います)。ただし、給料は下がります。年金受給が可能になるので、当然と言えば当然ですが、ついにこの時が来たか、という心境です。27日、年金事務所まで相談に出かけ、来たる新年4日には正式な手続きに至ります。年金受給者か・・・
今年もゼミ生から誕生日のプレゼントをいただきました。紅茶セットとマスクケースです(↑↓)。派手な布マスクを集めていたので有難いですね。これ以外にもたくさんプレゼント?が届いています。1年から4年まで年末レポートの締切を大晦日としたからです。昨日までアップしてきた「山の教室」のレポートもその優秀作の一部ですよ。良いレポートが素晴らしいプレゼントになるわけです。
優秀作には長文のリプライをしています。わたしなりの返礼です。今日も優秀作を一つ掲載します。


「山の教室」はわたしたちの教室でもあった
《「先生は未来に触れられる」とはどういう意味か》 村長が、「先生は子どもたちの希望だ」と言葉にしていた。実際、その子どもた ち一人一人は、村の将来を担う未来への希望でもある。そこから先生という仕事は、生徒たちの将来決定に影響する、つまり子どもたちの「未来に触れている」仕事といえるのではないか、と解釈した。
《「ヤクに捧げる歌」の内容を説明しなさい》 ヤクとヤク使いの絆は強く、神聖なものである。ヤクは私たち人間にすべての物をくれる存在である。また、その肉が必要になった時にはヤクを集めて縄を投げ、その縄が落ちたところにいたヤクが肉となる。その時に人間たちが心を痛め、ヤクに捧げた歌であり、またヤクの魂が澄んだ美しいものであると歌ったものである。その歌の後半には、ヤクからヤク使いへ、「私たちの絆は強く神聖 だ。来世でもきっとあなた達の元へ戻ってくる」と返答がある。
《ウゲンはブータンに戻るか、オーストラリアに残るか》 私は、ウゲンはブータンに帰ると思った。ウゲンの夢であるオーストラリアに行くことは叶ったが、最後のシーンを見た限りでは、「歌手」になれたとは言えない。そして、元居たブータンのルナナ村で習得した、ヤクの歌を心を込め、なにか思いを込めて歌っていた。それに、ルナナ村を去る時に、彼は供物の儀式をきちんと行っており、無事に帰れるようにだけではなく、また戻ってこれるようにと祈っていた。ここから、私は彼はまたブータンに戻り、ルナナ村での教師生活をするのではないかと思った。
《感想》 ブータンのルナナ村は、ソーラーを使って電気こそ使えはするが、日本などの先進国と比べても生活が自然と密接にあるところだ。まず、その自然の雄大さに心を打たれ、さらにその美しい自然で育った子供たちの純粋さに心が洗われた。ウゲンは比較的都会のティンプーから来たため、ミュージックプレイヤーを持っていたが、ルナナではそのような電子機器等はなく、おそらく子どもたちにとっての娯楽は、自然に触れ体を動かすことや口伝えの歌を歌うことだろう。私たちは発展した都市に生まれ、あらゆる電子機器を使いこなし、またスマートフォンと隣り合わせで生きている。さらに、生活インフラが整っており、交通の手段も豊富であることから、映像中のように8日かけて歩くことや、ドマを噛んで寒さをしのぐことなどは考えられないだろう。
映画を見て、心がきれいになったというような感想を持ったことから、私たちが普段の生活で心が荒んでしまっていたのかよくわかった。便利な情報社会に浸って生きることは楽ではあるかもしれないが、どこかあたたかみのようなものに欠けていると思う。
そのあたたかみの正体は、命と間近で生活することで得られているなにかだと思う。たとえば、ヤクの歌が食料のために屠殺されるヤクに捧げ、人とヤクの神聖な絆を歌ってあるものである。それがずっと大切に伝承されているように、彼らは命への感謝がすぐそばにある。私たち日本人も「いただきます」や「ごちそうさま」の精神があるが、彼らほど命に感謝をしているか、と言われればそうではないだろう。そして、彼らの台詞に「ヤクは私たちに全てをくれる存在である」とあった。移動手段としては勿論のこと、その糞まで彼らにとっては価値のある大切なものだ。そして、途中から寒さをしのげる教室内にヤクを連れてきたように、家族のように大切にしているのがよくわかる。私たちの中には、ペットとし動物を飼っている人は多いとは思うが、あれほどまで大切にしてはいるだろう か。よく、犬などを家族同然と扱っている人はいるが、その糞までも大切に思えるほど、なくてはならないものだと考えているのだろうか。
今回の映画からは、その自然や子どもたちを含むルナナ村の人たちに大切なことを教えてもらった。「ブータンの山の教室」という題名は、ルナナ村の教室だけでなく、私たちも彼らから教わるという意味も含まれているのかもしれない。(3年US)
《連載情報》
ブータン 山の教室
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-3070.html
ブータン 山の教室-学生レポート
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2485.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2486.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2487.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2488.html#more
《感想》 ブータンのルナナ村は、ソーラーを使って電気こそ使えはするが、日本などの先進国と比べても生活が自然と密接にあるところだ。まず、その自然の雄大さに心を打たれ、さらにその美しい自然で育った子供たちの純粋さに心が洗われた。ウゲンは比較的都会のティンプーから来たため、ミュージックプレイヤーを持っていたが、ルナナではそのような電子機器等はなく、おそらく子どもたちにとっての娯楽は、自然に触れ体を動かすことや口伝えの歌を歌うことだろう。私たちは発展した都市に生まれ、あらゆる電子機器を使いこなし、またスマートフォンと隣り合わせで生きている。さらに、生活インフラが整っており、交通の手段も豊富であることから、映像中のように8日かけて歩くことや、ドマを噛んで寒さをしのぐことなどは考えられないだろう。
映画を見て、心がきれいになったというような感想を持ったことから、私たちが普段の生活で心が荒んでしまっていたのかよくわかった。便利な情報社会に浸って生きることは楽ではあるかもしれないが、どこかあたたかみのようなものに欠けていると思う。
そのあたたかみの正体は、命と間近で生活することで得られているなにかだと思う。たとえば、ヤクの歌が食料のために屠殺されるヤクに捧げ、人とヤクの神聖な絆を歌ってあるものである。それがずっと大切に伝承されているように、彼らは命への感謝がすぐそばにある。私たち日本人も「いただきます」や「ごちそうさま」の精神があるが、彼らほど命に感謝をしているか、と言われればそうではないだろう。そして、彼らの台詞に「ヤクは私たちに全てをくれる存在である」とあった。移動手段としては勿論のこと、その糞まで彼らにとっては価値のある大切なものだ。そして、途中から寒さをしのげる教室内にヤクを連れてきたように、家族のように大切にしているのがよくわかる。私たちの中には、ペットとし動物を飼っている人は多いとは思うが、あれほどまで大切にしてはいるだろう か。よく、犬などを家族同然と扱っている人はいるが、その糞までも大切に思えるほど、なくてはならないものだと考えているのだろうか。
今回の映画からは、その自然や子どもたちを含むルナナ村の人たちに大切なことを教えてもらった。「ブータンの山の教室」という題名は、ルナナ村の教室だけでなく、私たちも彼らから教わるという意味も含まれているのかもしれない。(3年US)
《連載情報》
ブータン 山の教室
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-3070.html
ブータン 山の教室-学生レポート
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2485.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2486.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2487.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2488.html#more