節分と恵方巻

居場所論と知識社会学
2月2日(水)、1週間後に迫ってきた卒論webex発表会の最終リハーサルを卒論ゼミでおこなった。若干1名はまだパワポを作成中ですが(わしゃ知らんぞ)、他の4名は上々の出来に仕上がっている。コロナ禍の2年を過ごした学年であり、ブータンなどの調査に携わった経験もなく、いつまでたってもまとまりのない集団だと感じていたが、なんのなんの、卒論は昨年までに勝るとも劣らないレベルに達してきており、私も(一部を除いて)上機嫌です。
今年の卒論の隠れたキーワードは「居場所」であり、教職課程の1名は若者の「居場所」の喪失、カールベンクス氏に会って感動した1名は、映画「ブータン 山の教室」から、おもに高齢者の「居場所」の喪失を問題化している。最近流行りの「居場所」論については、なにかに似ていると思っていたのだが、ようやく気づいた。わたしが学位論文を執筆しているころに愛読していた知識社会学の以下の名著そのものではないか。
ピーター・L.バーガー &ブリジット・バーガー (1977)
『故郷喪失者たち―近代化と日常意識』新曜社
*アマゾンでは中古本に30,000円の価格がついてます
バーガーはドイツ出身であり、アルフレッド・シュッツの現象学的社会学の影響を強く受け、渡米後は日常世界の「意識」を解読する知識社会学の旗頭となった。「故郷喪失」とは、ドイツ語のハイマートロス、英語のホームレス・マインドの訳語である。かつて心の拠り所としていた宗教が瓦解し、科学技術が宗教に取って代わった現代にあって、人間は産業社会の中で機械の部品のごとき代替可能な存在と化すばかりか、官僚社会の無慈悲な束縛のなかで息を切らしている。その結果、「帰る場所」を失い、故郷喪失感に苛まれているというのが、現代の日常意識だとバーガー夫妻は理解する。こうした日常意識にたちむかえるのは科学技術ではなく、伝統的な民族社会であるという立場から、私は当時、民族建築学の意義を説いた(おかしな論理かもしれない)。



居場所論の場合、成長・競争社会のなかで、子どもや若者が「居場所」を失っていることを強調しているが、老人や身障者も「特殊な人物」群として、一般社会から隔離される傾向にある。一般側からみるならば、「特殊な人物」を隔離することで快適な生活環境を確保できるが、隔離される側は投獄に近い生活に怯えており、一般側の人びとと同じ扱いを受けたいと望んでいる。そもそも一般側がまともな人ばかりか、と言えば、決してそうではない。自分はまともだが、他者はなにがしらかの異端だと思い込んでいる。そうした隔離を、居場所論者たちは「居場所」の喪失だといい、知識社会学者たちは「故郷」の喪失だという。似たようなものではないだろうか。
さてさて、リハーサルを終えた4年生以上は1日早い節分を楽しんだ。豆まきなんかしません。ただただ、恵方巻をもぐもぐ食べました。今年の恵方は北北西。昨年は南南東が恵方だったので、ほぼ真反対になった感じです。今年のほうが写真が撮りにくいな。来週はいよいよ発表会です。
また凄い動画を発見してしまいました。結局、大型のリュートが11弦ギターの原型であるから、セルシェルやブランシェットは11弦ギターでバロックを弾くのだろうか。リュートの源流は中央アジアにあり、かつてトルコのカッパドキアの洞窟レストランで聴いたウドあたりが原型に近いのであろう。そして、日本の琵琶もウド/リュートの展開系らしい。