三角山神社本殿焼失

視察情報
昨日は早朝から入試業務で忙しくしていたところ、緊急の連絡が入り、用瀬の三角山山頂に建つ三角山神社本殿(市指定文化財)全焼のニュースを知った。市の指定を受けているからには、当然のことながら、市教委が黙認できるはずはなく、さっそくスタッフを派遣して現場検証をおこなったようだ。上下の写真は焼失した本殿の状況を写す最新の写真である。レポートを転載しておく。
周囲に見える炭化材はいずれも覆屋のものとみられ、本殿は
浜床の土台一部と基壇をのこして、跡形もなく焼失していました。
土台の隅金物がのこっていましたが、同行した宮司の話によると、
浜床は昭和の改修とのことです(洋釘留でした)。
研究室の報告書にみる壮麗な社殿がここにあったことは、まったく
想像がつかず、ただただ虚しさだけを感じました。巨巌があらわと
なった山頂の神聖な雰囲気に飲まれてしまったからかもしれません。

上の報告文にみえる報告書とは、『市町村合併にともなう文化財の地域問題』(2005)のことである。そのころ「修験道トレッキング」というプロジェクト研究をおこなっていた時期があり、何度か登山した経験がある。建築は幕末のもので、小ぶりの本殿ながら池田家の家紋(揚羽蝶)などを派手にあしらっている。稲葉東照宮や聖神社に通じる造形だと癒える。

私はと言えば、入試業務のあいまを縫って、翌日(=今日)に迫っている大学院修士1年次中間発表と卒論締切日の対応に追われていた。本殿が所在する山頂付近は膝下あたりまであり、老けた教員が登山できる状況ではなさそうだ。一つ思い出す事件がある。摩尼山鷲ヶ峰の地蔵堂焼失(昭和13年)である。あのときは登山して地蔵堂を参拝した客が蝋燭の日を本殿の窓枠か戸口の敷居に立てたまま下山したためと推測されている。三角山の場合、雪深い冬ではなく、秋の行楽シーズンにおこったような気がするが、真実は定かでない。
くりかえすけれども、今日は卒論の提出〆切日である。「『金閣寺』と『金閣炎上』-居場所を失う若者たちへ」を書き上げようとしている教職4号くんは、この情報を知って何を思うか(思わないか)。

↑↓2012年トレック
