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《卒論》大僧正行基と長岡院 -菅原遺跡を中心に-

玉田スライド1枚目
菅原遺跡の遺構図(玉田) 菅原遺跡の円堂跡(玉田) スライド1+追加2枚


 こんにちは、小霞です。2月9日(水)のオンライン卒業研究発表会の発表内容と概要を報告させていただきます。卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。

題目: 大僧正行基と長岡院 -菅原遺跡を中心に-
Gyoki as an Archbishop and his Annex called Nagaoka-in
- Focusing on the Sugawara ruins -

中間報告1


研究の目的と概要

 奈良市疋田(ひきた)町の菅原遺跡は2020年10月から元興寺文化財研究所が発掘調査し、2021年の5月22日にその成果が一斉に報道された。遺跡は喜光寺(菅原寺)の西北約1kmの丘の上にある。『行基年譜』(1175)にいう「長岡院 菅原寺の西の岡にあり」の記載に一致し、東大寺大仏の造営を指揮した大僧正行基(668-749)が創建した「長岡院」に比定される可能性が高い。喜光寺の本堂は行基が東大寺大仏殿を建立する前に大仏殿の圧縮モデルとして試作されたものとされ、行基は天平勝宝元年(749)喜光寺で生涯を終える。丘陵上の菅原遺跡(長岡院)から東南方向に喜光寺の境内を俯瞰でき、東の遠方には若草山麓の大仏殿を遥拝できる。行基にとって絶好の場所であり、ここに建つ建物が行基の供養堂と推定されるゆえんである。
 スライド1追加図2枚は、菅原遺跡円形建物跡の空撮写真と全体の遺構図である。この種の「円堂」を回廊などが囲む構成は聖徳太子を祀る法隆寺東院夢殿と似ている。上に述べたように、菅原遺跡の場合、長岡院の一部に造営された行基の供養堂とみる説が有力になっている。建築年代は奈良時代後半の750~760年ころと推定される。なお、円形の建物を木造で組み上げることは非常にやっかいであり、日本や中国では「八角円堂」「六角円堂」と称して、正多角形平面を「円」の代替としている。


玉田スライド2枚目 スライド2


行基史略

 行基は生涯にわたって49の寺院を建立したと伝承されている。ただし、行基四十九院の名称や所在地のすべてが明らかなわけではなく、行基四十九院であったことが確定しているのは、大阪府堺市の大野寺、奈良市大和田町の隆福院など数ヶ寺に限られている。今回発見された菅原遺跡が長岡院だとすれば、行基創建の寺院の一つであることは間違いないけれども、『行基年譜』には「長岡院と喜光寺は49院の外(ほか)なり」という追記があり、行基49院とは別の寺院であったことに注意しなければならない。


玉田スライド3枚目 スライド3


玄奘・道昭と行基/行基と菩提僊那

 行基は、仏教の源郷たるインドに強い憧れを抱いた仏教者であったろうと想像される。行基自身は中国に渡っていないが、師とされる道昭(629-700)は遣唐留学僧として玄奘(602-664)に師事している。三蔵法師として知られる玄奘は、当時の中国で最もインド仏教の知識を有した高僧であり、その知識を弟子の道昭に伝え、帰国後、行基は道昭からインドの情報を吸収した可能性がある。ただし、行基と道昭に係わる直接的な記録はほとんどなく、両者の師弟関係については疑わしいとする見解もある。しかしながら行基は、あとで述べるように、神亀4年(727)ころ、堺市大野寺にインドのストゥーパを意識したとしか思えない巨大な十三重土塔を建立している。
 また、天平8年(736)、大仏造営のため聖武天皇がインド僧菩提僊那、林邑(チャンパ=今のカンボジア)僧仏哲等を招聘した際、行基は九州の大宰府でかれらを迎え、平城京まで案内した。その後、行基と菩提僊那は協力して大仏造営に尽力する。おそらく行基は菩提僊那からもインドの情報をおおいに吸収したものと推察される。


玉田スライド4枚目 スライド4


行基と忍性-墓にみる八角の思想

 行基の墓は奈良市生駒の竹林寺でみつかっている。これにはちょっとした伝承がある。鎌倉時代の嘉禎元年(1235)、竹林寺のお坊さんの夢の中に行基があらわれ、「私の墓を掘ってくれ」と頼まれ、行基の墓が掘りあてられた。すると、八角形の石塔の中に舎利容器(骨壺)が入っていた。しかし、骨壺は断片しか残っておらず、地中に埋め戻された。その舎利容器は、明治以降、ある人物が所有しているのが分かった。明治の廃仏毀釈の際に竹林寺もだいぶ荒らされてしまい、その時に盗掘された可能性がある。
 忍性は鎌倉時代の僧侶だが、行基のことを大変尊敬していた。忍性の墓も竹林寺(ほか3寺)にあり、行基に憧れて花崗岩製の立派な八角形の石塔をつくった。そのなかには忍性の骨壺が入っていた。忍性が19歳の時に行基の墓がみつかったのだが、忍性は行基の墓を模倣して八角形の石塔をつくったのではないか、と推定されている。舎利容器(骨壺)の銘文も行基の銘文に倣っている。忍性や行基の墓が八角形をしていたことは、今回みつかった菅原遺跡(長岡院)の供養堂の造形を考える上できわめて示唆に富むものである。



玉田スライド5枚目 栄山寺調書 
スライド5+追加1枚


行基縁りの史跡と八角円堂を訪ねて

 研究室では、教授と建築系OB等が協力して、日本建築史に例のない「円堂」の一種として菅原遺跡中心建物の復元に取り組んできた。私は復元設計はできないが、復元研究に貢献するため、基礎データとなる奈良~鎌倉時代の八角円堂を訪ね、構造形式と細部を調べた。いうまでもなく、奈良時代の八角円堂として最も有名な建物は法隆寺東院の夢殿である。夢殿は737年もしくは739年の建立とされる。菅原遺跡の年代に近いのはむしろ、奈良県五條市の栄山寺八角堂である。栄山寺八角堂は、藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立した供養堂である。年代は760~764年とされ、760年前後と推定される菅原遺跡「円堂」と年代が近く、夢殿以上に重要な奈良時代の類例と考えられる。スライド5追加図は現場で書いた栄山寺八角堂の調書である。法隆寺夢殿と比べると、柱の長いすらりとしたプロポーションで、軒下の組物をシンプルにおさめている。


玉田スライド6枚目
円堂4案比較(玉田)復元CGA案伽藍俯瞰(玉田) スライド6+追加2枚


菅原遺跡「円堂」の復元

 2021年11月8日、奈良県庁内の記者クラブで、菅原遺跡の復元CGに関する記者発表があり、私も同席させていただいた。その日の夜のテレビ、翌日の新聞等で大々的に報道された。研究室では「復元に決定案はない」という方針をもとに複数の復元案を示すことを原則としており、今回はA案、建具有B案、建具無B案、C案の合計4案を提示した。A案はさきほど紹介した栄山寺八角堂をモデルにして、八角堂の周辺に檜皮葺き十六角形の裳階をつけている。B案のモデルは薬師寺三蔵院八角堂と安楽寺八角三重塔である。C案のモデルは興福寺北円堂と法隆寺夢殿である。これらの案を比較すると、A案→建具無B案→C案の順で、軽やかさ・華やかさを増しているが、伽藍全体の俯瞰図をみると、C案と建具有B案は回廊などに対してヴォリュームが大きすぎる。回廊などと整合性のあるプロポーションをしているのはA案であり、建具無B案がそれに次ぐ。


玉田スライド7枚目 スライド7


密教本尊としての毘盧遮那仏

 最後にアジアにおける密教の拡散という点から、今回みつかった行基の供養堂について、考察してみようと思う。これについては、2年前に大学院を修了された岡﨑先輩の修士論文を参考にさせていただいた。
 密教は5世紀ころから、インドで誕生する大乗仏教最新の流派であった。それは、ヒンドゥ教の勃興に対抗する仏教側の変容の結果として理解できる。すなわち、ヒンドゥ教はかつては隆盛を誇りながらも廃れてしまったバラモン教の核心部分を継承し、現世御利益の民間信仰として著しく勢力を伸ばすのだが、仏教側もこれと併行して、バラモン教の呪術的要素を取り入れ密教に変化していく。よって、ヒンドゥ教と密教には似通った側面があることを知っておかなければならない。
 密教は6世紀以降、中国に伝わって長安の青龍寺で体系化され、空海によって9世紀初頭に日本にもたらされるというのが仏教史の通説である。しかしながら、空海以前の奈良時代にあって、密教の教義の一部はすでに日本にもたらされていたと考えたほうがよいというのが教授や先輩の考えである。8世紀中ごろに造営された東大寺の大仏、すなわち毘盧遮那仏こそがその鍵を握っている。華厳教の総本山東大寺の本尊仏「毘盧遮那」は古代インドのサンスクリット語ヴァイローチャナ(vairocana)の漢音訳であるのに対し、9世紀に空海がもたらす真言密教の本尊「大日如来」はヴァイローチャナの意訳である。すなわち、「毘盧遮那=大日如来」という等式が成立し、華厳教はすでに真言密教の要素を多分に含んでいたと考えられる。実際、空海は帰国直後、東大寺の別当に就任している。言い換えるならば、8世紀に造営された東大寺こそが先駆的な密教系の寺院であり、その本尊たる毘盧遮那大仏は平安密教の大日如来にほかならなかった。ただし、真言密教のシンボルというべき宝塔/多宝塔や幾何学的なマンダラは奈良時代にはまだ日本に伝わっていない。


玉田スライド8枚目 スライド8


アジア密教建築史における行基系建造物の座標

 初めに述べたように、若き日の行基が造営したとされる堺市大野寺の土塔は日本建築史上類例のない十三重土塔で、最上層に古代インドのストゥーパをイメージさせる円形の粘土ブロックを残している。行基の死後、東大寺別当の良弁が弟子の実忠に命じて造営させた頭塔は東大寺南大門の約1km南に建てられた。五重塔である頭塔の最上層の構造は不明だが、大野寺土塔を参照すると、やはりストゥーパのような円形構造物を備えた可能性があり、チベット周辺に古くから存在する立体マンダラを彷彿とさせる。
 仏教の源郷であるインドで仏教が廃れるなか、チベット・ブータン地域には直訳の仏典や、密教遺産が多く残っている。とくに立体マンダラ型のストゥーパについては、東大寺頭塔の形状や配置とよく似ている。戒壇状テラスの壁面に多数の仏像を配し、その頂部に円形のストゥーパ(舎利塔)を置く立体マンダラの造形はもちろんのこと、伽藍正門の正面から一定の距離を隔てて立地する配置の類似性にはとくに注目しなければならない。
 これまでみてきたように、古代アジア世界における密教の拡散という視点から、行基と係わりの深い大野寺や東大寺の仏教遺産を評価するならば、古代インドやチベットの後期密教との類似性を無視できないと考える。とりわけ行基の場合、土塔や菅原遺跡の供養堂において「円」に対する執着心がみてとれる。サンスクリット語で「円」のことをマンダラと言う。木造建築の技術では実現し難い「円」への指向と執着こそが、行基のインド密教への憧憬を具体的に表現するものではないだろうか。


【参考文献】
1. 浅川滋男(1994)「平城宮第1次大極殿復原模型の製作」『奈良国立文化財研究所年報』1994:pp.68-71
2. 浅川滋男(2019a)「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较」『中国建筑学会建筑史分会年会及学术研讨会 2019 论文集(上)近70年建筑史研究与历史建筑被保护 -中华人民共和国的建国70周年纪念』中国建筑学会 建筑史分会年会・北京的工业大学:pp.58-72
3. 浅川滋男(2019b)「从东大寺头塔的复原看宝塔的起源-与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较」『2019年中国科技史学会建筑史专业委员会年会及国际学术的研讨会论文集』中国科学技术历史学会建筑史专业委员会・福州大学:pp.71-85
4. 浅川滋男(2021)「東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて」『能海寛と宇内一統宗教』同成社:pp. 187-220
5. 泉高父(1175)「行基年譜」、井上薫編(1997)『行基事典』国書刊行会:pp.253-275
6. 井上薫(1997)『行基事典』国書刊行会
7. 角田洋子(2016)『行基論 大乗仏教自覚史の試み』‎専修大学出版局
8. 川越俊一編(2003)『平城宮発掘調査報告XV 東院庭園地区の調査』本文篇:pp.134-135 図版篇:PL103
9. 蕭 黙(1981)『敦煌建築研究』文物出版社
10. 桃崎祐輔(2007)「高僧の墓と石塔-律宗・時宗・禅宗の事例-」、狭川真一編『墓と葬送の中世』高志書院:pp.219-238
11. 中澤克昭 (2020)『城と聖地-信仰の場の政治性-』中世学研究Ⅲ:pp.84-111、高志書院
12. 奈良大学(1982)「菅原遺跡」『奈良大学平城京発掘調査報告書』第1集
13. 箱崎和久・浅川滋男・西山和宏(1999)「平城宮東院庭園出土の八角柱と五角斗」『奈良国立文化財研究所年報』1999-Ⅰ:p.16-17
14. 平岡定海・中井真孝(1983)『行基 鑑真』吉川弘文館
15. 根本誠二(1991)『奈良仏教と行基伝承の展開』雄山閣出版
16. 岡﨑滉平(2020)「中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究-構造と配置に関する基礎的考察-」令和元年度公立鳥取環境大学修士論文
17. 前園実知雄(1987)「墓所にみる忍性の思想的背景」『考古学と地域文化』同志社大学考古学シリーズⅢ:pp.597-606
18. 前園実知雄(1992)「生馬山竹林寺と行基の墓」『考古学と生活文化』同志社大学考古学シリーズⅤ:pp.679-690

【参考サイト】
行基縁りの地を往く-土塔と八角円堂
(1) 法隆寺東院夢殿
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2468.html
(2) 栄山寺八角堂 
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2473.html
(3) 法隆寺西円堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2474.html
(4) 興福寺北円堂・南円堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2475.html
(5) 薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2477.html
(6)記者発表と報道
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2491.html
(7)土塔と頭塔
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2497.html

復元検討web会議(第1回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2415.html
復元検討web会議(第2回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2419.html
復元検討web会議(第3回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2428.html
復元検討web会議(第4回)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2439.html

行基の長岡院-菅原遺跡訪問記
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2414.html
栄山寺八角堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2417.html
広隆寺から興福寺へ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2423.html
奈良新聞の報道(菅原遺跡)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2429.html
法隆寺西円堂・夢殿と喜光寺
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2436.html

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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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