スッタニパータ ブッダの言葉


未来にこだわらず、過去を嘆かず
『ブッダが説いた幸せな生き方 』(岩波新書・2021)に続く新作『スッタニパータ ブッダの言葉』が早くも完成し、著者よりご贈呈いただいた。書籍情報をまずは示しておく。
書名: スッタニパータ ブッダの言葉
著者: 今枝由郎(翻訳)
出版社 : 光文社 発売日 : 2022年3月20日
ISBN-10 : 4334754597 ISBN-13 : 978-4334754594
『スッタニパータ ブッダの言葉』(↑左)はじつは新刊ではなく、2014年にトランスビューから出版された『日常語訳 新編スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』(↑右)を改訂された上で光文社古典新訳文庫より復刊したものである。
紀元前5世紀、ネパールに近い北インドのシャーキャ(釈迦)国で誕生した王子ゴータマ・シッダルターは、29歳のとき、裕福な王宮の生活を捨て修行の旅に出る。それから数年後、ブッダ(目覚めた人)となり、残りの生涯を衆生を救う説法に捧げた。生前のブッダの教えは成文化されることはなく、覚えやすい歌訣として伝承されていったが、少しずつ文字に書き写されるようになり、その集積が今に残る経典の原型となる。経典のうち紀元前まで遡りうるのが「ダンマパダ(法句経)」と「スッタニパータ(経集)」である。パーリ語で書かれたこの二つの経典こそがブッダの説法に最も近い内容のものだと言われている。
対話形式の『スッタニパータ』は中村元翻訳の岩波文庫本(1958)を口語訳風の嚆矢とし、その後も数多の碩学による翻訳が試みられてきたが、一般読者にとっては依然難解であるのに対して、著者は「翻訳にあたっては漢訳仏教用語は極力用いず、平易な日常語にすることを第一に心がけ」られている。内容については、書き写すことすら怖じ気づいてしまうけれども、たとえば以下の二つの偈(げ)を自戒のため引用させていただく。
846 賢者は、自分の見解や考えを過信することがない。それが彼の人柄である。彼は祭祀や伝統にとらわれることなく、固定観念に執着することがない。
851 彼(最上の人)は未来にこだわらず、過去を嘆かず、現在も感覚器官の対象に執着せず、偏見に陥ることがない。

雨ニモマケズ
驚いたのは、文末の解説に示された宮沢賢治との関係である。増谷文雄(1902-87)は、宮沢の詩の代表作『雨ニモマケズ』の内容に『スッタニパータ』の影響を読み取った。増谷によれば、宮沢が参照した可能性があるのは以下の偈とされる(20偈にも類似の内容がある)。
52 寒さと暑さと、飢えと渇きと、風と太陽の灼熱と、虻と蛇とこれらすべてに打ち勝って、犀の一角のようにただひとりで歩め
著者の態度は慎重である。両詩をくらべてみると、字面上の一致点は「暑さ」と「風」の二語しかない。ここから両者の関係性を説くのは唐突にすぎる。ところが、増谷は宮沢の実家を訪れて、賢治所有の『国訳大蔵経』を実見しており、二巻だけ手垢がついていて、そのうちの一巻が『諸経要集(経集)』すなわち『スッタニパータ』であることを確認している。これらを整理した上で、著者は以下のように結んでいる(406頁)。
『雨ニモマケズ』の「デクノボー」は、『スッタニパータ』に描かれる「修養に励む人」
(サマナ、沙門)を彷彿とさせることも否めない。両者の間に共通点を見出した増谷氏
の「直観」は、実証的ではないが、あながち的外れでもないであろう。
トルストイの人生論
眼科の定期健診のため春休みに奈良に戻ってきて、改訂版『スッタニパータ』を手にし喜んだが、それとは別に、どうしてもウクライナ/ロシアの問題が気になるもので、司馬遼太郎の『ロシアについて』の再読を終えた後、トルストイの『戦争と平和』も読み直してみようと考えるに至った。読み直すといっても、若いころ途中で挫折してしまった大作であり、目が悪くなったこの歳で読破できる自信もないのだが、考えてみれば、映画も何作かあり、レビューをみると、ヘップバーンがナターシャ役を演じたハリウッド版の大作が好評を博している。視聴の価値はあるだろう。登場人物が500人を超える長編小説であり、まずは映画で大枠を掴み、それから原作を読めば理解が深くなるような気がする。
こうしてアマゾンをサーチしていると、トルストイも晩年に『人は何で生きるか』とか『光あるうち光の中を歩め』などの人生論を複数出版していることを知り、『戦争と平和』よりも先にこれら随筆の中古本を注文した。トルストイの場合、キリスト教の幸福論になるわけだが、『スッタニパータ』と読みくらべてみようと思う。慶應義塾から哲学館に転学した能海寛は、福沢諭吉の「学問」ではなく、井上円了の「仏教/東洋」の途を歩んだ。福沢は能海に「仏教もキリスト教も根っこは同じ」という宗教の普遍性を解読してほしかったという話をどこかで読んだ記憶がある。井上流の排耶論ではなく、福沢のような見方をしていれば、雲南の奥地で非業の死を遂げることもなかったかもしれない。