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クンサン・チョデン 『トウガラシとチーズ―ブータンの食と社会』の翻訳と考察《2022年度卒論概要》

上田スライド1

上田スライド1-追加図1 上田スライド1-追加図2 スライド1+追加2枚(ブータンの風景と地域地図)


 こんにちは、上田です。2月8日(水)の卒業研究発表会の発表内容と概要を報告いたします。卒業論文執筆に際し、多くの方々のご支援をいただきました。お力添えいただいた全ての皆様に感謝申し上げます。〔2023年2月21日下書アップ〕


題目: クンサン・チョデン 『トウガラシとチーズ―ブータンの食と社会』の翻訳と考察
Translation and Consideration of Chili and Cheese:Food and Society in Bhutan by Kunsan Choden(2008)  [中間報告]


研究の目的と概要

 ブータンはチベットに隣接するヒマラヤ南麓の小王国で、面積は九州とほぼ同じである。現在、ブータンは首都ティンプーを中心に現代化が進んでいるが、一般的な農村部では伝統的な自給自足的生活をよく継承している。研究室では2012年から8年間ほぼ毎年ブータンを訪問してきた。崖寺と瞑想洞穴、非仏教系神霊の浄化と再生などを主題としていたが、2019年よりコロナ禍のため現地調査の中断を余儀なくされていた。昨年(2022)12月、3年ぶりの調査が再開されたが、旅費の高騰により、私は参加することができなかった。しかし、参加メンバーが多くのデータを集めてきてくれた。


上田スライド2
上田スライド2-追加図1 上田スライド2-追加図2 スライド2+追加2枚(交流会の様子とエマ・ダツィ)


ブータン料理の再現

 コロナ禍の2年間、視点を変えて「日本の中のブータン」を探そうと考えた。とくに注目したのは石川県の社会福祉法人「佛子園」である。そこでは、ブータン高地貧農支援のため、ブータン蕎麦を大量に輸入していたからである。輸入した蕎麦の実は、日本国内で機械製粉・製麺され、佛子園や青年海外協力協会JOCAの福祉系施設内の蕎麦屋(居酒屋)で提供され、好評を博している。蕎麦粉の生産や食堂の運営は、障碍者の雇用と深く結びついている。
 同時に、研究室ではここ3年間ブータン料理の再現に取り組んでいる。佛子園から大量のブータン蕎麦粉と乾麺(いずれも甘蕎)を買い取った関係上、蕎麦料理を中心に試作した。たとえば、蕎麦麺「プタ」、蕎麦皮餃子「ヒュンテ」などである。また、ブータンの代表的な副食「エマ・ダツィ」も再現した。エマはトウガラシ、ダツィはチーズのことであり、エマ・ダツィ、すなわち「トウガラシとチーズ」はこれから述べる翻訳書のタイトルそのものである。これらのブータン料理を過疎集落や寺院境内でのイベントで振舞った。
 以上の活動と並行して、私はクンサン・チョデン(Kunzan Choden)という女性作家の著書Chilli and Cheese -Food and Society in Bhutanの翻訳に3年次から取り組んできた。この英語本を、読みやすい日本語に翻訳し適切な訳注をつけることが本研究の重要な課題である。


上田スライド3 スライド3


著者 クンサン・チョデン

 本書の著者、クンサン・チョデンは1952年、中央ブータンのブンタン地区タン渓谷に封建領主の娘として生まれた。両親の多忙により、幼少期は孤独な時間を過ごすことが多かったようである。その時、民話の語り部の会に参加し、昔話に熱中した。彼女は初等教育から海外留学を経験するが、いつでも「自分とは何か」という問いかけを繰り返したという。そのとき必ず幼少期の民話の記憶がよみがえり、ブータン人としてのアイデンティティを強く意識する。帰国後、ブータン初の女性作家となり、民話や小説などの執筆活動に邁進する。彼女の活動拠点は首都ではなく、ブンタン山間部の故郷ウゲンチョリンである。


上田スライド4
上田スライド4-追加図1 上田スライド4-追加図2 スライド4+追加2枚(絵本の寄贈)


民話絵本の翻訳

 研究室は、これまでクンサン・チョデンが小学生向けに英語で著した民話絵本を5冊翻訳し、3冊の和訳本に分けて刊行している。 2015年の第4次ブータン調査では、実際に彼女と面会し、和訳本を贈呈した。昨年末の調査では、読書を通じて山間過疎地の活性化を図る「READブータン」のコミュニティ・ライブラリーに和訳絵本を寄贈し、またバンコクのスラム街を支援するシーカ財団のコミュニティ・ライブラリーにも同じ絵本を寄贈し、大変喜ばれた。


上田スライド5
上田スライド5-追加図1 スライド5+追加1枚(目次)


翻訳 Chilli and Cheese -Food and Society in Bhutan

 本書は、クンサン・チョデンの幼少期、すなわち1950~60年代の食文化について考察したものである。ブータンは、1961年の社会改革以降、鎖国制度を廃止し、自給自足から市場経済へとゆるやかに変化してきた。こうした社会変化の中で、ブータンの伝統的な文化の記録を残すことがこの本の執筆動機であったという。
 スライド5追加図が本の目次である。ブータンの食文化の全貌を20章で説明している。この本の全体を紹介する時間はないが、食文化の核心に迫る第13章、第14章、第18章について本日は述べる。 それに先立ちまず、古代ボン教など前仏教/非仏教系の信仰に触れておく。ブータンの農民たちは、古代から今に至るまで、目にみえない超自然的存在にも敬意を払い、生きる世界を共有している。また、殺生を禁じる仏教の戒律も庶民レベルにまで深く浸透しており、食文化の基本は精進、すなわち菜食主義である。


上田スライド6 スライド6


標高と耕作限界

 ブータンは急峻な地形が連続するため標高に大きな差がある。標高と気候帯、それに適応した農作物の耕作限界をスライド6の表に示した。本研究では、稲作や多様な野菜が栽培できる標高2600mまでを「低地」、それより高い地域を「高地」と定義する。高地の生業は放牧と雑穀栽培である。
 ブータン人は主食として「赤米」を食べるが、稲作の耕作限界から米が入手できる地域は限られていた。そのため、米をめぐって高地と低地の間で物々交換が盛んにおこなわれてきた。


上田スライド7 スライド7


高地住民の米を求める伝統

 クンサン・チョデンは、地元の高地ブンタンの人々が米を求める伝統について紹介している。たとえば、ネポ(neypo)と呼ばれる、特殊なホストファミリーの制度を例にとると、高地の放牧民は米の収穫期になると、低地の稲作農家へ手伝いに行く。放牧民と稲作民は、世襲的な縁戚関係にある。収穫作業を手伝うことで、高地放牧民は返礼として米やトウガラシ、豆類を受け取るが、それは微々たる量であった。そのため、他所の水田へ行って刈残しや落穂を集めたようである。著者は、こうした苦労が「米」に対する愛着の遠因であると語っている。最後に再度まとめるように、高地放牧民と低地農耕民の交易パートナーシップは健在である。


上田スライド8
上田スライド8-追加図1 上田スライド8-追加図2 上田スライド8-追加図3 スライド8+追加3枚(トンササブジ市場のトウガラシ)


ブータンのトウガラシ

 トウガラシは南米に起源がある。15世紀の大航海時代に持ち出され、インドを経由して16世紀ころにブータンに伝わった。ブータン食においてトウガラシは非常に重要な位置を占めている。乳児食や病人食を例外として、トウガラシが含まれない料理はないからだ。さらに、トウガラシは香辛料としてだけではなく、サイズの大きな野菜として扱われている。ブータン人は、一週間におよそ5キロ~10キロほどのトウガラシを食べるという。
 トウガラシの耕作限界は米とほぼ同じであり、低地農作物のひとつである。高地放牧民にとっては必要不可欠な交易品であった。中央ブータンの高地では隣村から毎年トウガラシ売りがやってきて、ハダカムギなどの雑穀や乳酪製品と交換していた。このように、トウガラシ食はブータン社会に必要不可欠なものである。子どもはかなり早い段階から乳児食をやめ、トウガラシ食を勧められる。「トウガラシを食べることで子どもは早く成長する」と信じられているからである。実際にトウガラシは食欲を増進させ、成長を促す。一部の民話などを参考にすると、1970年頃まで医療が未発達であり、子どもの死亡率が高かったことも関与しているかもしれない。
 トウガラシの刺激や効能は魔よけとしても利用されている。たとえば、「染物をする前にトウガラシを燃やし、染色を台無しにする悪霊を追い払う」、「酒を発酵させる時、穀物の上にトウガラシを置いておけば悪霊の口を燃やす」などの信仰が本書で紹介されていた。 大乗仏教を国教とするブータンでは、悪いことがあると非仏教系の悪霊や魔女のせいだと考えるが、そうした邪教排斥の思想がトウガラシの風習にも表れている。余談ながら、不倫をした女性を懲らしめるため、その女性の陰部にトウガラシのペーストを塗りつける習慣もあるという。この場合のトウガラシは、一種の凶器と言えるかもしれない。


上田スライド9
上田スライド9-追加図1 上田スライド9-追加図2 スライド9+追加2枚(乳清(原図)と乾燥チーズ)


高地移牧民の食文化

 ブータンの放牧はヤクを対象としている。温かい夏には標高4000m前後の高地で放牧し、寒い冬になると標高2500m以下の低地まで降りて放牧する。ヤク飼いの人々は、昔はテントに住む遊牧民であったが、今は冬の定住家屋を所有する半農半牧民である。ヤクから搾乳して、バターやチーズを作り、他の地域に売りに行ったり、農家と物々交換する。
 仏教の戒律に従い、家畜を屠畜して肉を食べることは例外的にしかない。バターは伝統的に木製の撹拌器で混ぜて作り、バターができた後に残る乳清を加熱してチーズを作る。そのため、乳脂肪分が少ないのが特徴で、「カッテージチーズ」に分類できる。チーズはたいてい、熟成もしくは乾燥させて保存食となる。スライド9追加図2は、第9次調査(2022)の調査で買った乾燥チーズであるが、石のように硬い。長時間水につけて戻すか、小さな塊を口に入れてじっくりと噛みながら食べるそうである。スルメを噛むように、しこしこと味わうのが特徴であり、ブータン人はそのような食べ方を好んでいる。


上田スライド10

上田スライド10-追加図1 スライド10+追加1枚


エマ・ダツィから見通す文化融合

 以上みたように、南側低地農耕民の米や野菜と、北側高地移牧民の乳酪製品は相補う関係にある。農業は東南アジア、放牧はチベットに特有の文化である。つまり、農作物のトウガラシと乳酪製品のチーズを複合したブータンの代表的な料理「エマ・ダツィ」は低地農耕民と高地放牧民の食文化が融合したものであり、これを敷衍して解釈するならば、ブータンの食文化とは東南アジア系農耕文化とチベット系遊牧文化が複合したものと言えるであろう。
 これに関して、今回の調査で面白い経験をした。トンサ県の山村ベンジ村で、遠方高地のブンタンからタクシーに乗ってやってきた移牧民に出会った。彼は、このベンジ村の地主と古くからの友人であり、高地から持ってきたバターやチーズと、この村の米や野菜を物々交換することが来村の目的であった。この2人の関係は、先ほど紹介したパートナーシップ「ネプ」の可能性が高いと思われる。こうした物々交換は高額のタクシー代に値するものだと認識しているのであろう。このように、農耕民と移牧民の交流は今もなお続いている。


上田スライド11 スライド11


菜食料理―日本との比較

 さて日本では、675年の天武天皇による「肉食禁止令」の発令以降、1871年の「肉食再開宣言」まで、肉はあまり食べられず(原田 2023:pp3-12)、米を主食とし、副食は菜食中心であった。この点はブータンの伝統食と共通している。そこで、薬味や味付けに注目し、両者の比較を試みて締めくくる。
 スライド11の表に示したように、日本の味付けは味噌、醤油などの大豆発酵製品を除けば調味料や出汁のいずれも海産物をベースとしている。一方、ブータンはチーズやバターが味付けの中心であり、同じ菜食指向が強い食文化ではあるけれども、味覚のベースは魚介と乳酪の違いがあることが分かる。ちなみにチベット遊牧民には、火葬後の遺灰を川に流す習慣があり、遺灰を餌にする魚を食べない。ブータンでは、魚の殺生も禁じられている。そのため、魚介の味付けはありえない食習慣である。(上田咲帆)


《参考文献》
1)浅川滋男編(2021)「奇跡の雪山-ブータンとチベットの八年間」『能海寛と宇内一統宗教』同成社
2)浅川滋男編(2022)『ASALAB報告書 第40輯【開学20周年記念号】ブータンの風に吹かれて-中後期密教空間の比較文化』公立鳥取環境大学 保存修復スタジオ
3)『地球の歩き方』編集室(2016)『地球の歩き方 ブータン』ダイヤモンドビッグ社
4)星川清親(2003)『改定増補 栽培植物の起源と伝播』二宮書店
5)今枝由郎(2003)『ブータン中世史―ドゥク派政権の成立と変遷―』大東出版社
6)今枝由郎(2006)『ゾンカ語口語教本』大学書林
7)今枝由郎(2013)『ブータン―変貌するヒマラヤの仏教国(新装増補版)』大東出版社
8)稲村哲也(2014)『遊牧・移牧・定牧―モンゴル、チベット、ヒマラヤ、アンデスのフィールドから』ナカニシヤ出版
9)Kunzang Choden(2008)Chilli and Cheese :Food and Society in Bhutan , Bangkok, White Lotus Co.,Ltd
10)Kunzang Choden et al.(2015)『メンバツォ ―炎たつ湖』浅川滋男監訳 公立鳥取環境大学
11)Kunzang Choden(2016)『心の余白 ―私の居場所はありませんか』浅川滋男監訳 公立鳥取環境大学
12)Kunzang Choden(2017)『グルリンポチェがやってくる/ツェゴ ―命の着物』浅川
滋男監訳 公立鳥取環境大学
13)中尾佐助、西岡京治(2011)『ブータンの花 新版』北海道大学出版会
14)Punap Ugyen Wangchuk (2014)Authentic BHUTANESE COOKBOOK, Bhutan, JOMO PUBLICATIONS
15)Stuart Walton,(秋山勝 訳2019)『トウガラシ大全―どこから来て、どう広まり、どこへ行くのか』草思社
16)山本紀夫(2016)『トウガラシの世界史』中央公論新社

《参考論文》
1)井上裕太(2021)「ブータンの蕎麦食文化」令和3年度公立鳥取環境大学環境学部卒業論文

《参考サイト》 すべて2023年2月15日参照。

1)外務省「ブータン王国基礎データ」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bhutan/data.html
2)熊谷誠慈,歴史,在東京ブータン王国名誉総領事館「ブータン王国」
https://bhutan-hcg.org/about-bhutan/
3)原田信男、農林水産省(2013)「日本食の歴史」『和食―日本人の伝統的な食文化-』
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/attach/pdf/index-15.pdf
4)BOOKNESE "BOOKS BY BHUTANESE -Kunzang Choden"
https://booknese.com/author/kunzang-choden
5)『ブータン 山の教室』日本版予告編・ポスター・新場面写真9点が解禁!
https://fansvoice.jp/2021/02/05/bhutan-classroom-trailer/
6)Facebook "Riyang Books"
https://www.facebook.com/RiyangBooks/
7)Prabook "Kunzang Choden"
https://prabook.com/web/kunzang.choden/2143349
8)Wikipedia "Kunzang Choden"
https://en.wikipedia.org/wiki/Kunzang_Choden
9)「久方の後記」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2015.html#more
10)「ブータン料理実験(1)ー蕎麦食と家庭料理」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2319.html
11)「ブータン料理実験(2)-蕎麦食と家庭料理」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2320.html
12)「ブータン料理実験(3)-蕎麦食と家庭料理」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2321.html
13)「ブータン料理実験(4) -蕎麦食と家庭料理」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2323.html
14)「ブータン料理実験(5)-蕎麦食と家庭料理」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2327.html
15)「エスニック料理のフードスケープ(3)」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2634.html
16)「エスニック料理のフードスケープ(4)」
asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2640.html
17)「エスニック料理のフードスケープ(5)」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2641.html
18)「エスニック料理のフードスケープ(6)」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2642.html
19)「エスニック料理のフードスケープ(7)」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2644.html
20)「龍岩寺ごちゃまぜBOX(1)」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2647.html
21)「龍岩寺ごちゃまぜBOX(2)」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2629.html
22)「龍岩寺ごちゃまぜBOX(3)」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2647.html

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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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