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大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討《2023年度卒論中間報告》

大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討
-奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて

Continuous Re-examination on the Annex called Nagaoka-in built by Archbishop Gyoki in the 8th Century
-Upon the Publication of the Formal Report on the Excavation of the SUGAWARA Site, Nara City



 2021年度卒業生の玉田は、2020年に調査された奈良市菅原遺跡を主題とする卒業研究「大僧正行基と長岡院-菅原遺跡を中心に-」(玉田2022)に取り組んだ。本研究はその続編に位置づけられる。

菅原遺跡の歴史と特異性

 奈良市疋田町の菅原遺跡は、2020年10月から元興寺文化財研究所(元文研)が発掘調査し、2021年の5月22日にその成果が一斉に報道され、脚光を集めた。国指定史跡の価値があると高く評価されたものの、遺跡の保存は叶わず、大規模宅地造成により滅失した曰く因縁の奈良時代遺跡である。
 菅原遺跡は喜光寺(菅原寺)の西北約1kmの丘の上にある。『行基年譜』(1175)にいう「長岡院 菅原寺の西の岡にあり」の記載に一致し、東大寺大仏の造営を指揮した大僧正行基(668-749)が創建した「長岡院」説が有力視されている。そこで発見された遺構は、同心円的平面を呈する「円堂」を回廊・塀などが囲んでおり、全体の空間構成は夢殿を中心におく法隆寺東院を彷彿とさせる。また、円形建物も、法隆寺夢殿・西円堂、栄山寺八角堂、興福寺北円堂・南円堂などの八角円堂(供養堂)と類似する施設の可能性があり、「行基の供養堂」とみる解釈が報道当初からあった。遺跡の立地する高台は、東に東大寺大仏殿を遙拝でき、南に大仏殿の圧縮モデルとされた喜光寺の境内を俯瞰できる絶好の場所である。
 本稿では元文研の表現に倣い、遺跡中心部の円形建物跡を「円堂」と仮称して考察を進める。円堂跡は円形もしくは正多角形を呈する基壇らしい遺構の縁石(地復)が部分的に残り(直径10,2m前後)、その周辺に16本の掘立柱堀形・抜取穴が同心円状に配列された特異な構造をしている。平安時代初期の真言宗開創に伴い、空海によって円形の宝塔・多宝塔が日本に持ち込まれるが、それに先行する奈良時代に円形平面の建物が日本に存在した確証はない。奈良時代の場合、夢殿に代表される八角平面の建物は「円堂」もしくは「八角円堂」と呼ばれる。純粋な木造構法でインド仏教的石造円形モニュメントを表現するのは困難であり、東アジアの木造文化圏では、円の代替として正多角形が採用されたものと推察される。

無題14 菅原遺跡遺構図(元文研2021 一部改訂)


菅原遺跡「円堂」の復元四案

 2021年には、玉田ほか当時の4年生が奈良を訪ねて、古代~中世初期の八角円堂の観察に取り組む一方、研究室OBも含めた復元設計チームを組織し、遺構図[元文研2021]の細かな寸法分析などに着手した。そこで注目したのは、まず基壇の縁石(地覆)と思われる据付(もしくは抜取)痕跡である。これらの溝状遺構は、必ずしも円弧をなしていない。少なくとも3~4ヶ所は直線を呈しているので、基壇が完全な円形であったとは限らず、正多角形の可能性も十分ありうると考えた。次に、中央の円堂跡と周辺の囲繞施設には約3°の方位軸のずれがあることを確認し、造営年代に時間差があったと推定した。円堂は天平19年(749)の行基没後まもない750年代に造営され(出土軒瓦年代745-757)、出土土器年代に対応する760年前後から掘立柱の囲繞施設が造営され、9世紀前半に全体が廃絶したものと推定した。
 こうした遺跡上建物跡の上部を復元設計する場合、ASALABは「復元に決定案はない」というスタンスを堅持している。地中からあらわれた柱穴や基壇跡は建築情報のごく一部にすぎず、類例として参考にできる現存建造物も限られるから、復元に正解があるという思考自体が誤りだと考える。実際、復元の主モデルとして選択した現存建造物を変更すれば、復元後の姿は一変する。こうしたスタンスから、復元研究にあたっては、複数の案を図化するよう努めてきた。菅原遺跡円堂の場合、①栄山寺八角堂を意識したA案、②薬師寺玄奘三蔵院玄奘塔を意識したB-1案、③安楽寺八角三重塔を意識したB-2案、④興福寺北円堂等を意識したC案、を提示したが、囲繞施設とのスケール・バランスを考慮した結果、①A案が最もふさわしいであろうと推断した。

無題15  菅原遺跡復元CG円堂A案 伽藍俯瞰(浅川研2021)


『菅原遺跡』発掘調査報告書-批評の必要性

 2023年3月に元文研が『菅原遺跡-令和2年度発掘調査報告書』を刊行した。一般に行政発掘の調査報告書は客観的な事実記載に重きをおくものだが、この報告書は菅原遺跡の特異な円堂跡を、後世にいう「多宝塔」の初源形態とみなす解釈に著しく傾斜している。報告書の記載全体がその方向に終始していることは一読すれば明らかである。空海が高野山に根本大塔を造営する以前、日本にはなかったはずの多宝塔が奈良時代の平城京寺院に存在したとすれば、それは日本史の常識を大きく覆す発見ではあるけれども、現状で十分な証拠が出揃っているわけでは決してない。そのような状態の遺構に対して、おもに中近世の宝塔・多宝塔の建造物や出土遺構を無理やり参照・援用して、日本・中国・南アジアのどこにも存在しない復元案を一案だけ断定的に提示している。このような歴史的常識に抗う結論を下すからには、まず関係学会誌に投稿して審査を受けるべきだが、そうした手続きを踏むこともなく、独断的な結論を披歴したのは大変残念なことである。厳正な書評が必要と考える所以である。

無題12 無題10 無題11

左:速報に掲載された菅原遺跡円堂の復元パース (元文研2021)
中央:菅原遺跡復元案 下層平面図(元文研2023)
右:菅原遺跡復元案 立断面図(元文研2023)


宝塔/多宝塔の初期概念

 日本建築史の定義によると、伏鉢状塔身の一重構造のものを「宝塔」、宝塔に裳階(もこし)をつけたものを「多宝塔」とするが、これは決して古い概念ではない。現存する最古の「多宝塔」とされる石山寺多宝塔(滋賀・1194)こそ「多宝塔」と自称しているものの、空海開山の高野山金剛峯寺(和歌山)では「根本大塔」と呼んでいる。五度焼失再建を繰り返した根本大塔の平安期の姿は不詳ながら、当初形式に近いのは根来寺大塔(和歌山・1496)とされる。ここでも多宝塔ではなく、「大塔」と呼称している点を看過してはいけない。
 そもそも「宝塔」「多宝(塔)」などの用語は『法華経』見宝塔品に由来する。釈迦が衆生救済のため法華経を講じているところに、突如として七宝荘厳の大きな宝塔が地下より涌き出で虚空に浮かびあがった。塔にまします多宝如来は「釈迦の説法はすべて真実であり素晴らしい」と賞賛し、法華経の正当性を強調した。そして、多宝如来の求めに応じて、釈迦は宝塔の中に入り多宝如来と併座する、という筋書である。この経文の漢訳には、七宝(塔)・宝物・垂宝瓔珞・宝鈴・宝塔・大宝塔・宝浄(国)・多宝(如来)など、「宝」を含む言葉が多用される。宝とは文字通り「宝石」「宝物」等を意味し、法華経の浄土を荘厳する瓔珞であり、チベット仏教で愛好されるマニ(mani)に相当する言葉である。それは単なる煌びやかな宝石の装飾品ではなく、仏教の根本にある「思いやり」「寛容」等を象徴する仏具である。
 すなわち、宝塔あるいは多宝塔という建造物が古くからあったとすれば、それは仏法の精神を反映する宝石・宝珠等で荘厳された大きく美しい塔をさし、宝浄国の過去仏たる多宝如来の居所として理解されるべきものであろう。その建築的容姿は不明ながら、7世紀後半に遡るという「長谷寺銅板法華説相図」は、銘文に「多寳佛塔」の四文字を含み、それを図像化した浮彫は六角三重塔であって、初重内部に釈迦・多宝二仏併座を表現している。また、奈良国立博物館所蔵「多宝塔塼仏」は中国西安の遺跡で出土した7世紀中期の文物とされ、三重塔の浮彫を含み、その初重に釈迦・多宝らしき二仏を描く。これら三重塔としての多宝塔は、平安密教の多宝塔とは全く異質であり、むしろ奈良時代の円堂を高層化したものとみえなくもない。これが『法華経』にいう「大宝塔」あるいは「多宝塔」の形式とは断定できないけれども、7世紀の中国と日本における「多寳佛塔」のイメージの一つであることは間違いなく、『法華経』のいう多宝如来の「我が塔廟」のイメージの一つであるとも言いえよう。
 ちなみに、こうした釈迦・多宝二仏併座の宝塔は天台宗で重用された(真言宗系の本尊は大日如来)。ASALABが調査対象とした例に鳥取市の大雲院宝塔厨子(天台宗本山派、17世紀中期)がある。この厨子は、内部上側に釈迦・多宝二仏併座、下側に摩尼宝珠を配し、その全体を『法華経』八巻で囲い込む。見宝塔品の記載を表現する見事な例である。寺の先代住職は、この厨子を「宝塔」ではなく、「多宝塔」と呼んでいた。仏教の側からみれば、宝塔も多宝塔も美麗な塔という点で大差なく、どちらかと言えば、「多宝如来の居所」という位置づけが重要であるように思われた。

図02 長谷寺銅板法華説相図(千佛多宝佛塔 7世紀後半)1 長谷寺銅板法華説相図(7世紀)にみえる多寳佛塔


毘沙門天の小塔とマハーボディー大塔

 建造物としての宝塔の遺構は3棟しか現存しない。最も古いのは慈光寺開山塔(埼玉・1556)である。桃山時代の遺構であるにも拘わらず、『菅原遺跡』報告書ではこれを過大評価し、堂庭廃寺宝塔跡など、ごくわずかな平安後期~中世の発掘遺構と比較対照して、12本柱のうち4本を塔身上に立ち上げる構造形式が奈良時代まで遡りうると解釈している。しかしながら、物的証拠を比較する限り、塔身内の柱跡さえ消滅している菅原遺跡の円堂跡との共通性は「平面がほぼ円形を呈している」程度にすぎない。両者の類似性は強調できるほどではないのである。
 桃山期以前の宝塔の歴史的形態の問題は、2021年度大学院修了生の岡﨑[2020]が修士研究で取り組んだ。岡﨑は、四天王のうち北門を守護する毘沙門天(単独の場合は多聞天という)の像に注目した。毘沙門天はバラモン教起源の武勇神(護法尊)であり、しばしば妃の吉祥天とセットで仏堂に安置される。そして掌の上に、毘沙門天は宝塔、吉祥天は宝珠をのせる。宝塔は智恵、宝珠は慈悲の象徴とされる。毘沙門天像に伴う宝塔は、これまで軽視されがちであったが、宝塔の変化を知る上で貴重な手がかりとなる。岡崎が集成した45像の大半は平安期以降のものであり、その過半は骨壺に似た胴張り壁に唐笠状屋根(蓋)をのせており、機能的には舎利塔だが、形態はたしかに密教の宝塔に似ている。残念なことに、奈良時代の毘沙門天像は愛媛県大洲市の如来寺に一作残るのみで、掌上の小塔を紛失している。最古例はやはり白鳳期(7世紀中期)に遡る。法隆寺金堂多聞天像の小塔は、台形状の塔身に陸屋根をのせ、5本の相輪を立ち上げる。先述の銅板法華説相図の三重塔(多寶佛塔)の屋根も陸屋根で、3本の相輪を描くが、平面を対称とみれば、相輪の総数は5本に復元できる。ちなみに、法隆寺玉虫厨子背面の霊鷲山浄土図に含まれる3体の「宝塔」については、それは宝塔や多宝塔と呼ぶべきものでなく、たんなる仏龕と相輪のセットだとする意見に賛同したい。特に注目したいのは3本という相輪の数である。ここでも3本を正面から描いたとすれば、じつは5本の相輪を描いた可能性があるからだ。こうした陸屋根と5本の相輪はインドのブッダガヤにあるマハーボディー寺大塔(5~6世紀)を彷彿とさせる。宝座の四隅と中央に5基の塔を対称に立ち上げた大型の金剛宝座塔である(北京の正覚寺はこの模倣)。この種の壮大な塔を圧縮した姿として、白鳳期の三重塔図像・小塔・霊鷲山浄土図を位置付けうるであろう。

20231018180536bea.jpg 法隆寺金堂多聞天像のもつ小塔(7世紀)


おわりに-行基の墓と供養堂

 今春から『菅原遺跡』報告書を読み込み、関係者一同メールで問題点を指摘しあってきた。ざっと分類しても、①報告書の体裁、②時代背景に関する理解、③遺構解釈、④遺物と復元建物の相関関係、⑤宝塔・多宝塔の無理解、⑤基壇上に円形大壁を立ち上げるなどの復元設計の非常識、⑦参考とする建造物・遺跡とのこじつけ、⑧行基・忍性の墓と供養堂の関係、など多数の疑問点が浮上している。このすべてを整理し批評するのは大変な作業なので、今回はこれ以上立ち入らない。中間報告で強調したいのは、上述のように、奈良時代までの宝塔/多宝塔は平安密教のそれとはまったく異質の建造物であったということである。仮に行基の時代に「多宝(の)塔」あるいは「塔廟」が造営されたとしても、それは後世の「多宝塔」でもなければ「多宝塔の初現形態」という奇妙奇天烈な建物でもなかった、ということである。菅原遺跡の全体が円堂を回廊等が囲む夢殿型の配置であり、また、銅板法華説相図などの多宝塔が六角三重塔であることを考えると、菅原遺跡の円堂を八角円堂系の供養堂であるとみなすASALAB従来の考え方は決して不合理ではない。これについては、生駒竹林寺に残る行基と弟子の忍性の墓にも注目したい。水瓶型の舎利容器を正八角形の石櫃に収めており、供養堂としての八角円堂と石櫃の形態が共通しているからである。今後は、『菅原遺跡』報告書に掲載された「多宝塔の初現形態」復元案の問題点を幅広く深掘りしていく予定である。(武内)


《謝辞》 昨年度末に行基墓の発掘調査報告書を刊行された前園先生(愛媛県埋蔵文化財センター所長・橿原考古研顧問・奈良県文化財保護審議委員)には本研究に快く協力していただき、行基関連の資料をはじめとして多大なご助言を賜わりました。とくに愛媛県埋蔵文化財センターでの意見交換(8月21日)は刺激的なものでした。ここに厚く御礼申し上げます。 

マハーボディ大寺 五塔寺 北京
左:マハーボディー寺大塔(5世紀ころ)、右:マハーボディー寺大塔を模して建設された北京の真覚寺金剛宝座塔(五塔寺、15世紀前期)

《参考文献》

1. 浅川滋男・岡垣頼和・宮本正崇・篠永昌幸・加藤雅大・玉田花澄(2022)「菅原 遺跡『円堂』の復元」『古代』第149号:pp.69〜90,早稲田大学考古学会
2. 植木雅俊(2018)『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』株式会社 KADOKAWA
3. 岡﨑滉平(2020修論)『中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究-構造と配置に関する基礎的考察-』公立鳥取環境大学
4. 元興寺文化財研究所(2023)『菅原遺跡-令和2年度発掘調査報告書-』
5. 玉田花澄(2022卒論)『大僧正行基と長岡院-菅原遺跡を中心に-』公立鳥取環境大学
6. 奈良県立橿原考古学研究所(前園実知雄 編)(2023)『竹林寺忍性墓 奈良県文化財調査報告書 第194集』唐招提寺・公益財団法人 由良大和古代文化研究協会
7. 前園実知雄(1992)「生駒山竹林寺と行基の墓」『考古学と地域文化』同志社大学考古学シリーズ Ⅴ:pp.677〜690
8. 前園実知雄(1987)「墓所にみる忍性の思想的背景」『考古学と地域文化』同志社大学考古学シリーズ Ⅲ:pp.597〜608


《関係サイト》
大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討《2023年度卒論中間報告》
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2675.html
行基と菅原遺跡に係る意見交換@松山(8月)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2686.html
《連載情報》 菅原遺跡報告書批評のための習作
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2684.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2706.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2707.html
寧楽徘徊(2)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2704.html
玉虫厨子制作年代考(七) - 成城大学(上原 和)
https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/033/033-05.pdf

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Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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