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旧科研実績報告大改訂(ブータン2018-2022)

研究題目: ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴-ポン教神霊の浄化と祭場-
2018年度~2021年度基盤研究(C)
課題番号 18K04543  機関番号 25101
代表者:浅川 滋男(公立鳥取環境大学)

 今年の5月に脳梗塞を発症して入院し、科研の実績報告が同月末日の締切に間に合わなかった。締切は1ヶ月延長され、6月に新旧2本の実績報告を完成させたのだが、体調が良いはずもなく、執筆・校正とも不十分で情けなく感じていた。そうこうして時間は過ぎ、上海滞在の3日めだったろうか、大学の研究交流課からメールがあり、旧科研の最終実績報告に添付した研究成果(ワード)のフォーマットが指定のものではなく、フォーマットを改めて書き直すよう指示があった。もちろん書き直しを承諾した。退院直後に比べれば、少しは体調が回復しているし、9月の第10次調査を経験して、ポン(ボン)教をはじめとする非仏教系神霊の認識が大きく向上していたからである。それは、これまでの理解の修正を促すものだったので、この書き直し指令を好機と捉え、大改訂を試みることにした。


1.研究開始当初の背景
 申請者は洞穴・岩陰と複合する日本の懸造仏堂の源流を探るため、中国の石窟寺院・懸造仏堂や東南アジアの洞穴僧院を訪ね歩いていたが、2012年、ブータンに至る。ブータンの懸造仏堂は日本と同様に絶壁の岩陰・洞穴と複合しており、外見上、両者の関係は深いようにみえる。しかし、日本の懸造仏堂が蔵王権現などの像を安置する祀堂であるのに対して、ブータンのそれは僧侶が長期的に瞑想修業する僧坊窟であり、石窟寺院の変化などと対比しても、ブータンのあり方がより古式であると思われる。そうした古態を残すブータン仏教に魅せられ、2015年ころまでは主に崖寺(ドラク・ゴンパ)の空間構成を簡易測量などの方法で追跡してきた。仏教施設の内部は原則として調査・撮影が禁止されていたが、2016年ころから民家仏間での調査に方針転換することによって撮影は可能になり、多くの宗教情報を得ることができるようになった。このようにして、仏間の詳細な調査に取り組んでいると、仏壇や壁画などに非仏教的な要素が少なからず散見されることも明らかになってきた。そうした非仏教要素は、フランソワ・ポマレ[2014]が指摘するように、ブータンでは非仏教ならなんでもかんでもポン教(ボン教)関係として捉える傾向がある。それら「邪教」の神霊の多くは、仏法により調伏され仏教側に取り込まれて「守護神」に変換される。チベット・ブータン地域は、古代インドに最も近しい仏教の原型を残すようなイメージがあるけれども、実際に訪問すると、非仏教系信仰は脈々と根付いており、仏教の内側に染み込んでいる。その実態を理解したいと考えた。

2.研究の目的
 ポン(ボン)などの非仏教系信仰には、①どのようなものがあり、②仏教とは独立した関係にあるのか、従属的な相関関係にあるのか、あるいはまた、③仏教と非仏教は民衆にとってどのような役割の違いがあるのか、④その祭場はどういう空間構成をしているか、などの諸問題について、具体的なフィールドワークを通して明らかにしていく。この場合、研究の主眼は、仏教・非仏教の在り様を文献史学的に考察するのではなく、あくまで現在学的な視点から、神霊に奉仕する民衆の感覚を理解することに主眼を置く。とくに気にしているのは、⑤ポン教と他の非仏教系神霊の区別、⑥調伏された非仏教系神霊の仏教的位置づけと民俗的位置づけ、である。

3.研究の方法
 あくまでフィールドワークに主眼をおいて、研究を展開する。調査時に僧侶や村人からヒアリングを重ねるしかない。この場合のヒアリング情報は「歴史的事実」ではないかもしれない。それは、村人や僧侶が無意識に共有する歪曲した疑似歴史情報である。その集団幻想のなかに、ブータン人の自然観や精霊信仰、「悪霊」調伏の過程が埋め込まれていると考える。チベット仏教学やブータン史に矛盾するような情報も、現在のブータン人の認識として排除すべきでない、と考える。これと関連して、天上や地下の神霊にまつわる内容を多く含む民話の解読にも尽力する。
 現地調査では、仏教寺院でのヒアリングに加えて、民家仏間で考現学的な調査に取り組む。まずポラロイドカメラで対象となる仏間・仏壇等を数十枚撮影する。そして、現地インフォーマントにより、ポラロイドに写し込まれた仏像・仏具・装飾品等の呼称をローマ字表記で書いてもらう(油性マジック使用)。書きあがった写真はデジカメ撮影してバックアップをとる。この作業によって、仏教側の諸仏と非仏教系神霊が調伏された偶像の区別を明らかにする。調伏された非仏教系神霊については、仏像との配置関係を読み取りながら、由緒・慣習・祭祀などについて細かくヒアリングする。

4.研究成果
 《2018年度》 2018年8月28日~9月2日、ブータンを訪問した(第7次調査)。主要なフィールドはプナカのチメラカン寺周辺である。この寺は中世の怪僧ドゥクパ・クンレーが魔女を地下に封じこめたという黒壁のストゥーパが残り、本堂片隅に守護神(元は魔女アムチュキム)を祀る。クンレーはチベットの多くの谷筋で自らのファルスにより魔女を調伏し続け、仏教側の守護神に変えていった。そのためチメラカン周辺では建物の外壁に多くのファルスを描き、仏壇の一部にその木彫を祀っている。こうした傾向は全土で散見されるが、プナカはとくに男根信仰が盛んであることを確認した。また、周辺の崖寺等では、ギュンダップ、ツォメン、ルモなどの非仏教系神霊が調伏されて守護神になっているが、これらは土地神というべき存在であり、ポン教とは区別すべきである。パロでは初穂飾チャを仏間に祀る農家もあり、ブータンの宗教世界は決して仏教のみで理解できるものではないことを改めて実感した。
 一方、仏教寺院の成立年代に関する調査も進めており、パロ地区シャバ村の建物跡(廃墟)の版築壁から採取した木片(心材型)は14世紀に遡る古い炭素年代を示した。2016年に近隣の版築壁跡から採取したサンプル(辺材型)は15世紀前半~16世紀初期であり、今回のサンプルは心材型なので両者の年代に矛盾はない。いずれにしても、国家形成期以前から本堂を伴う寺院が存在した可能性は高いと思われる。
 9月12日~19日には西北雲南(旧チベット領カム地方)を訪問した。ブータン国教の開祖パジョの故郷であり、金沙江以北の谷筋は生態系が西ブータンに近似する。奔子欄の東竹林寺では、本堂に大きなルモ(地下大魔王)の浮彫が掲げられていた。調伏された守護神である。仏教系物質文化の中では、とくにマニタイと呼ばれる石積みに注目した。徳を積むため石板に「オンマニペメホン(観音様は心の中に)」の文字をカラフルに刻んで積み上げ、その中心に槍を立て、先端に転法輪を飾る。死者が出るとマニタイを作るというので、賽の河原(日本)の回向の石積塔を連想させるし、石積みに槍を立てる点はモンゴルのオボとも共通している。今後の重要な研究課題となるであろう。


 《2019年度》 2019年度は8月に四川高原のギャンツェ・チベット族自治州でチベット仏教のストゥーパ、マニタイ、リンボン(石積み)等を調査し、9月に第8次ブータン調査をおこなった。第8次調査の主フィールドはワンデュポデン地区ポプジカであり、ガンテ寺、クブン寺、ケワン寺などで本堂の尊格配置、護法尊・守護神、ストゥーパなどについて調査した。とくにクブン寺は表向きドゥク派の仏寺だが、7世紀に起源が遡るとも伝承されるポン教の寺院であり、本堂1・2階の中央間は仏像を安置するものの、2階の脇間はポン教のご神体を祀る隠し部屋(ギョンカン)としている。中国の西蔵側には今も仏教化したポン教寺院が散在するが、ブータンではここが唯一のポン教寺院である。
 ガンテ寺(ポプジカ)の仏教大学長と2時間ばかり面談し、白壁と黒壁の洞穴での瞑想の違いや護法尊・守護神の由来をご教授いただいた。学長によれば、白(善)と黒(悪)は必ずしも対立する概念ではなく、表裏一体の関係にあるという。たとえば、人間の心の中にも白(善)と黒(悪)が同居しており、黒い部分を浄化することで一定の神格に再生しうるという。護法尊というよりも、憤怒尊と係る問題かもしれない。また、学長は「白ボンは仏教と似ていてよいが、黒ボンはよくない」という発言もされた。
 以上のように、第8次調査では護法尊・守護神・憤怒尊の情報を多く得ることができ、ブータン唯一のポン教寺院「クブン寺」を訪問することもできた。ドゥクパ・クンレーの伝承に因むファルス信仰についても、民家軒先につるす木彫ファルスが剣と複合的に表現されることを実際に観察した。この場合、ファルスは魔除け、剣は無知を切り裂く武器である。こうした成果を、中国の二つの学会で発表する機会があった。11月9日の中華人民共和国建国70周年中国建築学会招聘講演(北京工業大学)で東大寺頭塔を復元的に論じる際、チベット密教のストゥーパの構造形式や境内との配置関係と比較した。また、11月16日の中国科技史学会建築史分会招聘講演(福州大学)で木造建築の科学的年代測定について論じる際、ブータン各地に残る版築壁跡から採取した有機物の炭素14年代についても言及した。

 《2020年度》  コロナ禍のため海外渡航が叶わなくなり、日本国内での文献研究を余儀なくされた。主に、これまで漠然と捉えていたポン教に対する理解を深めるべく、日本語・中国語・英語の文献を読み込んでいった。ブータンの場合、仏教以前から浸透していた非仏教系の信仰をおしなべてポン教系と理解しがちだが、ポンとポン以外の土着信仰を識別すべきであり、申請者自身もこれまでの研究成果を修正する必要に迫られている。
 ポンは西チベットのカイラス山周辺で紀元前から存在した自然崇拝的な宗教もしくは法である。7~8世紀の仏教受容期からしばらくはニンマ派(古派)仏教と相互影響しあう段階があり、11世紀以降の諸派林立・群雄割拠時代には仏教諸派の覇権争いにポン教も加わる。結果として、ポン教は仏教四大宗派との争いに敗れ、チベット本拠地では弾圧されて東遷せざるをえなくなり、拠点を四川高原のギャロン地区に移す。その際の移動経路と終点の周辺に著しく仏教化したポン教の寺院が少なからず姿をとどめている。これは、おそらくユンドゥン・ボン(雍仲本)の寺院がさらに仏教化したものであろう(ブータンでいう白ボンか?)
 一方、ブータンでは、中世にあって、隠された古いポン教経典を探し出すテルトンの称号をもつボンポ(高僧)は活躍したが、ポン教の拠点的な大寺院は存在しなかった。2019年夏に調査したポプジカのクブン寺は、縁起が7世紀にまで遡る。表向きドゥク派の仏教寺院を装いながら、2階奥にある二室をポン教のご神体を隠し祀る秘奥の部屋(ギョンカン)としており、現本堂の前には石積壁の前身遺構も残っている。ここがブータンに残る唯一のポン教寺院である。これは常識的にユンドゥン・ボン(雍仲本)寺院の先駆けであり、古いシバ・ボン(斯巴本)までは遡らないであろうけれども、ガンテ寺仏教大学長のいう黒ボンなのか白ボンなのかはよくわからない。
 このほかリモートながら、社会福祉法人「佛子園」ブータン事務所と情報交換し、日本の平家落人集落のようなポン教徒の隠れ里(トンサ地区ベンジ村)が存在することを知った。経費の多くは繰り越しとなった。

 《2021年度》 2021年度もブータンへの渡航は叶わず、国内での活動に終始した。2012年より始まったブータン調査に係る成果報告・論文・卒業研究・修士研究を集成して項目別に分けながらデータとテキスト・図版類を整理し、ブータンの仏教/非仏教空間を主題とする単行本の出版のための準備を進めた。ポン教とチベット仏教に関しては、2020年度から収集した中国側の論文(西蔵チベット族自治区及び青海省・四川省・雲南省のチベット族自治州を対象)を読み進めた。
 一方、奈良市疋田町でみつかった菅原遺跡「円堂」の復元に取り組んだ。円形の平面をもつ仏堂の遺構と推定され、日本建築史に類例がない。8世紀中後期に存続した菅原遺跡は『行基年譜』にいう長岡院の可能性が高く、行基が入滅した喜光寺の西1kmの丘上に所在する。円形に並ぶ柱穴と基壇跡が回廊・塀等によって囲まれており、法隆寺東院伽藍を彷彿とさせる。中心にある「円堂」も、基壇上の本体部分は八角堂であり、そのまわりに十六角形の土庇(裳階)をめぐらせている。こうした特殊な遺構の復元案を1案に絞るのではなく、A案(栄山寺八角堂を意識)、B案(薬師寺玄奘三蔵院八角堂・安楽寺八角三重塔等を意識)、C案(興福寺北円堂と法隆寺東院夢殿を意識)の複数案を併行して検討した。また、インドで流行した密教の影響は空海以前の奈良時代から始まっており、その代表的な遺産が東大寺の毘盧遮那仏・大仏殿だと捉え直すとともに、大仏鋳造を主導した行基が師匠の道昭(玄奘の弟子)やインド僧菩提遷那などを通して中後期密教の影響を受けており、その反映として、大野寺の土塔や菅原遺跡の円堂に「円」の造形があらわれた可能性があると推定した。

 《2022年度》 2022年12月22日~29日、3年ぶりにブータン調査(第9次)を再開した。土地勘を取り戻すため、第8次調査の調査地を再訪することから始めた。まずはプナカのチメラカンで魔女像アムチョキムと再会。嫉妬深い彼女の性格などの逸話をヒアリングした。次にブータン唯一のポン教寺院、クブン寺(ポプジカ)も再訪。1階の仏堂の撮影を許可される。2階左奥の鬼女シッパイ・ゲルモを祀るギョンカンは3年前より長時間内部観察できたが、撮影不可。黒く塗りつぶされた髑髏の空間に再度圧倒された。その後、住職の許可を得て、本堂前の前身建物(石積壁)で目地の乾燥土採取、その横にあるセンデン・デワの樹(樹齢千年以上と伝承される倒木枯木)の年輪サンプル採取。センデン・デワの樹は、クブン寺の開祖センデン・デワ(ポン教の高僧)が植樹したとされる大木(イトスギ)。境内の前に立っていたが、1987年の大風で倒木。枯木となったまま横たわるも、湿気等による腐朽のため内側が大きく空洞化している。直径約150㎝、空洞部分の直径70㎝前後。枯木のチップを持ち帰ると御利益があると信じられており、住職の勧めもあって、空洞側で大きめの木片(270×70×35mm)を採取した。帰国後、最も内側の年輪のAMS法放射性炭素年代測定をパレオラボ社に依頼したところ、2σ暦年代範囲で以下の結果を得た。
 1504-1597 cal AD (75.69%)および1617-1644 cal AD (19.76%)
センデン・デワの樹は1987年に倒れたので、残存部分の樹齢は483~343年となる。現状で、内側の年輪は16~17世紀前半と推定されるが、これに空洞部分の年輪数を加えて植樹年代が推定される。L・K・ティンレイ[Thinley 2013]によれば、デワはチベットのララユン僧院からブータンに落ちのびたポン教のシャブドン(領袖)であり、その生存年代は不詳ながら、チベットのラビジュン暦法が始まる前の13世紀以降と推定している。倒木の空洞部分の年輪数が300ばかりで整合する。その後、トンサ地区の山間部にあるポン教徒の隠れ里ベンジ村へ。古代吐蕃王朝の末裔らしき母系大家族が住むナクツァン(大邸宅兼ゲストハウス)でもてなしを受けた後、ポン教の幡の立て替えを調査。ナクツァンでは、土地神ムクツェンを祀るギョンカンに入室。撮影不可。黒い髑髏の部屋に1体の等身大像(ムクツェンの門番カタップ)を配する。最終日のゾンドラカ寺(パロ)本堂でもカタップを確認できた。

 以上が調査の概要である。現地調査の感想としてとくに印象に残ったのは、仏教側の守護神に変換されたはずの非仏教系土着神が、仏教以上に流域の人々に篤く信仰されていることである。ベンジ村ナグツァンの主人によれば、仏教は悟りを得るため、ポン教は自分や家族に厄災が及ばぬようにするための宗教だと強調された。仏教が浸透する以前から存在したであろう前仏教的信仰は、それが仏教側に取り入れられてもなお、仏教以上に崇拝されている。この事実に気付いたことは、まさに私個人にとってのパラダイムの転換であり、実り多い研究成果となった。  

《参考文献》
Blake, Laura. Bhutan's Buddhist Architecture. San Francisco: CreateSpace, 2015.
Francoise, Pommaret “Bon in Bhutan. What is in the name?” Seii Kumagai.ed. Bhutanese Buddhism and Its Culture, Vajra Publicatious, 2014:pp.113-126.
Karmay, Samten. “Dorje Lingpa and His Rediscovery of the ‘Gold Needle’ in Bhutan.”
Bhutan Studies Journal, Volume 2 No. 2., 2000.
Karma Phuntsho The History Of Bhutan, Random House, India, 2013
Tashi, Kelzang (Tingdzen). Contested Past, Challenging Future: An Ethnography of Pre-Buddhist Bon Religious Practices in Central Bhutan. The Australian National University, 2020.
Thinley, Lopon Kunzang. Seeds of Faith: A Comprehensive Guide to the Sacred Places of Bhutan. Volume 2. Thimphu: KMT Publications, 2013.
Tsering, Dawa. Introduction to the Traditional Architecture of Bhutan. Thimphu: Department of Works, Housing and Roads, 1993.

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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