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菅原遺跡報告書批評のための習作(3)

1024平城宮01大極殿02南門02楼閣02 左が南門、右の垂れ幕が東楼


中国都城造営の原則に抗う復元-大極殿院東楼

 第七次遣唐使が704年、ほぼ40年ぶりに帰国し、日本の社会経済システムと都城計画が激変する。663年、百済救済のため白村江に遠征軍を派兵するも、新羅・唐連合軍に大敗して国際関係は悪化し、遣唐使を派遣できなくなった。結果、唐長安城の情報を欠いたまま、日本最初の都城、藤原京(694-710)を造営せざるをえず、その計画は儒教古典から得た間接的知識によったとされる。その後、702年に第七次遣唐使が派遣され、粟田真人らが大明宮麟徳殿で則天武后に謁見するなどの成果を携えて帰国し、藤原京と長安城の乖離が明らかになって、平城京遷都の詔が下される。藤原京はわずか16年で首都としての役割を終え、長安城型の都城である平城京(710-784)に遷都される。都城の長安化は都市計画だけに限定されたわけでなく、平城宮の中に長安城的な空間が出現する。その最右翼が第一次大極殿院であった。


10含元殿01 00平城第一次大極殿04模型01 01平安神宮03
(左)含元殿の龍尾道 (中)平城宮第一次大極殿院の龍尾壇 (右)平安神宮の龍尾壇

 第一次大極殿院は、大明宮含元殿正面の龍尾道(平安宮の龍尾壇)の空間を再現しようと企図したものと理解される。もちろん完全な中国化が成し遂げられたわけではないけれども、平城宮の中で最も中国的であったと言うことは許されるであろう。そのような場所で、中国都城建築の序列が乱れるはずはない。『周礼』考工記の「殷人重屋。四阿重屋。」で知られるように、中国四千年の歴史を通して、最も重要な屋根形式は四阿(寄棟=廡殿)、とくに裳階付きの二重寄棟(四阿重屋)であり、以下、入母屋(歇山)、切妻(硬山/懸山)と続く。これを図式化しておく。

  裳階付き寄棟(四阿重屋) > 寄棟(四阿=廡殿) > 入母屋(歇山) > 切妻(硬山/懸山)

この原則を逸脱する例を中国内でみたことはない。


2018第15回人間環境概論(ベニス憲章)02東西楼002
紫禁城にみる屋根序列と大極殿南門・東西楼の序列(2018)の矛盾

 この厳格な序列を平城宮第一次大極殿院の復元建物と比較してみよう。まず大極殿。先述のように、柱間からみて入母屋の可能性が高く、中国で最上級の寄棟ではない(寄棟の可能性がないわけではない)。しかし、大極殿が藤原宮からの移築であるとすれば仕方ないことであろう。次に大極殿院南門。残念ながら遺構の削平が激しく、基壇規模が判明しているだけで、柱位置は不明である。したがって、屋根形式も不明ではあるが、すでに竣工済の復元建物は入母屋(二重)としている。大極殿が入母屋なのだから、その正門を寄棟にはできないので、入母屋を採用したのは賢明な判断である。問題は南門の東西両脇に建つ楼閣だ。中国の序列に従うならば、南門が入母屋なのだから、東西楼は入母屋か切妻しかありえない。ところが実施案は寄棟に設計されていて、いままさに東楼の建設が進行している。すなわち、南門と東西楼の屋根形式は

  中央(南門)=入母屋 < 両脇(楼閣)=寄棟

となって、中国都城建築の原則を大きく逸脱している。というより、抗っているようにみえる。


2018第15回人間環境概論(ベニス憲章)01東西楼01
第一次大極殿院1/100復元模型 (上:1993年 下:2018年) 


東西楼屋根形式の変遷

 2018年晩秋、珍しいことに、家内と二人で平城宮を散歩していた。用を足したくなってプレハブの展示場に入ったところで、1/100の大極殿院模型の存在を知る。1/100模型はわたしたちの世代が1993年に制作した。それとは別の新しい模型が展示してあったのだ。復元案の更新は結構なことだが、驚いたのは、東西楼が寄棟になっていたことである。中央の南門が入母屋で、両脇の東西楼が寄棟。1993年制作の模型では、南門を入母屋、東西楼を切妻とした。東西楼と回廊の担当はわたしだったのだが、復元の方針は鈴木・岡田両氏の指示による。つまりわたしは図面係だった(こんなに下手なのに)。もともと、第一次大極殿院の成果をまとめた『平城宮発掘調査報告』ⅩⅠ(奈文研学報第40冊、1982)の段階では、岡田英男氏の復元により、南門・東西楼のいずれも入母屋に復元されていたが、1/100模型の段階で東西楼が切妻に変更されたのだ。その後2001年、建造物研究室によって、南門=単層切妻、東西楼=入母屋とする復元案が図化され、パンフレットの表紙を飾る。以上を年代順に並べ、中国建築の屋根序列との関係をみてみよう。

  ①学報40冊(岡田1982) 南門:二重入母屋  東西楼:入母屋【中国原則と合致】
  ②1/100模型(岡田・浅川・松田1993) 南門:二重入母屋  東西楼:切妻【中国原則と合致】
  ③パンフ表紙(木村・村田・田中2001) 南門:単層切妻  東西楼:入母屋《中国原則に違反》
  ④1/100模型・復元建物(箱崎・海野2018) 南門:二重入母屋  東西楼:寄棟《中国原則に違反》 
    
 つまり、当初の①②案では、中国都城建築との矛盾はないが、比較的新しい時期の復元案③④は矛盾があるということが分かる。この原則を意識して設計するか否かだけの問題だと考える。


2018第15回人間環境概論(ベニス憲章)03金子案東西楼002
2001年のパンフ「平城京 第一次大極殿院 大極殿」の表紙に掲載された南門・東西楼の復元パース[木村・村田・田中案]


1024平城宮01大極殿02南門02楼閣01


木を見て森を見ず

 それからしばらくして、研究所を訪問する機会があったので、わたしは直接口頭で問題点を指摘した。なにより「木を見て森を見ず」に陥っていることを嘆いた。ただひたすら遺構図と建造物報告書を睨めっこして偏執的に解釈することを正しいと思い込み、「場所の歴史性」が頭からデリートされている。第一次大極殿院という中国的都城空間の「場所の歴史観」を培うことなく、モノの形式や形態ばかり追い求めているので、中国建築の原則に抗う結論になったにも拘わらず、それが間違った復元だということに気づいていない。復元担当者は「歴史的な解釈は古代史の専門家に任せている」と答えたが、ならば歴史家は建築の復元をカバーできるのか。無理な話であり、あくまで復元する側がしっかり歴史を学び、建築史学的操作に反映させなければならない。田中淡、関口欣也、楊鴻勛などの大家はすべてそのようにして復元研究に取り組んできた。今の研究所に、そのようなスタンスをもつ建築研究者はいないのではないか(若い人がどうなのかは分からないが)
 大極殿院の場合、まず全体を俯瞰して、大極殿と南門を二重入母屋にしたからには、東西楼は入母屋か切妻しかありえない、と考えて復元案を練り上げなければならない。どうしても楼閣に寄棟を被せたいなら、南門の屋根を寄棟にしておく必要があった。幸か不幸か、南門の遺構は削平されて柱位置が分からないので、寄棟の復元が不可能だったわけではない。この場合、二重門の形式に拘る必要はない。平屋の寄棟で十分だ。大極殿が入母屋なのに、南門が寄棟はやはり矛盾ではないか、という批判も出るだろうが、大極殿は藤原宮の入母屋建物を移築したのに対して、外からいちばん目立つ南門周辺は中国で最も格式高い寄棟で統一したという言訳ができるかもしれない(実際には南門も藤原から移築された可能性が高いが)。しかし、自ら南門を二重入母屋にしたからには、東西楼閣は入母屋か切妻にまとめねばならない。「木を見て森を見ず」の姿勢が招いた露骨な過ちであった。


法隆寺002経蔵 楼造01平等院翼廊 
古代楼造の代表例:法隆寺経蔵と平等院翼廊。側柱の位置を上・下階でそろえるのは、東西楼的な通し柱の名残か。そして、屋根は切妻造。


論文批評ー東西楼は切妻ではないのか

 東西楼を寄棟に復元する考察は2016年に遡る。奈良文化財研究所の論集『発掘遺構から読み解く古代建築』の第4章に以下の論考が掲載されている(クバプロ、2016:pp.87-119)

東西楼は入母屋か寄棟か -平城宮第一次大極殿の復原にむけて

 論文の題目をみれば明らかなように、ハナから中国都城建築の序列原則は頭にない。意識していないというのではなくて、「知らなかった」というのが事実であろうとわたしはみている。要するに、寄棟か入母屋のどちらか、なのである。平面が桁行15.5尺×5間、梁行13尺×3間という特殊な平面をみて、寄棟/入母屋をイメージする考古学系研究者はまずいないが、東西楼の発掘調査で、二期にわたる隅木蓋瓦が出土したことが大きく影響した。ここで切妻は捨象され、寄棟/入母屋が選択肢とされたわけだが、南門を入母屋としたからには東西楼は寄棟にはできない、という発想が浮かばなかったようだ。古代の入母屋造建築を精査すると、「柱筋と妻壁の位置が一致する」(p.110)ので、東西楼と合致せず、寄棟とするしかない、と結論づける。結果、中国の原則に違反する「入母屋>寄棟」という屋根の序列が導かれる。本末転倒というしかない。おもしろいことに、柱筋と妻壁が一致しない例外として平等院鳳凰堂が例示されているのだが、このような例外があるのなら、東西楼を入母屋にしたって、たいした問題ではなかったろう。「寄棟>入母屋」の原則に抗う方がよほど大きな過ちである。
 なにより隅木蓋瓦が曲者であった。隅木蓋瓦は本当に隅木の先端を覆っていたのか。そうとは限らないと思う。2階の床を支える隅サスを覆う部材としても考えられるからである。傾いた隅木よりも水平の隅サスの方が雨水を流し難い。強い雨を露骨に受けるので壊れやすい。結果、補修が必要になって、二時期の瓦が必要になったとみればいい。隅木蓋瓦以上に重視しなければならないのは平面であったはずだ。桁行15.5尺×5間、梁行13尺×3間という平面にふさわしい屋根は切妻であり、それでなにもかも納得できる。妻飾をどうするか、三重虹梁にするのか、という疑問があるけれども、今わたしは、正面の一間を片面庇とみて錣(しころ)におさめればよいのではないか、と考え始めている。身舎にあたる北側の二間は壁・窓・開戸で閉鎖的に造り、正面一間は前面開放、両脇は壁として、正面のみ高欄をつける。構造的な安定感がおおいに増す。そんなイメージでよいのではないか。


神社楼門例 出雲大社楼門 左:丹塗りの神社楼門例 右:出雲大社楼門(出雲大社も中世までは丹塗りであった。仏教勢力排除のため17世紀から白木とした)

 余談ながら、わたしは前々から大極殿院南門は、入母屋の楼門に復元すべきではないか、と思っていた。春日大社、出雲大社をはじめ全国の著名な神社が、本殿前に入母屋の楼門を構えているからである。元は鳥居であったところに楼門を築くようになったのは、皇居(宮城)の模倣だと推定される。すなわち、大極殿が神社本殿にあたり、大極殿院南門は楼門にあたる。大極殿院南門を入母屋造の楼門に復元する傍証にはなりうるであろう。こうすると、中央の楼門と両脇の東西楼はすべて楼造となる。高大な台上に屋舎をコ字形に配して防御性を高めた中国の「闕」風構造の木造版となる。ちなみに、宮城内部の門に楼門を採用した例に後期難波宮の復元パースがある。ただし、朝堂院南門を入母屋の楼門、大極殿院南門は単層切妻に復原している。大極殿本体は単層寄棟なので、屋根の序列には十分配慮しており、好感がもてる。ただ、序列として、朝堂院南門と大極殿院南門を入れ替えていれば申し分なかったのではないか(遺構の状況を知りませんが)


後期難波宮復元パース  午門(闕)正面 午門(闕)背面
左:後期難波宮復元パース(沢村仁+大阪市教委)  中:北京紫禁城午門(闕)正面、右:同左背面

 細かに読めば読むほど、論文「東西楼は入母屋か寄棟か」には問題点が目立ち、神経を刺激してくれる。ここでは中国留学していた関係上、文末に取り上げた中国建築の紹介の仕方(pp.144-145)に触れておきたい。楼造りの寄棟造は珍しいが、「中国に類例がなくもない」という論調でいくつか例示しているけれども、いうまでもなく、『周礼』考工記以来、中国の最上格の屋根形式は寄棟(四阿)であり、台上に寄棟造の木造屋舎を建てる宮殿・寺院等は枚挙に暇がない。平安期の『和名類聚抄』に引く「唐令古記」の記載「宮殿の建物はみな鴟尾つきの寄棟造とする」(p.114)もまた考工記に由来することを知っておかなければならない。こういう知識のレベルだから、「寄棟>入母屋>切妻」の屋根序列さえ知らぬまま不毛な議論を続けることになる。ちなみに、図25「楼閣山水之図」(p.116)の中央に描かれた建物を寄棟と限定するのは危険であり、また「日本にはいわゆる中国式の宮殿建築は現存しません」(p.114)と言い切る点も気にかかる。古代宮殿の建造物が現存せず、地下遺構しかない状態で、「存在しない」とまで断言してよいのか、心配になるのだ。なぜなら、東大寺大仏殿は考工記にいう「四阿重屋」の形式であり、唐長安城含元殿や紫禁城太和殿と同類である。今は資料の乏しい唐代建築(の一部が)が、古代日本のようであったという見方もできないわけではないので、上のように結論づけるのはいくぶん早計の感も否めない。


00殷の 盤龍城宮殿 (湖北省) 00大明宮含元殿  復原断面・立面 00天平創建時の東大寺大仏殿 復元CG 00紫禁城正殿太和殿(寄棟「廡殿」 ) 
考工記にいう四阿重屋の例。左から、殷盤龍城宮殿 (楊鴻勛復元)、長安城大明宮含元殿(同)、天平創建時東大寺大仏殿復元CG(大仏殿内模型を東大池内研究室が多重撮影スキャン)、北京紫禁城太和殿(大極殿相当施設)


復元に決定打がないことを証明した皮肉

 そしてなにより本論文のイントロにおいて、従来の復元案を引用した後、「いずれの案も決定打を欠いていました」と評価している点については、申し訳ないけれども、苦笑を禁じ得ない。既往の復元案を整理した上で論じた最新の考察の結果がここまで無様を露呈しているのは皮肉というほかろう。東西楼を寄棟とする復元案は、歴代一、二を争う失敗作であり、それがまた原寸大で遺跡上に建設されるのだから、罪の重さでは他を圧している。そもそも、復元という操作に「決定打がある」と確信している点、勘違いも甚だしい。「決定打は永遠にない」と自覚することを前提として取り組むべき仕事であるのに、傲慢にも、自分たちが決定打を放てるという幻想を抱いているのだから。どれだけ真摯に向き合っても、根拠となる証拠は不十分であり、決定的な案など導けるはずはないのである。早く気づいてほしい。
 聡明な読者ならすでにお気づきであろう。大極殿院で大失策をやらかした復元の主導者と、菅原遺跡円形建物跡を「多宝塔の初現形式」として世界に類のない奇妙奇天烈的造形に導いた復元担当者は同一の人物である。大極殿院の場合、無知ゆえの過ちであり、菅原遺跡の場合は、多宝塔が奈良時代に遡るという思い込みからの作為の産物である。共通するのは「場所の歴史観」を著しく欠いていることだ。いずれも悪質な失態である。わたしが室長時代にこんなことをしようとしたら、まずは田中淡氏にお叱りを頂戴しただろう。今は関西地区にそういう抑えの効く重鎮が居ないのであろうか。
 第一次大極殿院の仕事は好きではなかったけれども、とくに1/100模型を設計・制作していた1992~93年ころの思い出は懐かしくはある。二人の尊敬すべき人物に出会った。一人は岡田英男教授(奈良大学)であり、いま一人は松田敏之さん(奈良県教委OB)である。岡田教授は、鈴木嘉吉所長が唯一信頼していた建築史研究者であり、若い世代は、復元作業で困ったことがおきたら、鈴木所長ではなく、岡田教授のご指示を受けるようにしていた。ときに秋篠のご自宅までうかがった。岡田先生が人に優しかったからというだけでなく、岡田先生の発言なら鈴木所長も聞く耳をもったからである。いちばん印象深かったのは、南門の設計で慈恩寺大雁塔楣石に描かれた大殿の二手先を再現したことだ。二手先の建造物は平安時代以降は現存するが、奈良時代の日本に遺構がない。もしあったとしたらどうであったのか、中国建築史で有名な画像資料をもとに再現する企ては刺激的であり、そうした一種の実験考古学的操作が南門を素材におこなわれていたのである。もちろん日本初の試みであった。これを指導したのが鈴木・岡田両氏であり、作図したのが松田さんであった。松田さんは、鈴木所長のくどいほどの指示に従い、大極殿と南門の設計図を何度もなんども描きなおした。CADのない手描きの時代である。
 岡田教授と松田さんに対する敬意の念を失ってはならない、とわたしは若い世代に伝えたことがある。かれらはお二人のことを知らない。結果、南門は二重入母屋という形式だけ踏襲し、二手先の実験は放棄されてしまった。わたしが担当した東楼については、素直に未熟なものだったと思っているので、いっそう深い考察により描き変えられても仕方ないと諦めてはいたが、まさか寄棟になるとは思いもよらなかった。入母屋でとまっていれば、異を唱えることはなかったであろう。寄棟だけは許されない。

 2019年11月8日の北京工業大学建国飯店の一室に話を戻そう。第一次大極殿が平屋にならなかった理由を説明した後、さらに大きな問題が発生しつつあることにも触れた。南門・東西楼で屋根の序列が反転している(南門=入母屋/東西楼=寄棟)と述べると、わずか十人ばかりの宴席ながら、どよめきがおきた。信じられない、という反応である。これが中国の建築史家たちからみた大極殿院復元案の感触である。【この項、完】


1024平城宮01大極殿02南門02楼閣04

 《付記》 今回、第一次大極殿院の諸問題を述べるにあたって、講義資料を再確認したところ、「人間環境概論」(1年次後期オムニバス)、「住まいと建築の歴史」(2年次前期)、「地域生活文化論」(3年次前期)、「歴史遺産保全論」(3年次後期)の全4講義で、大極殿と南門、あるいは屋根序列の話題に触れていることが分かった。それらの講義パワポをjpg化してできるだけ掲載している。幸い毎年、大勢の学生が聴講してくれるけれども、平城宮を訪問した経験のある学生たちの感想を読むと、「なにも感じなかった」「感動できる場所ではなかった」「あの復元は度を越している」など否定的な見方が圧倒的に多い。朱雀門や大極殿は決して訪問者の心を動かしていない。日本の文化遺産センターという自負はあるだろうが、こういう一般レベルの意見にも耳を傾けていただきたい。


《連載情報》 菅原遺跡報告書批評のための習作
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《関係サイト》
大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討《2023年度卒論中間報告》
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2675.html
行基と菅原遺跡に係る意見交換@松山(8月)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2686.html
寧楽徘徊(Ⅱ)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2704.html

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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