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菅原遺跡報告書批評のための習作(9)

 今回から第4章「遺構・遺物の分析」の検討に移行するが、第1節「菅原遺跡SB140の復元考察」は後の楽しみにとっておき、まずは昨日(連載8)の分析と直結する第2節「出土瓦の検討」(pp.77-82)から批評する。太字・下線はすべて評者。
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報告書 第4章第2節 出土瓦の検討

1.出士瓦類の概要 p.77
(1) 菅原遺跡2020年調査出士瓦類
 今回の調査では、軒丸瓦が6236D、6299A、6316Dcの3型式、軒平瓦が6765A、6711Bの2型式が出土した。軒平瓦6711B型式が遺構に伴って4点出土している以外は、1点のみのものも多く、表採資料など、遊離した状態で出士している。以下、軒瓦のみならず、瓦類全体を遺構、整地土などのまとまりで整理しておくことにしたい。
 囲繞施設関連瓦類  今回の調査で検出した囲繞施設であるSC160、SA170、SCl80を構成する柱穴からは、多くはないが瓦類が出士している。軒瓦はなく、平瓦が多く、丸瓦が少ない傾向が看取される。丸瓦では、柱の抜き取り痕からは小型丸瓦(12)も出土している。平瓦には縦方向に半裁した可能性が高いものも含まれており、これは北区で検出したSK100から出土している平瓦と共通する。これらは割熨斗瓦であった可能性が高いものと判断している。平瓦には西大寺および東大寺の造瓦司にみられる凸面押庄技法によって製作された平瓦も出土している。また、北側で検出したSB150の柱穴mからは6711B型式の軒平瓦が出士しているほか、SC180の北側で検出したSD034からも同型式の軒平瓦2点が出土している。全体に瓦の出土量が少ない中にあって、軒平瓦6711B型式の出土は際立っており、同型式の瓦は 1981年調査区では全く出土していないこともあり、方形囲繞に使われていた可能性が高いものといえる。SD034からは西大寺26次調査(奈良市)で出土した「西」刻印と同氾の刻印平瓦(41)が出士しており、上記の凸面押圧技法の平瓦とともに差し替え用として搬入された可能性がある。なお、整地士Ⅱからは西大寺系の6236D型式の軒丸瓦も出土している。ただし、軒平瓦に組み合う軒丸瓦の出士がみられず、割熨斗瓦と考えられる平瓦が出土することなど、囲繞施設が掘立柱構造であることと合わせて、これらの瓦は屋根の甍にのみ使用されていた可能性が想起される。
 整地土Ⅰ出土瓦類  整地土Ⅰはすでに報告したように(30頁)、建物および囲饒施設を造営する際に行われた地業時の客土である。ここから、囲饒施設所用瓦と考えている6711B型式の軒平瓦が1点出士している。当該資料は囲続施設の屋根に用いるために搬入されたものが、造成時の整地土に紛れ込んだ可能性が高い。6711B型式は平城宮瓦編年のIII -2期(749~757年)とされ、今回の調査で検出した一連の遺構群の上限年代を特定する上で重要な位置を占める。
(2)菅原遺跡1981年調査出土瓦類  pp.77-79
 1981年の調査では、軒丸瓦が菅原A類、菅原B類、菅原C類、6225A、6236D、6281A、6299A、6316Dc、6316Mの9型式と軒平瓦が6681S、6710D、6765Aの3型式が出土している。菅原遺跡を特徴づけるのは、大きさの異なる多様な瓦の出土である。出土点数については図68に記したとおりであり、出土点数の対応関係から、中型瓦では軒丸瓦6316M-軒平瓦6710Dがセット、小型瓦では軒丸瓦6299A-軒平瓦6765Aがセットであると考えて問題なかろう。また、数点ではあるが超小型瓦についてもセット関係で出土している。この小型瓦については1981年調査時には、大きさの異なる瓦の混在に対する明快な回答は示されていなかったが、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SBl40の上層に薔かれた可能性を想定することとなった。 《以上、原文》
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批評-6711B型式軒平瓦はどこに使われていたか

 非論理的思考の塊のような文章である。驚愕のレベルと思って読んでいた。まず前提として知っておくべきことがある。回廊等囲繞施設を伴う建築群の場合、最初に中心となる仏堂等を造営し、その竣工をみてから囲繞施設の造営に移行する。中心建物の建設工事には大掛かりな足場と周辺のオープンスペース(作業場)が必要であり、回廊などが存在しては邪魔になるからだ。たとえば、法隆寺西院を例にとると、まず金堂、次に五重塔を築いてから中門に移行し、最後に回廊を造営して全体が完成したと推定される。組み立てに必要な場所を確保するだけでなく、資材の運搬を考えても、このような工程で工事を進めるのは当たり前のことである。現在進行中の平城宮第一次大極殿にしても、同様のプロセスを踏んでいる。にも拘わらず、平城宮瓦編年のIII -2期(749~757年)にあたる6711B型式の軒平瓦を囲繞施設用の甍瓦と判断するのは如何なものか。行基の没年は749年であり、その後まもなく供養堂の造営が始まったとしたら、まず建設するのは中央の円形建物SB140以外考えられない。年代の古い6711B型式の軒平瓦は当然のことながら、円形建物SB140(の大屋根)に使われていたとみなすべきであろう。
 総数4点で際立つという6711B型式軒平瓦の出土地点をまとめると、北側の東西棟掘立柱建物SB150の柱穴mから1点、南側の排水溝SD034から2点、北西の整地土Ⅰから1点である。まず、SB150の柱穴mと言っても、その掘方か抜取りかが明記してないので解釈が難しいが、図16(p.21)をみる限り、後者の可能性が高く、第5章のまとめの段階(p.88)になって初めて「抜取痕」と記している。その場合、建築群の廃絶期に古い瓦が混入したことになる。この場合、厳密にいうならば、どの建物で用いた瓦か分からない。一方、仮に掘方からの出土なら、すでに竣工していたSB140に使用された(あるいは使用予定だった)軒瓦がSB150の柱掘方に混入したと考えられる。南側の排水溝SD034は南面の掘立柱列SC180からやや離れた位置にあって、「SC180の雨落溝ではない」としているので、ここに投棄された6711B型式軒平瓦や西大寺系の瓦は当然のことながら、SB140で使用された可能性を否定できない。さらに、北東の整地土Ⅰについては、掘立柱塀SA170の地盤をつくるための客土層、つまりSA170が完成する以前に造成された地盤であり、すでに竣工していた(あるいは建設中の)SB140の軒瓦が混入したと考えるほかなかろう。
 ここで遺物の出土分布を振り返ると、SB140周辺では「皆無」であり、小型瓦は南区北半の囲繞施設に10点ばかりがほぼ集中、軒瓦はむしろ南半の排水溝SD034や北西の整地土Ⅰで多くみつかっている。この状況を冷静に捉える場合、円形建物SB140に葺かれた瓦は小型瓦とも標準サイズの瓦とも判断しがたい。にも拘わらず、報告書ではSB140は小型瓦で葺かれ、標準サイズ瓦は囲繞施設の甍瓦だとしている。しかし、すでに述べたように、年代の最も古い6711B型式軒平瓦は建築工程からみてSB140に用いられたとみるべきであり、一方、囲続施設の北半に集中する傾向にある小型瓦こそ甍棟に使った可能性があるだろう。あるいは、東側の掘立柱塀SA170のほぼ中央に設けた可能性がある棟門(東門)用の葺材かもしれない。
 それにしても、「(軒平瓦6711B型式)の瓦は1981年調査区では全く出土していないこともあり、方形囲繞に使われていた可能性が高いものといえる」という一文には驚かされる。前半の「軒平瓦6711B型式の瓦は1981年調査区では全く出土していない」事実と後半の「方形囲繞に使われていた可能性が高い」という推測の因果関係が全く認められないからだ。1981年調査区の瓦を分析した(2)の結果として、「この小型瓦については《略》明快な回答は示されていなかったが、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SB140の上層に葺かれた可能性を想定することとなった」とある指摘も同様で、1981年調査区と同じ小型瓦がみつかった事実とそれがSB140に葺かれていたという推測の因果関係を微塵も説明できていない。
 くどいけれども、6711B型式の軒平瓦は、その年代観と工程のプロセスから判断して、円形建物SB140に使用したと考えるべきである。そして、その後、765年に創建される西大寺の瓦(おそらく八角七重塔用に準備した瓦?)が「差し替え用で搬入された」という理解には納得できるのだが、割熨斗と推測される瓦がいくつか出土しているので、軒丸瓦・軒平瓦は「(囲繞施設の)屋根の甍にのみ使用されていた」という考えには賛同できない。軒瓦の年代観が囲繞施設と合わないだけでなく、単廊の甍棟としてこれらの瓦は大きすぎるのではないか。むしろ小型瓦こそが甍棟にふさわしいように思われる。こうした甍棟説は、出土する瓦の量が著しく少ない遺跡における常套解釈だが、菅原遺跡南区は円形建物の基壇土が消滅してしまうほどの削平を受けており、旧地表面と遺構検出面のレベル差は相当あるだろう。結果、遺物包含層・整地層も広く残っていないのだから、瓦ほか遺物全体が少ないのは仕方ないことであり、そういう状況のなかで、11点しか出土していない小型瓦をSB140の葺瓦とみなすのはあまりにも無謀であり、論理に飛躍がありすぎる。
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批評-小型瓦は方形基壇建物の所用瓦である

 続く項目は以下の二つの部分だが、実際には一つの考察だと言ってよい。これは何なんだ。この粗削りで重複の多い舌足らずの考察は学生の卒論なのか。卒論を報告書に転載することは全然わるいことではない。かくいう私どもも研究室に在籍した多くの学生の卒論・修論をもとに40冊以上の報告書を世に送り出してきた。ただし、その場合、編者は骨を折る。粗削りで舌足らずの論考を人前に曝すには、編者(指導教員)が精魂込めて校閲を繰り返さなければならない。はたして、下の2項はそうした磨きを経たものであろうか。正直、何が言いたいのかよく分からないのだけれども、評者なりに要点をまとめてみよう。

報告書 第4章第2節 出土瓦の検討
1-(3)平城京右京三条三坊八坪出士瓦類
2. 出土瓦の相関関係 
 
 1)菅原遺跡1981年調査区でみつかった小型の軒丸瓦6299A-軒平瓦6765Aのセット、超小型軒平瓦6681S型式と軒平瓦6711B型式が、菅原寺に近い平城京右京三条三坊八坪で出土している。これらは室町時代の屋敷地の井戸枠などに転用されたものが多く、距離的には近いが、時間的な隔たりは大きい。
 2)平安時代初頭までは菅原遺跡で維持されていた堂舎が、ある段階で移転し、そこに葺かれていた瓦が室町時代の屋敷地の井戸枠などに転用されたと考えるべきだが、その移転先は近隣の菅原寺ではないか。
 3)菅原遺跡2020年調査で検出した方形囲繞施設は丁寧に柱を抜き取って埋め戻されているので、平安時代以降におこなわれた移転のための造作と推定される。

 まず、同型式の瓦、とくに同笵の瓦をただちに建物の「移転」に結びつける発想を改めたほうがいい。少なくとも、①同型式の新瓦を制作し別の敷地で新しい建物に使った、②古い瓦を別の敷地に持って行って新しい建物に転用した、③古い瓦を建物ごと移設した、という3つのパターンを想定すべきであろう。たとえば、藤原宮の大極殿や朱雀門は平城宮に瓦ごと移築されたのか、新築されて藤原と同型式の瓦を葺いたのかを厳密に証明するのは難しい。そういう問題を、小型瓦を素材にしてこねくり回している。この操作が、円形建物SB140の屋根葺材と関わるなら傾聴に値するけれども、筆者が注目しているのはむしろ方形囲繞施設であり、「丁寧に柱を抜き取って埋め戻されている」と言えるほどの証拠が揃っているか疑問である。そもそも、掘立柱の柱根は根腐れするので、簡単に転用できるものではない。一つだけ評価できるとすれば、以下の部分であろう。

  1981年調査でまとまって出土した軒丸瓦6316M-軒平瓦6710Dのセットは、
  (平城京右京三条三坊八坪でも)今回の調査でも出土しておらず、
  1981年調査の基壇建物の所用瓦であると考えられる。

 このとおりであろう。1981年にみつかった方形基壇建物跡に小型瓦(や隅切瓦)が使われたと考えるのが自然であり、
赤字部分保留中(考察中)

およそ50mも離れた円形建物SB140の葺材とするのは尋常な発想ではない。本報告書にかくもまともな見解が示してあることに驚き、喜んだ。この方形基壇建物は、私見ながら、小振りの木造層塔であり、方形屋根を複数積層させていたものと思われる。それで、小型の鬼瓦が6点出土している点も説明できる。稚児棟など必要ない。ただし、以下の部分はやはり理解に苦しんだ。

  一方、1981年調査では1点も出士していない軒平瓦6711B型式は今回の
  調査で4点出土し、これが平城京右京三条三坊八坪からは1点ではあるが
  出上している。以上を勘案すると、1981年調査で検出された基壇建物は
  移築されることはなかったと考えることができる。

 軒平瓦6711B型式が方形基壇建物の移築と何の関係があるのだろうか。6711B型式の軒平瓦は囲繞施設の甍棟に使われていて、そのうちの1枚が(菅原寺経由で)右京三条三坊八坪までもってこられたと言いたいのだろうか。だとしても、「基壇建物は移築されることはなかった」と言い切る論理がわたしには分からない。この節の執筆者の歴史観に倣って、瓦と建物を直結させて強引に「移設」を想定するならば、以下の憶測に至る(評者の本意ではない)。

 ①小型瓦で葺かれた方形基壇建物(1981年発見、評者の推定では木造層塔)は、平安時代に長岡院で解体され菅原寺に移設され、室町時代に廃絶したが、菅原寺に近い右京三条三坊八坪の屋敷地で瓦が井戸枠などに転用された。
 ②6711B型式の軒平瓦を使った円形建物(2020年発見、行基の供養堂)は、平安時代の初期に長岡院で廃絶し菅原寺に移設されたが、室町時代に廃絶した。その後、右京三条三坊八坪の屋敷地で瓦が転用された。
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 以下は報告書原文。

(3)平城京右京三条三坊八坪出士瓦類 pp.79-82
 菅原遺跡から東に約1.3kmの平城京右京三条三坊八坪の調査(257-1次)では同笵の瓦が複数出土している(奈良市1994)。ここでは1981年調査時に出土した小型瓦のみならず、超小型瓦も出士しており、密接な関係を示唆するものである。この調査では瓦類が整理箱で45箱分出土、菅原遺跡と同様の小型軒丸瓦6299AはSE206掘方とSE207井戸枠抜き取り穴から1点ずつ出土している。小型軒平瓦6765A型式はSE206枠内から2点、SE206掘方から13点、 SE207井戸枠抜き取り穴から4点、SD208から2点、SD210から1点、遺物包含層から1点出土している。また、菅原遺跡と同笵の小型の鬼面文鬼瓦の下顎部分の小片がSE206掘方から出土
している。また、超小型軒平瓦668IS型式も出土しており、当該資料には顎部に朱線が確認される。
 出土遺構はいずれも室町時代の屋敷地に関係するものであり、瓦の生産年代と埋没年代には 500年以上の隔たりがある。室町時代に至っても、菅原遺跡で用いられていた奈良時代の瓦が埋没することなく転用可能な状態であったことを考えると、菅原遺跡の来歴を考える上でも重要な成果であるといえる。

2.出土瓦の相関関係
 菅原遺跡で出土した軒瓦の同笵品を相関図(図69)にまとめるとともに、平城京内における出土分布を図70 • 71に示した。出土点数が1、2点のものもあるが、ここでは比較的まとまって出土しているものを中心に遺構の在り方と合わせて現状での考え方を整理しておくことにしたい。先に記したように菅原遺跡から出土する軒瓦のうち、小型の軒丸瓦6299A-軒平瓦6765Aのセット、超小型軒平瓦6681S型式と軒平瓦6711B型式が平城京右京三条三坊八坪で出土している。これらは室町時代の屋敷地の井戸枠などに転用されたものが多く、距離的には1.3kmではあるが、時間的な隔たりは大きい。室町時代の段階に菅原遺跡に遺留された瓦が500年以上も埋没することなく残っていて、それをそのまま転用したとは到底考え難く、平安時代初頭までは現地で維持されていた堂舎がある段階で移転し、そこに葺かれていた瓦が井戸枠などに転用されたと考えるのが穏当である。その場合、室町時代の転用時にわざわざ遠隔地の瓦を用いたとは考えにくいので、近隣に移転先が存在した可能性が高いものと憶測する。すでに報告してきたように、今回の調査で検出した回廊と塀、建物はいずれも丁寧に柱を抜き取って埋め戻されていることが判明している。これは平安時代以降のある段階において行われた移転のための造作であった可能性もある。
 平城京右京三条三坊八坪から出土する同笵瓦をみると、1981年調査でまとまって出土した軒丸瓦6316M-軒平瓦6710Dのセットは出土していない。この軒瓦のセットは今回の調査でも出土しておらず、1981年調査の基壇建物の所用瓦であると考えられる。一方、1981年調査では1点も出士していない軒平瓦6711B型式は今回の調査で4点出土し、これが平城京右京三条三坊八坪からは1点ではあるが出上している。以上を勘案すると、1981年調査で検出された基壇建物は移築されることはなかったと考えることができる。一方、今回の調査で検出した方形囲繞施設は、その重要性ゆえに平城京右京三条三坊八坪に隣接する菅原寺付近に移されたのではないだろうか。

まとめにかえて
 1981年の菅原遺跡の調査ののち、1992年の平城京右京三条三坊八坪の調査で室町時代に転用された同笵瓦が確認されるという重要な調査成果が報告された。そして、2020年、今回報告の対象としている新たな発見があった。実に40年の時を経て、少しずつ検討材料が蓄積されてきているが、いまだ菅原遺跡の終焉から室町時代屋敷地での瓦転用までの500年以上の時閻を埋めるためのピースが足りていない。菅原遺跡が『行基年譜』に菅原寺の西の岡にあったと記された「長岡院」の有力候補地であることはもはや動かない。今回の調査で検出した方形囲繞施設の移築先としては、行基入滅の地であった菅原寺(喜光寺)がその候補地となると憶測するが、この点については今後の調査に期待したい。《続》


《連載情報》 菅原遺跡報告書批評のための習作
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2684.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2706.html
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(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2714.html
(6)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2737.html
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(9)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2740.html
(10)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2741.html
(11)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2742.html
(12)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2743.html

《関係サイト》
大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討《2023年度卒論中間報告》
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2675.html
行基と菅原遺跡に係る意見交換@松山(8月)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2686.html
寧楽徘徊(Ⅱ)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2704.html

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Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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