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菅原遺跡報告書批評のための習作(10)

 さて、そろそろ第4章第1節「菅原遺跡SB140の復元考察」にメスを入れよう。復元考察に先立って述べる「1.遺構・遺物の確認と解釈」の部分は、これまで取り上げた報告書の内容と重複するけれども、どちらかと言えば、考察篇(第4章)の方が報告篇(第3章)よりやや詳しく、一歩踏み込んで事実を自分の解釈にひきつけているところも目につく。ときに調査者の意見と反している場合もある。そういう考察は決してわるくはないのだけれども、残念ながら、本書の場合、成功しているとも言い難い。以下、第3章の事実記載と異なる部分に注意しながら、復習の意味も込めて批評する。原文の下線・太字は評者による。
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第4章第1節 菅原遺跡SB140の復元考察

はじめに p.60
 ここでは、円形平面をもつ特異な遺構であるSB140の上部構造を検討する。《略》結論から述べると、内周の円形土坑列を基壇外装とは考えにくいという考古学的成果から、ここではこれを壁下の地覆を受ける地覆石と解釈し、円形平面の壁体を立ち上げた。その内部は基壇状に高まって、礎石等が存在したものの失われたと解釈して、屋根をもつ木造の構造体を建ち上げた。そして、 1981年に今回の調査区の南方で発掘調査を行った菅原遺跡(菅原遺跡発掘調査会ほか1982)から出土した小型瓦が、この構造体に用いられた可能性が高いとの解釈から、小型の隅切瓦や鬼瓦を用いる屋根形式を検討した。一方、外周で検出した円形平面をなす掘立柱列は槍皮葺の裳階と解釈し、円形平面の壁体の外側にめぐらせ、全体では多宝塔に似た形状とした。《略》

1.遺構・遺物の確認と解釈 pp.60-65
 内周の円形土坑列  12基の断続的な土坑で、線的な部分もあるので全体では多角形平面になると思われるものの、正多角形にはならず、略円形の平面と考える。略円形平面の直径は土坑心々で約9.5m。土坑は断続的で、削平により失われた部分もあるが、石材の抜取痕跡がない部分に石材を補足して石材が連続する、という遺構の様相ではなく、当初より断続的に石材が存在する形態に解釈できるという。後述するように、石材の底面の形状を比較的よく残すが、旧地表面は一定程度削平を受けているので、石材の上部が長手方向で大きくなって、石材どうしの間隔が検出した土坑の間隔よりも狭まる可能性はある。土坑の幅はおよそまとまっており、平均約70.5cm、深さは最も深いAc(図11)で18.3cm、平均は13cmであり、旧地表面が削平されていることを考えると、やや深く据え付けられていたことになるようだ。凝灰岩片が底面に貼り付いて残る部分があり、凝灰岩が用いられていた可能性が高い。
  土坑の壁の立ち上がりはほぼ垂直になるといい、石材底面の庄痕をおよそ残すよう、丁寧に抜き取られている。抜き取った方法は、石材の周囲を掘り込むのではなく、石材を回転させるなどした様相と解釈できる。すると、一定程度の高さをもつ石材であったと考えられる。また方形石材の上に長方形石材を重ねたと解釈できる部分(Aa・Ab)があり、また147゜前後の角度の角をもつ痕跡がある(Aj)。以上のような検出状況から、内周の円形士坑列の性格は、基壇外装の抜取痕跡ではなく、幅をある程度そろえながらも、さまざまな形状・長さの石材を埋設した内護列石のような機能と推定されている(18頁)。
 以上から、これは基壇外装ではなく、壁受けの地覆を受ける地覆石と解釈した。これらが旧地表面からどれくらいの深さに据えられたかは明確でない。土坑の間隔が空く部分は、ここに乗る石材の間に土を入れて安定させていたか、石材が一定程度埋まっていたと解釈できるという。一方で、後述する外周の掘立柱穴の残存状況から、大きく削平を受けたわけではないこともわかる。また、円形土坑列の内部には木造の構造体を支持する柱が立つ礎石などが据えられていたと考えられることから、据えられた列石群はやはり一定程度の高さをもつと考えるのが合理的である。ここでは、石材は旧地表面から20cmほど埋め、さらに、旧地表面から40~50cm内部を高めたと解釈した。このとき石材の高さは60~70cmとなるため、上下には2石以上積んだと推定する。石材は石垣のような密度で据えられているわけではないため、外側に横転しないよう、また間隔の空く石材の間を土で埋めた状態では、土が流れて石材が不安定になる恐れがあることから、石材の外側は、石垣状にせず、旧地表面上に亀腹状に盛土して列石の大半を埋めたと考えた。
 一方、石列底部の形状を残しており、石材側面の立ち上がりの痕跡が認められることから、比較的丁寧に石材が抜かれていることがわかる。後述するように、葺かれていた小型瓦も、この建物の解体にあたって下ろされ、保管されていた可能性がある。このように、後世の削平はあるものの、この建物は創建後朽ち果てるまで存続したわけではなく、一定程度の時間を経たのち、丁寧に解体され、少なくとも瓦などは保管され、後世に転用されたらしい。《以上、原文圧縮》
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批評-「壁下の地覆を受ける地覆石」とは何か

 第3章第2節の記載と異なるところを2ヶ所指摘しておく。まず「凝灰岩片が底面に貼り付いて残る部分があり」(p,66最下行)という表現が第4章で初見する。後続の「石材底面の庄痕をおよそ残すよう」とも関連する。第3章では「底面は若干の起伏はあるものの比較的平滑なものが多」く、「埋土中から《略》微細ながらも凝灰岩の破片が出土している」という記載であり、「凝灰岩片が底面に貼り付」くとは一言も述べていない。さらに気になる違いは、以下。

 第3章 当該土坑列の内側からは柱穴などの痕跡はまったく検出されていない。
 第4章 円形土坑列の内部には木造の構造体を支持する柱が立つ礎石などが据えられていたと考えられ

 第3章は事実として正しい報告であり、これにより土坑群は大壁の基礎になりえないことを連載7で指摘した。第4章の表現は事実記載ではなく、執筆者の希望的観測にすぎない。希望を表明するならば、柱を立てる礎石をどこにどのようにして据えたのか、仮説的にでも示すべきだが、いっさい表明していない。凝灰岩を礎石にするのは柔らかすぎる。凝灰岩の切れ目に硬い礎石(暗礎)を据えた痕跡が残っていなければ説得力はない。幅70㎝の土坑に礎石を据えて柱を立てていたならば、その痕跡が残らないはずはない。いくら寛容にみても、構造体となる大壁が基壇端にあったとは考え難いのである。
 それにしても、反復して用いられる「壁下の地覆を受ける地覆石」という表現は理解し難い。これに関連して、

 第3章 Aa、Abは長方形土坑の短辺底部にそれぞれ隅丸方形土抗が穿たれており、方形石材の上に長方形石材を埋設した可能性が考えられる。
 第4章 また方形石材の上に長方形石材を重ねたと解釈できる部分(Aa・Ab)があり、

とあるけれども、やはりイメージし難い。旧地表面の削平が激しい状態で、「方形石材の上に長方形石材を重ねた」状態が本当に読み取れるのか、疑問に思う。この2段重ねの切石のうち上側を「壁下の地覆」、下側を「地覆石」と呼んでいるのであろうか。間違った理解なのかもしれないが、評者が間違っているとしたら、判読しにくい文章自体に問題がある。
 ともかく、元文研は環状土坑列を基壇外装にしたくない。その結果、「石材の高さは60~70cmとなるため、上下には2石以上積んだと推定する。・・・《略》・・・石材の外側は、石垣状にせず、旧地表面上に亀腹状に盛土して列石の大半を埋めた」という長々しい解説に終始し、理由をこねくり回している。お疲れ様です。ご苦労さま。まずこういう基礎の作り方をする類例があるのか問いたいが、おそらくないであろうし、苦労して長々と説明したところで、結果として、凝灰岩の積み重ねは基壇外装になっていることに気がついているだろうか。なにより、こうして複雑な構造を考えても、基壇端の位置に構造体としての大壁をつくることはできないのだから、この遺構解釈の基礎段階ですでに復元構想は破綻している。
 切々の環状土坑列は、後世の激しい地表面削平に影響を受け、南半では断続的配列となり、北半はほぼ失われたとみなせば、多角形基壇の地覆系基礎とみることができる。それで普通に基壇上に建物を構想できる。ただし、その建物は奈良時代にふさわしいものではならない。


 外周の掘立柱 15基が直径14.7mの円周上に配置されており、およそ正十六角形をなす。中心からの角度は22.5゜と正確に円周を16等分するというが、図13をみると、柱痕跡は必ずしも16等分の位置にはないことがわかる。また、掘方は中心に向かって長いので、円弧方向の位置はおよそ決めたが、直径方向には柱の据える位置を動かせるよう、掘方の範囲内での柱の位置の移動は許容できたらしい。
 一方、先述した内周円形土坑列との対応は、放射状の位置関係として対応する部分もあるが、そうでない部分も多く内周と外周が一体的に考えられたわけではなさそうである。ここから、内周円形土坑列と外周掘立柱には、設置に時期差を想定することも不可能でないが、遺構からは明確な証拠を提示できない。ここでは一体の建物を構成すると考えた。柱穴の深さは最大65cm、平均31.4cmで、柱痕跡の直径は最大20cm、最小12cm、平均17cmである。後述のように、回廊SC160および北側建物 SB150の柱痕跡の平均が、それぞれ約37cm、約43cmであることを勘案すれば、この柱の太さはあまりに小さい。しかし、掘方は平均で30cmを越える深さがあり、しつかりと据えられている感がある。回廊という簡易な上部構造をもつ建物の柱に比べても細いという事実は、この柱が本格的な建物の上部構造に関わるようなものではないことを示唆している。
 こうした点から、この遺構からなる建物は、内周円形土坑列と外周掘立柱のみで構成されたものではないと考えられる。すなわち内周円形士坑列の内側に、削平された基壇や礎石などを想定する必要がある。そうしたこの建物の本体(内周円形土坑列とその内部に設けられた礎石建ち小型瓦葺の構造体。ここではこれを「主屋」と仮称する)に対し、外周掘立柱からなる上部構造は、補助的な役割を担ったものと推定される。《以上原文》
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批評-内周と外周の似非弁証法的混乱

 内周土坑列と外周掘立柱列の関係についての記載に矛盾がある。以下の部分である。

  (両者)の対応は、放射状の位置関係として対応する部分もあるが、そうでない部分
  も多く、内周と外周が一体的に考えられたわけではなさそうである。ここから、内周円形
  土坑列と外周掘立柱には、設置に時期差を想定することも不可能でないが、遺構から
  は明確な証拠を提示できない。ここでは一体の建物を構成すると考えた。

 何ですかね、この文章は。「内周と外周が一体的に考えられたわけではなさそうであ」り、「設置に時期差を想定することも不可能でない」が、「遺構からは明確な証拠を提示できない」ので、「一体の建物を構成すると考えた」。これをさらに圧縮すると、「一体的に考えられたわけではなさそうだ」が、「一体の建物を構成すると考えた」。弁証法ですか、悪多汚過ですか。それにしても、「遺構からは明確な証拠を提示できない」の一句には笑うしかない。明確な情報がないのに、憶測につぐ憶測を積み重ね、歴史を捻じ曲げているのはどこのどなたか。

批評-小型瓦も隅切瓦も鬼瓦も円形建物とは無関係

 ここまでの文章でも、円形建物SB140の葺材は小型瓦だとしているが、小型瓦は1981年発見の方形基壇建物(おそらく木造層塔)に使われたものであり、2020年度調査区におけるわずか11点の出土状況をみても、むしろ方形囲繞施設(の北半)と係りが深く、年代観と伽藍造営プロセスから判断して、SB140の当初葺材は6711B型式の軒平瓦と考えるべきである。小型瓦は、本章第2節で執筆者が述べているように、方形基壇建物の所用瓦であって、小型の隅切瓦も鬼瓦6点も、おそらく二層以上あった方形基壇建物の宝行(方形)屋根に使ったとみれば、なんの矛盾も生じない。自ら関与した平城宮第一次大極殿で否定した稚児棟を採用するなど常軌を逸している、しかも、稚児棟の根拠は「敦煙莫高窟の初唐期以後の壁画に描かれた建物には、稚児棟を比較的多数認めることができる」ことだというのだから呆れてしまう。東トルキスタンの東端というべき甘粛省敦煌の壁画に描かれていれば、その文物は日本に存在すると思い込んでいる。執筆者の歴史観の粗雑さを露呈した思考というほかない。ついでに述べておくと、その敦煌壁画を説明した註1)では、「《略》筆者も2019年に現地で比較的多数描かれているのを確認した。現地では壁画の写真撮影は禁じられているため、公刊本で探すしかないが、公刊本は建物の細部を見きわめにくい」とある。これでは何の根拠にもならない。そもそも「多い」とはどれほどの数量を言うのか。
 小型の隅切瓦を使ったのは方形基壇建物であり、その屋根が方形(宝行)であったわけで、円形建物SB140に方形屋根がかかっていた証拠は微塵もない。これは何度でも強調しておく。基壇端の円形大壁に続いて、方形屋根までも根拠皆無なのだから、「机上の空論」は机さえ失って、ただの「空論」となり風に舞っている。これ以上の検討すら必要ないのかもしれない。以下、遺物に係わる原文。太字・下線は評者による。
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 出土遺物 外周柱穴から瓦の細片がわずかに出土しているものの、この建物の上部構造に直結する出上遺物かは検討を要する。次節79頁で述べているように、1981年の奈良大学の調査で出土した小型瓦が、現時点では、この建物に用いられていた可能性が高い。そこでは少数ながら隅切瓦が出土している。ここから、隅棟をもつ屋根形式であったことがわかるが、隅切りの角度は略45゜であり、正方形平面の屋根をもつ上部構造であった可能性が高い。
 一方、この小型瓦には鬼瓦6点が含まれている。正方形平面の屋根であれば、最低4つの鬼瓦が必要となるが、その数を超えている。このため多重塔の可能性も否定できないが、瓦葺の多重塔と円形土坑列の上部構造(円形平面の壁体)が整合するとは考えにくかったため、ここでは多重塔とは考えないこととした。したがって、単層の屋根に4つ以上の鬼瓦を用いる形式として稚児棟をもつと考えた。この場合、単層の屋根では8つの鬼瓦を用いることとなるが、そのうち6つが見つかっていることとなる。なお、奈良時代前半に日本で稚児棟が存在した確証はない。しかし、敦煌莫高窟の初唐期以後の壁画に描かれた建物には、稚児棟を比較的多数認めることができる。出土した小型瓦の総数からみて、鬼瓦の出土数の割合が大きいことは否めないが、屋根瓦が下ろされたのち丁寧に保管されていたらしいことから、分類して保管されていたものが比較的一括して出土したものと解釈する


《連載情報》 菅原遺跡報告書批評のための習作
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《関係サイト》
大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討《2023年度卒論中間報告》
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2675.html
行基と菅原遺跡に係る意見交換@松山(8月)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2686.html
寧楽徘徊(Ⅱ)
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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