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菅原遺跡報告書批評のための習作(15)

第4章第1節 おわりに pp.71-72


批評-建築にならない復元案

 また同じことが書いてある。誤認識もいっそう露わだ。たとえば、「内周円形土坑列上には、筒状に壁体が立ち上がるが、柱をもたずに地覆上に下地を立ち並べる壁構造と考えた。渡来系氏族の居住地で発見される、いわゆる大壁造りの住居と同様のものである」。ここで大壁構造に初めて「渡来系氏族の居住地で発見される」という枕詞をつけるが、類例を一切示していない。少し資料を集めれば、渡来系氏族の住宅で用いられる大壁(連載1)は、深い溝状地業の中に多数の杭を打ち込んだものであることは分かるはずだから、資料を見ずに推測でこのような書き方をしているのだろう。SB140の場合、円形土坑の底辺に凝灰岩粉が貼り付いて残っており、杭列・柱穴・礎石据え付け痕跡は検出されていないのだから、大壁の地下遺構ではありえない。基壇端の円形大壁という未だ見ぬ構造を妄想しても、それが存在した根拠はなく、仮に存在したとしても、凝灰岩基礎の大壁は本体と裳階(土庇)をつなぐ構造壁にはなりえない。この段階で、元文研復元案は建築的に成立しえないことを、すでに何度も述べた。
 基壇上に12本の柱を立ち上げる平面は、桃山時代の慈光寺開山塔に古式を認め倣ったものである。それは「初現形式」というほどのものではなく、空海帰国後のある段階の形式であり、奈良時代に遡る証拠は皆無である。内側の円形に並ぶ柱列と平行関係にある基壇端の大壁は存在しえないし、「裳階」と位置付ける16本の外周柱列も決して金剛峯寺大塔図のような正方形ではない。どこを探しても、多宝塔との類似点は確認できず、それ以前に「建築にならない」事実を報告書で告白したようなものである。

批評-研究は多数決ではない

 さて、「発掘遺構や出土遺物からできる限りのヒントを得られるよう、発掘担当者とも議論を重ねて得た成果である」という釈明文は、読者を納得させようとしてアピールしたものだろうが、危険な匂いがプンプンする。第5章の「おわりに」(p.92)でも、「(SB140の)構造復元については、現状で利用しうる限りの情報を用いて、関係者間で何度も検討を繰り返した」ことを強調している。遠く離れた旧調査区で出土した小型瓦がSB140に用いられたというのは、事実ではなく、調査担当者の大胆な解釈にすぎない。2020年度調査区の瓦出土状況をみれば、SB140と小型瓦の関係は希薄であり,小型瓦をSB140の所用瓦とみなす根拠にならないのは自明である。ただ、調査担当者が「小型瓦を使った」と思い込んでいるから、建築復元担当者もそうだと考えただけのことである。大勢で議論を重ねたと言っても、おそらくEとMとSとHの4名の合意であり、その4名が集団として間違った方向に歩んでいったのだと私は思っている。研究は多数決ではない。反論者がわたし一人だとすれば、4対1で多勢に無勢だが、研究という世界では少数意見が真実に近いことはしばしば起きる。初めは狂気かぼんくらだと思われていたアインシュタインにしても、相対性理論の発見により一瞬にして評価は覆った。もう一言反論しておくと、多勢に無勢のようにみえて、逆に私の回りでは、この報告書を読んだ考古学のMもSもKもHもみな多宝塔案には否定的である。建築史のKやO、YもNもMも「奈良時代にこんな断面あるはずない」「基壇端の大壁などありえない」「建築にならない」等と口を揃える。関係者全員で考えたという背景が、正しい考察・結論に至らなかった代表例の一つとして今後語り継がれるかもしれない。
 最後の一文「建築史的に見ると、その構造や年代に、やや唐突の感は否めない。鎌倉時代より古い宝塔や多宝塔の現存建築がないなかで、その初現的な形態について、今後のさらなる研究の深化に期待したい」についても一言。やや唐突どころの騒ぎではない。これほど唐突で非論理的な建築史学的妄想にお目にかかることは珍しい。平城宮第一次大極殿院東楼を寄棟屋根にした考察(連載3)を凌ぐほどの作為に満ちた捏造的論考である。その根幹にあるのは「知識のなさ」であり、それがここまで結論をねじ曲げているのだと思う。そもそも菅原遺跡SB140を宝塔・多宝塔系とみなすのが誤りであり、その「研究の深化」がここから進展するとはとても思えない。すでに終わっている。 以下、原文。下線評者。
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おわりに
 以上 SBI40の遺構の特徴を確認したうえで、上部構造を検討してきた。その結果、多宝塔に似た形式に復元するのが最も妥当であると考えた。ただし、その構造は、現存する多宝塔には見られないものである。その特徴を掲げてまとめとしたい。遺構で確認した内周円形土坑列上には、筒状に壁体が立ち上がるが、柱をもたずに地覆上に下地を立ち並べる壁構造と考えた。渡来系氏族の居住地で発見される、いわゆる大壁造りの住居と同様のものである。そしてその内部に、地盤面から立ち上がる12本の柱が三手先の組物を備えた構造体を支持して 屋根をかけた上層を造る。この内周円形土坑列の壁体上部と上層軸部とを支輪状の天井でつないで、下層の主屋を形成する。これらは木造宝塔の実例である慈光寺開山塔の構造に古式を認めて倣ったものである。ここまでで宝塔の基本的な形態を形成する。上層は方形平面の瓦葺で、出土瓦から通常より小さいサイズの瓦を用いる。鬼瓦の出土数から稚児棟をもつと考えた。
 さらに外周の掘立柱列には径17cmの掘立柱を立てて桁をまわし、前述の支輪状の天井上から外周掘立柱上の桁に垂木を渡して檜皮葺の屋根を葺く。下層を掘立柱としたのは、内周円形土坑列上に形成された壁体が大壁構造であることから、繋梁を入れづらいためと解釈した。こうして形成された下層の展根は平面十六角形をなし、宝塔の下層軸部にかかる裳階として機能する。全体を見ると、平面は、内部12本の柱が平面円形にめぐり、その外側に円形の壁体をもち、さらにその外側に平面略円形(十六角形)に16本の掘立柱がめぐる構造となる。この形式は、形状にやや違いはあるものの、『高野春秋編年輯録』に載せる金剛峯寺大塔の平面に共通する部分があり、多宝塔の初現的形態と位置づけることができる。
 類例のない遺構が、特異な立地上に建つSB140の復元を通じ、発掘遺構や出土遺物からできる限りのヒントを得られるよう、発掘担当者とも議論を重ねて得た成果である。これには、慈光寺開山塔と堂庭廃寺宝塔跡の構造が似ていることが大きなヒントとなった。しかし、建築史的に見ると、その構造や年代に、やや唐突の感は否めない。鎌倉時代より古い宝塔や多宝塔の現存建築がないなかで、その初現的な形態について、今後のさらなる研究の深化に期待したい。


第4章 第3節 鉄製円盤の検討(省略)
第5章 調査のまとめ一要点の整理と課題 pp.87-92


批評-SD034は瓦溜り土坑であり、280点もの瓦は回廊に限定されない

 またまた同じ主張の繰り返しである。ただし、文章表現については、第5章の執筆者の方が第4章第1~2節の執筆者より達者だと思う。読みやすくなった。まず「はじめに」「1.囲繞施設について」「2.正面観について」まででは、屋根瓦の問題以外、大きな異論はない。1(2)屋根構造では、「域内南部の排水溝と思われるSD034より瓦が出士しており、回廊には瓦が使用されていたと考えられる。《略》母数が少ないながらも、丸瓦と平瓦の比率をみると平瓦が圧倒的に多く、その中には半裁した平瓦がかなりみられる。これを割熨斗瓦と考えると、檜皮葺甍棟構造と思われる。その場合、軒平瓦は熨斗積みの底部に置かれていた」という点については、すでに何度か批評したが、繰り返し反論しておく。
 南側のSD034は南面囲繞の雨落溝ではなく、排水溝に約280点もの瓦片が投棄された事実上の土坑であり、そこから出土した瓦が推定檜皮葺きの回廊に限定されるわけではない。円形建物SB140の範囲や近隣では出土遺物が皆無であり、SB140に係る遺物もSB340に投棄された可能性は十分あるだろう。というよりも、SD034から出土した軒平瓦6711B型式など行基の没年に近い瓦は建物群の造営工程から考えてSB140で使われたとみなすべきである。平瓦や熨斗瓦が多い点も、SB140が八角屋根で8本の隅棟を備えていたとすれば十分納得できる。回廊等囲繞施設から出土しているのはむしろ小型瓦であり、単廊というサイズを考えても甍棟の材料の可能性があるのはこちらの方であり、東面に想定される棟門の葺き材であった可能性もあるだろう。ともかく、小型瓦をSB140の葺材とみる証拠はなく、ましてや隅切瓦(1981年発見)をSB140方形屋根の根拠にすることはできない。これは何度でも言っておかなければならないことである。以下、原文。下線評者。
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はじめに
 本章では、調査によって明らかになった点を整理し、あわせて本遺跡の造営主体についても検討を行う。なお本章では全体のまとめという位置づけ上、他章との重複もあることを了承いただきたい。

1.囲繞施設について
(1)規模
 本遺跡で検出した囲繞施設は、西面・北面西半を回廊、東面・北面東半を板塀とする。南面は構造が不明である。規模については、中心建物SB140との位置関係から、回廊(SC160)棟通りと塀(SAi70)が設計基準と考えられ、その東西距離は37.8mを測る(図58)。しかし柱間寸法にかなりばらつきがあり、また西北隅には余計な柱穴を埋め戻した痕跡が見られるなど規格性に乏しいことが特徴である。
(2)屋根構造
 域内南部の排水溝と思われるSD034より瓦が出士しており、回廊には瓦が使用されていたと考えられる。ただし掘立柱構造であり、総瓦葺では重量を支え切れないうえに瓦の出士量がそもそも少ない。母数が少ないながらも、丸瓦と平瓦の比率をみると平瓦が圧倒的に多く、その中には半裁した平瓦がかなりみられる。これを割熨斗瓦と考えると、檜皮葺甍棟構造と思われる。その場合、軒平瓦は熨斗積みの底部に置かれていたものと考えられる。

2.正面観について
(I)回廊と中央建物の関係からみえる南正面観
 菅原遺跡を評価するためには施設そのものの正面観を決定することが重要である。まず本遺跡で検出した囲繞施設について、囲繞施設SC160 • SA!70と中心建物SB140の関係を検討する。SC160とSA170の距離はSC160内法の場合、その東西距離は36.5mであり(図57)、この二等分線はSB140中心点とは約1.5m東にずれる。そこでSC160棟通りを基準とした場合は37.8mとなり、 SB140の中心が区画の二等分線(中軸線)と正確に一致する。これに対し南北では明らかに南側が広く、SB140外周掘立柱列と方形囲繞区画内法との間隔は北では14.9mであるのに対して南では19.7mとなる。こうした中心建物の南面が広くなる事例は法隆寺東院夢殿、興福寺北円堂などでもみられ、いずれも南を正面とする場合の配置である。こうしたことから菅原遺跡においても南を正面と考えることができる。
(2)東に対する意識
 上記分析から菅原遺跡の基本的な方位は南北軸線にあると思われる。しかし、本遺跡は南と同時に東方向も強く意識した配置となっている。その根拠を以下に列挙する。
 ①東西で囲繞施設の構造が異なる。
 ②SAl70では柱穴が検出されず、2間分の柱間寸法をもつ箇所があり、これを東門に関連するものと想定している(28頁)。
 ③SB140とSA170の間で検出した東西溝SD020には玉砂利と考えられる円礫が含まれており、これを東側からの参道の南側溝の痕跡と考える(29頁)。
 ④ 1981年調査で検出された建物は、立地からみて西に入り込んだ谷の谷頭で東面していたと考えられることから、両者ともに東面していた可能性がある。
 ⑤ 標高の一致は偶然である可能性もあるが、平城京を挟んで東大寺と対峙する位置関係、さらには、菅原寺・東大寺両者から見える(見わたせる)という景観に意図的なものが感じられる。
 この二方面性について次に二条条間南小路との関係を検討してみたい。
(3)二条条間南小路との関係
 平城京の条坊区画推定に用いられる水田や道路の遺存地割の観点からみると、図1では平城京西京極からSB140に向かって直線的に西へ続く道路がある。この道路は平城京内では二条条間南小路に相当する位置に接続しており、これを積極的に評価すると奈良時代においても二条条間南小路からの道が存在していた可能性がある。従前から指摘されているように平城京内においては河川の改修、付け替えが行われており、菅原遣跡の東側を流下する大池川についても本来は南東方向に流れる流路が二条条間南小路に沿う形で流路が付け替えられている可能性が高い(図4)。こうした想定を元に、具体的に遺構として確認されている二条条間南小路との位置関係を検討してみたい。ただし、右京側における二条条間南小路の良好な検出事例はほとんどない。左京も含めた最も確実な検出例としては、奈良市内侍原町左京二条六坊三~六坪で検出された東六坊坊間西小路と二条条間南小路交差点が参考となる(元文研2009)。ここで検出した交差点中心の座標値はX=- 145,533.11、Y=- 16,062.67である。菅原遺跡で検出した東塀SA1_70の柱間が2間分空く部分の南北中心位置はX=- 145,535、Y =- 21,360であり、両者の位置関係はW-0°l'18'’-Sとなる。入倉徳裕は三条条間路の回帰線をN:O'7'22" -Wと推定しており(入倉2008)、この方位を適用して遺跡周辺における二条条間南小路の位置を推定するとX =-145,544付近(SB140の南端付近)となる。外京域における条坊道路は道路片側割り付けなど振れがあることから(佐藤2022)、正確な数字を導くことは難しいが、ほぼこの円堂のエリア内に二条条間南小路の延長が導かれるとみて間違いない。以上の点から、本遺構は伽藍としては南北軸線だが、二条条間南小路の延長上に位置して東に入り口をもち、非常に東を強く意識している可能性が極めて高い。ただし内部に配置されるSB140は南に前庭的空間を有している可能性が高く、南北軸と東西軸が交錯する方位を有している点に本区画の特殊性がみられよう。


《連載情報》 菅原遺跡報告書批評のための習作
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2684.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2706.html
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(15)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2750.html
(16)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2751.html
(17)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2752.html

《関係サイト》
大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討《2023年度卒論中間報告》
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2675.html
行基と菅原遺跡に係る意見交換@松山(8月)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2686.html
寧楽徘徊(Ⅱ)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2704.html

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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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