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菅原遺跡報告書批評のための習作(17)

第5章4-3.「多宝塔の起源問題」 p.90


批評-大陸の事例をあげ連ねても多宝塔存在の証拠にはならない

 宝塔・多宝塔が奈良時代の日本に存在した理由が、第4章第1節3.と同様の論理で語られる。連載5連載14ですでに批評したように、敦煌莫高窟壁画に一つの文物が描かれている事実と、同時代の日本にその文物が存在した事実は別次元の問題である。本報告書の記載では、敦煌で描かれていれば日本にも存在した可能性が高い、という論調が当たり前のようになっているが、騙されてはいけない。ここでは敦煌以外の事例についてもコメントしておく。
 ①金剛峯寺根本大塔の形式は、空海自身が中国で得た「南天鉄塔」=天竺の塔、のイメージであると考えるのが自然である。《略》7世紀には玄奨三蔵がすでにインドの塔を参拝している。中国においては空海渡唐以前に「天竺塔=円形塔」のイメージが導入されており、8世紀前半の日中交流(あるいは道昭など7世紀の交流)のなかで多宝塔形式が導入されていても問題はない: 【コメント】敦煌壁画の解釈と同じ過ちを犯している。玄奘がインドに行ってインド型の仏塔を多数みた。それで、インド型の仏塔が西域や長安に建設された可能性はあり、それを遣唐使等の留学僧がみた可能性もある。しかし、そのような仏塔が日本に存在したと判断できるだけの証拠はどこにもない。空海が「天竺塔=円形塔」をイメージしたから、高野山金剛峯寺根本大塔(多宝塔という呼称は使っていないので注意せよ!)が建設できるほど気楽なものではなく、たとえば密教の本場、長安青龍寺あたりから工人を招聘しなければ、あのような大がかりで複雑な構造の仏塔を建設することはできなかったのではないか。あるいは帰国時に恵可が空海に授けたマンダラの中に宝塔/多宝塔が描いてあり、それを日本の工人にみせて大塔を建てさせたのか。いずれにしても、密教の奥義を極めた空海だからこそマンダラと大塔の招来をなしえたのであって、それ以前の僧を同等には扱えない。
 一方、行基の場合、周囲から間接的な情報としてインドの仏塔のイメージを植え付けられていたのだろう。直接的参照資料はなかったはずである。そのような条件下で、インド型仏塔を具体化しようとしたのが大野寺土塔であり、その最上層(13層)に円形構造のストゥーパを立ち上げようとしたが、構造・技術的な知識は欠落していたので、自分なりに最上層の円形構造物を考えたのではないか。その結果、塔の構造は土盛りに瓦を直葺きとする素朴なものになったと推定できる。少なくとも、大野寺土塔では最上層で検出している柱は心柱跡のみであり、4本柱の痕跡はないので、方形屋根で伏鉢を覆うことはできない。その屋根のない姿を想像するならば、平安初期の大塔、それ以降の多宝塔とは大きく構造を異にするものである。宝塔・多宝塔の「初現形式」という用語をどうしても使いたいなら、それは土塔最上層の構造物にふさわしいと思われる。
 ②『四分律』巻52には舎利弗・目連の舎利塔を「四方作若円若八角形」と規定しており、円形塔のイメージは戒律の中にも見いだせる。《略》行基の師、道昭とともに7世紀に中国へ留学した道光によって、四分律の研究書である『依四分抄撰録文』が著されており、道光帰国後の天武朝段階において戒律の研究が行われていたと考えられる(直林1990): 【コメント】「四方を作るに円のごとし、八角形のごとし」と読むのであろうか。釈迦の十大弟子であった舎利弗と目連の墓塔がインドにおいて、円形もしくは八角形であった、ということだろうが、サーンチのストゥーパをみれば明らかなことではないか。あえて日本に置き換えるならば、前期難波宮で正八角形の遺構(楼閣跡?)がみつかっているわけだから、7世紀の寺院に八角円堂があっても不自然ではないが、円形の建物はみつかっていない。円の代替として八角形が重用され、「八角円堂」と称するのであって、『四分律』巻52は7世紀の日本に円形建築が存在した証拠になりえない。天武朝に『四分律』の研究がおこなわれていたことと、円形の建物が存在したことは別次元の問題である。以下、原文。下線評者。
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(3)多宝塔形の起源問題
 今回の復元では多宝塔の形状が最も有力という結論を得た。しかし、多宝塔の形状が奈良時代にありえるかという疑問は残る。現存する最古の多宝塔は建久5年(1194)創建の滋賀県石山寺多宝塔であり、現存資料からは平安時代後期を遡るものは確認できない。記録上は最古の多宝塔として和歌山県高野山金剛峯寺多宝塔がある。これは空海が真言曼荼羅の塔(毘盧遮那法界体性塔)として考案したもので、創建大塔の型式は不明だが、『高野春秋編年輯録』所収の康和5年(1103)再建の二代目大塔の記録に創建期大塔が「高さ 16丈、方5間で広さ8丈の裳階水輪柱12本、母屋内柱12本、仏壇柱4本」を有していた記録があり、創建大塔が上層円形、下層内陣円形、外陣方五間の可能性があるとされている(足立1941、濱島1975)。いずれにしても平安時代をさかのぼる多宝塔形式の塔はその存在を確認できないが、そもそも毘慮遮那法界体性塔としての原型は、龍猛が南天鉄塔から金剛頂経を得たとする『金剛頂経大喩伽秘密心地法門義訣』の情報である(阿部1996、真鍋1983)。
 しかし経典には鉄塔の形状に関する記述は無く、金剛峯寺根本大塔の形式は、空海自身が中国で得た「南天鉄塔」=天竺の塔、のイメージであると考えるのが自然である。敦煌莫高窟第301窟(北周末隋初)、第303窟(隋)、第419窟(隋)壁画には宝塔形式の建築物が描かれているほか(近藤2014、図75)、7世紀には玄奨三蔵がすでにインドの塔を参拝している。中国においては空海渡唐以前に「天竺塔=円形塔」のイメージが導入されており、8世紀前半の日中交流(あるいは道昭など7世紀の交流)のなかで多宝塔形式が導入されていても問題はないだろう。また、『四分律』巻52には舎利弗・目連の舎利塔を「四方作若円若八角形」と規定しており、円形塔のイメージは戒律の中にも見いだせる。受戒作法を伴う四分律の体系的受容は鑑真渡来以降であるが、すでに行基の師、道昭とともに7世紀に中国へ留学した道光によって、四分律の研究書である『依四分抄撰録文』が著されており、道光帰国後の天武朝段階において戒律の研究が行われていたと考えられる(直林1990)。


第5章5.菅原遺跡の造営主体 pp.90-92


批評-西南低地の木造層塔と東北丘陵上の供養堂

 菅原遺跡を『行基年譜』にいう長岡院に比定する考えは大方の支持を得ている。そのなかで1981年調査区の意義が大きいこともたしかであるが、そこでみつかった方形基壇建物跡を「仏堂」に限定する根拠は何なのか。正方形平面の仏堂といえば、ただちに法隆寺金堂が想起されるが、あのような白鳳様式の仏堂が奈良時代中期以降にも平城京に存在したのか、類例があるなら教えていただきたい。天平の仏堂といえば、五間四面等の横長平面が想定されるので、違和感を覚えたしだいである。方形の建物で真っ先に思い浮かぶのは木造層塔であろう。菅原遺跡の方形基壇跡では、側柱礎石据付・心礎据付・舎利埋蔵遺構などはすべてみつかっておらず、掘込地業だけが残っているようだが、平面形から考えると、小ぶりの木造層塔(三重塔?)の可能性があり、伴出した小型瓦・隅切瓦・鬼瓦はすべてこの木造層塔に使ったとみれば納得できる。法隆寺金堂型の方形平面仏堂に拘るにしても、二重入母屋造なのだから、やはりすべての小型瓦・隅切瓦・鬼瓦をここで用いたとみれば何の矛盾もない。要するに長岡院においては、低い西南の位置に木造層塔、小高い東北の丘陵上に供養堂(八角円堂土庇付)を設けていたとみるのが適正な解釈だと私は思っている。

批評-長岡大臣と西大寺八角七重塔

 長岡院の呼称が、長岡大臣と呼ばれた藤原永手に因むというアイデアはおもしろいと思う。行基の死後、ただちに追善供養の施設として長岡院が造営されたというよりも、やや遅れて造営工事に着手した可能性は当然考えなければならない。遺物からみた場合、長岡院の創建年代は745~757年であり、天平神護元年(765)の西大寺創建、翌2年(766)の藤原永手右大臣就任とは時間差があるけれども、長岡院を「四十九院」とは別格の、行基没後に造営された菩提寺とみるならば、西大寺造営にも年代が近づく。少なくともⅢ期からⅣ期に至る年代に造営がひろがるとすれば、菅原遺跡(長岡院)と西大寺の結びつきはより強くなる。さらに長岡大臣永手が西大寺八角七重塔を方形五重塔へ変更した当事者の一人であるとすれば、西大寺系瓦と長岡院の供養堂(八角円堂)の関係はより近しいものとして理解できる。西大寺と長岡院の関係の深さは、SB140の建築形式とも係りがあると私は考える。

批評-行基舎利は生駒山中にあり、長岡院は「多宝之塔」でも「塔廟」でもない

 文暦2年(1235)の行基墓発掘の記録『僧寂滅注進状』(『生駒山竹林寺縁起』)に記載される「大僧正舎利瓶記」は以下のとおり。

  (略)火葬於大倭国平群郡生馬山之東陵、是依遺命也、
  弟子僧景静等、攀号不及、贈仰無見、唯有砕残舎利、
  然尽軽灰、故蔵此器中、以為頂礼之主、界彼山上、以慕多宝之塔
  天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成   

 いまひとつの記録は、嘉元3年(1305)に凝然が著した『竹林寺略録』。文暦2年(1235)、寂滅が行基舎利瓶開掘以前の行基墓について以下のように記す。

  然則勝賓嘉禄、唯建塔廟置舎利

 諸説あるようなので、あまり深入りできないが、以下の点を強調しておく。
 1)行基の墓は生駒(おそらく竹林寺)にあり、その遺灰(行基舎利)を収めた容器は当然生駒山中に埋蔵された。天平21年(749)の行基没年に墓は存在しても、ただちに塔や供養堂が出現するはずもなく、その火葬墓を「多宝之塔」と思って(みなして)供養したと理解できる。この時点では行基舎利に関わる構造物は、墓標を例外として、生駒にも菅原にも存在しなかったはずである。「多宝之塔」「塔廟」はいずれも『法華経』見宝塔品からの引用であり、文言上の修辞に過ぎない。しかも、行基没年の天平21年(749)の認識として、前者は「宝物で飾られた立派な美しい塔」、後者は本来、多宝如来(と釈迦)のご在所というべき施設をさすのであろうが、「塔廟」をどうしても行基舎利と結びつけたいなら、生駒の場合、行基墓とみなすほかなかろう。「多宝之塔」については、空海帰国以後の「大塔」や後の「多宝塔」形式をしていたわけではない。何度も述べているとおり、空海以後の宝塔・多宝塔と空海以前のそれは異なる形式とみるべきで、長谷寺銅板説相図の「多寶佛塔」はその一例である。多寶佛塔は六角三重塔であり、八角円堂が高層化したイメージに近い。
 2)上記二つの文献がいずれも鎌倉時代の執筆であるとすれば、当時(鎌倉期)の生駒山中に多宝塔の類が存在していても不自然ではない。
 3)いずれにしても、行基の墓は生駒にあり、長岡院にあったわけではない。長岡院は行基を追善供養するための施設であり、そこに夢殿に似た八角円堂系の供養堂を置き、回廊等で囲んだと考えられる。ここに行基舎利を安置することはなく、あくまで仏像(毘盧遮那?)を本尊とする供養堂であり、「多宝之塔」でもなければ「塔廟」でもなかった。

批評-多宝塔説は成立しがたいという訂正の発表を!

 「おわりに」の段階になって、少し弱気な姿勢をうかがわせる。「本遺跡の調査ではこれまでに例のない特殊な遺構を検出した。特にその構造復元については、《略》なお異論の出ることも承知である」という部分である。そう思っているのなら、なぜあれほど断定的な報道にしてしまったのか。奈良時代に多宝塔が遡るという確定的な根拠があるわけでは決してない。今回の連載で何度も述べたように、堂庭廃寺宝塔跡(10世紀)や金剛峯寺大塔図と菅原遺跡SB140の共通性すらまともに認められないのに、SB140が「多宝塔の初現形式」と断ずるなどもってのほかである。細かく検証してみると、元文研のSB140復元案は「建築になりえない」レベルであることが判明する。にも拘わらず、学会の審査を経ることもなく、多宝塔だと断定して報道した点、捏造レベルの誤報と批判されてもおかしくない。関係者一同みな反省して、自分たちの考えが早計かつ偏狭で考証不十分であったと認め、「多宝塔説は成立しがたい」という訂正の記者発表を行うべきであろう。
 調査報告書とは、事実記載になにより重きをおくべき刊行物である。その点、味気ない書物の代表格だが、客観的な資料集成こそが優先されなければならないはずなのに、『菅原遺跡』報告書は思い込みの激しい「解釈」や「憶測」に終始している。海外の証拠ををあたかも日本国内の事例のように扱っている姿勢も気になる。一方、事実記載については、掘方(据付け)と抜取り(廃絶)の区別もしていないなどの粗雑さが目立つ。わたしは、この17回の連載を書評の習作として正式な文章に書き改めるが、『菅原遺跡』報告書も、あれは勇み足の習作だったということで、再度刊行しなおした方がよいのではないか。残念ながら、そう進言したくなるほどの出来だと思う。 以下、原文。下線評者。【完】
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第5章5.菅原遺跡の造営主体 pp.90-92

 回廊区画を持つものは官衙、宮殿などの公的施設、寺院および関連施設の二者にほぼ限られるが、独立した回廊区画の中心に堂を配し、付属施設に官衙の要素がみられないことから、官衙、宮に関連する遺構である可能性は極めて低い。また当遺跡北側には称徳天皇御山荘や、藤原武智麻呂習宜の別業など王侯貴族の別業の存在が指摘されているが、今回発見された遺構は、こうした別業とするには規模が大きすぎる。
 南側隣接地における1981年の調査では瓦葺・風鐸を持つ基壇建物が発見されているが、当遺跡はこれらと一体の寺院と考えるのが適当であり、他にも複数の堂舎が存在していた可能性も考える必要がある。この調査で確認された基壇建物が東面していたと考えられるのと同様に、今回の調査で確認された円形建物及びその囲続施設についても東への意識が強く働いており、平城京の西側丘陵から東を望む仏教関連施設が想定できる。
 こうした環境下において、1981年調査の遺構評価は重要である。当該遺跡の報告書中で江浦洋は検出された基壇建物が仏堂であり、その創建が平城宮軒瓦第Ⅲ期の時期であること、周辺に存在が予想される諸施設、諸寺院のなかでも明確に該当するものが見当たらないこと、出土軒瓦の中に平城宮系の瓦があり、大仏造営を契機に行墓が公的援助を受けた事実を念頭に置いた上で、『行基年譜』に記載される「長岡院」に比定した(江浦1982 • 1989)。
 長岡院は『行基年譜』に「長岡院在菅原寺西岡」と記されており、菅原寺との相対的位置関係は合致する。長岡院は行基年譜には「四十九院之外也、不記年号」とされており四十九院から外されているが、これについては『行睛年譜』編纂者である泉高父の史料解釈に過ぎず、本来四十九院に含まれていたとする井上光貞の見解が一般的である(井上光貞1983)。「長岡」の名称については地名から来ると考えることもできるが、長岡大臣と呼ばれた藤原永手の関与を推定する江浦説にも一定の根拠がある。この点について吉田靖雄は、永手が右大臣に就任したのが天平神護2年(766)のことであり、長岡院推定創建年代(745~757)には合わないと指摘する(吉田2013)が、『行基年譜』の末年部分は「年代記」など後世史料を底本としており、766年以降永手の関与を受けて通称名が成立し、それが底本に反映され、『行基年譜』に収録されたことは十分考え得る。菅原遺跡が西大寺所用瓦を用いて改修されていることと、永手が西大寺八角七重塔の四角五重塔への設計変更に関与していることに何らかの関係が見いだせるのか、注意が必要である。
 さて、この長岡院の性格について近藤康司は、出士瓦の年代をⅣ期に引き下げ、その創建が確実に行基没後であるとしたうえで、「東大寺慮舎那仏の完成をみず遷化した行基の菩提を弔うため」と指摘する(近藤2014)。瓦の年代はⅢ期であっても行基没後の可能性があり、年代・立地・構造の点から行基の供養施設という評価について、その蓋然性は高いと言えよう。このように1981年調査検出建物が長岡院に比定でき、その機能が行基の供養を目的としたものであったと考えると、今回の調査で見つかった中心建物は重要な意味を持つ。本報告では中心建物 SBl40について、裳階を持つ円形建物として復元したが、この形状は一般に多宝塔と呼ばれているものである。行基の遷化に関する史料を今一度確認すると、文暦2年(1235)の行基墓発掘の記録である『僧寂滅注進状』(『生駒山竹林寺縁起』(『大日本仏教全書』寺誌叢書3所収))に記載される「大僧正舎利瓶記」には下記の記述がある。

 (略)火葬於大倭国平群郡生馬山之東陵、是依遺命也、弟子僧景静等、
 攀号不及、贈仰無見、唯有砕残舎利、然尽軽灰、故蔵此器中、
 以為頂礼之主、界彼山上、以慕多宝之塔
 天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成 

 この史料の信憑性については多くの論者が史料批判を加えており、特に疑いをはさむ必要はないと考えるが、生馬(駒)山の東陵において火葬された行基の舎利は、蔵骨器に納められて礼拝対象とされた。同時に、「界彼山上、以慕多宝之塔」とされている。これについては「多宝の塔とおもう」ないし「多宝の塔をねがう」とする意見(吉澤2020)、多宝の塔と見倣すとする意見(藤澤1956)、多宝の塔を慕うと読む意見(井上薫1959)など諸説あるが、いずれにしても行基舎利は「多宝之塔」とセットで理解されている。「彼山」を生駒山とするならば東陵に安置された行基舎利は「多宝之塔」に包摂されることとなろう。嘉元3年(1305)に南都の碩学凝然によって著された『竹林寺略録』(中尾2006所収)には、文暦2年(1235)の寂滅による行基舎利瓶開掘以前の行基墓について、「然則勝賓嘉禄、唯建塔廟置舎利。」とし、行基の舎利を安置した「塔廟」の存在を記している。この記述を検証するすべはないが、「塔廟」に舎利を安置していたと記述していることは、行基の「多宝塔」がその遺骨を内包する、仏塔と廟所を併せた「塔廟」であったと当時認識されていたことを示している。そしてこの記述は、行基没時の同時代史料である行基舎利瓶記とも整合することは重要である。ちなみに14世紀前半に描かれた家原寺蔵『行基菩薩行状絵伝』には行基の墓として石造層塔に相対する位置に木造と思われる多宝塔が描かれている行基信仰における多宝塔は、一般に知られる『法華経』由来の釈迦・多宝如来が坐す多宝塔とも、南天鉄塔に由来する真言系多宝塔とも異なった思想のものであり、まさに「塔廟」であったことが指摘できる。菅原遺跡発見の一連の遺構はこうした「塔廟」としての多宝塔であり、まさに行基の供養堂としてふさわしいものと結論づけることができる。

おわりに
 本遺跡の調査ではこれまでに例のない特殊な遺構を検出した。特にその構造復元については、現状で利用しうる限りの情報を用いて、関係者間で何度も検討を繰り返したが、なお異論の出ることも承知である。本来であれば再発掘や景観分析を含めた検証が行われるべきであるが、根本資料である遺跡が失われてしまったことは関係者として慚愧に堪えない。本報告書をもって調査成果の総括としつつも、様々な課題が残されることを指摘して本書のまとめとしたい。


《連載情報》 菅原遺跡報告書批評のための習作
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2684.html
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(18)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2783.html
(19)検索キーワード(まずこのサイトをみて連載の内容を把握してください)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2795.html

《関係サイト》
大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討《2023年度卒論中間報告》
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2675.html
行基と菅原遺跡に係る意見交換@松山(8月)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2686.html
寧楽徘徊(Ⅱ)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2704.html

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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