ドラフ巡礼(Ⅳ)-ブータンの洞穴僧院を往く


ダカルパ-ゲムジャロ寺
ダグツォガン寺を離れ、清流の河原で遅めのお弁当をいただいた。サンドイッチにアップルジュース、ポテト、ゆで卵、鶏の唐揚げ・・・なかなか美味しい。ここにも龍之介があらわれた。
食後、車はティンプー方向に発車。まもなく大きなヘアピンカーヴの道ばたに農民たちが列をなし出店をだしているのがみえた。その市場は山側の畦際にあり、反対側の川に近い平地には版築壁の残骸が立体的な姿をとどめている。ここで停車し、山をみあげると、懐かしいダカルパ寺が視界に納まった。車は車道からそれて舗装されていないでこぼこ山道を少しあがって駐車場に車を停める。
ここから寺まで歩くしかない。ただし、道はなかった。畑地のような山の斜面の土を踏みしめながら山寺をめざす。ブータンに来て初めての山登りであった。若者たちも辛いだろうが、老教授2名からみれば足取りは軽い。二人の歩みは遅かった。年齢と戦いながらの登山であり、わたしに至っては体重との戦いもある。もしも体重が20キロ少なかったら、おそらくこんなに辛い想いをしなくても済むのに。平城ニュータウンのスロージョギングで登り坂を駆け上がるとき、いつもそう思う。ましては登山をや・・・同行した先輩教授は細身の体にして空手道の達人であり、体力には自信をもっているはずだ。おまけに両腕にトレッキングステッキをもって歩行を支えている。しかし、どういうわけか、スピードはわたしが先輩を上回った。

山肌を歩くのは途中までで、寺に近づくと山道があらわれる。その道はおそらく麓の市場あたりにつながっているのだろう。そこから歩くよりたしかに山肌を登るほうが早いし、疲れないだろうと思った。境内の境界に木柵があり、その内側にチベット式のチョルテン(ストゥーパ)が建っている。境内の主要な施設はそこからほぼ横一列に並ぶのだが、敷地は絶壁に近い斜面であり、大半の建物が懸造になっている。これまでブータンでみた中では最強の懸造であり、それは日本の懸造を彷彿とさせるものであった。
ここで重要なことを述べておく。ダカルパ(Drakharpa)というのは本寺の固有名称ではない。明日から登場するティンプー地区のゴンパ寺やチェリ寺を開山した赤帽子派(ドゥルク・カギュル派)の開祖、パジョ・ドルガム・シンポがパロ地区に開山した一連の瞑想場をダカルパと呼ぶ。標高約2500mの山肌にこういう山寺がたしかに点在している。それらはすべてダカルパと呼ばれる。ダグツォガンと同じく、14世紀の開山段階では瞑想場のみで、17世紀以降本堂等が建立された。日本語で表記する場合、ドラカルパとすべきかもしれない。ドラ(dra)はすでに何度も述べてきたように「崖」を意味する。実際にブータン人が話すのを耳にすると、訛っているのかこちらの聴力が劣化したのか分からないが、「ダカルパ」と聞こえる。



ダカルパはパロ地区の娑婆、じゃなかったシャバという村の上にある。村人は寺をゲムジャロ(Gemjalo)と呼ぶ。本来はゴムドラ(Gomdra)が正しい寺名であるという。やはり「崖(dra)」という言葉を含んでいる。
ラカンの下まで辿り着いたが、ご住職は不在だった。鍵を持ち歩いていらっしゃるので、訪問者は施設の中に入れない。しばらくして、ガイドの携帯に連絡が入った。ご住職は山道を登り始めたところだという。待つしかない。ユートとケントには何段か続く懸造の側面図を断面図風にスケッチし採寸するよう指示した。ここでポラロイドを最初に使ったような記憶がある。建物の側面を映し出すポラロイドを撮影して方眼紙に貼り付け、寸法を記載していくのだ。ポラロイドが有効な部分もあれば、鉛筆スケッチが有効な部分もある。それらを複合して作業を進めるように指示した。白帯には仮にベンチマークを設定するよう指示したが、すでに午後4時近くになっており、この日の測量は無理だろうという予想はしていた。


半時間ばかりして、ご住職が二人の子供を連れて帰宅された。さっそくラカン内部にご招待いただいた。規制は比較的緩く、仏壇側の撮影は許されないが、外に向かって飛び出す懸造の窓側ならば撮影してよいと言われた。ラカンの内部を撮影できるのは滅多にないことである。内部に入ってすぐに気がついた。仏壇側はくぼんだ岩陰状の地形がそのまま露出しており、人が住んだり、礼拝したりする部分は木造の高床建築になっている。われわれの用語を使わせていただくと、「岩陰+懸造複合型」の典型的な堂宇であることが一目瞭然だった。寡黙で優しいご住職はまもなく私たちにお茶をふるまわれた。ほんのりした甘みのある暖かいミルクティに一同疲れ切った心身を癒やされた。冗談ではなく、こんなに美味しい紅茶を飲んだことがない。高級喫茶店の高級茶ではない庶民的な味だが、茶の濃さとミルク・砂糖の量が絶妙のバランスでわたしたちの神経を平和な世界に導いてくれる。ミルクティに使う水は貴重品だ。寺の住人が麓から運び上げてくるものだと聞き、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。これ以上のおもてなしはない。


「今日の調査はもういい」とそのとき思った。がつがつ実測するのはやめて、この天空の城でのんびりご住職のお話に耳を傾けよう。それがいちばんだ。今のご住職は本寺に着任して1年しか経っていない。国から異動の通知があってここに赴任したのだという。2人の子供のことをうかがった。ブータンの一般僧は結婚できないはずなので、子供と暮らしていることを不思議に思ったのである。麓の小学校に通う姉と弟は、ご住職の姉のお子さんなのだという。お姉さんは東ブータンの田舎の村に住んでいる。小学校までは20キロばかりの距離があって、とても通うことができない。そんな事情から子供二人を預かることになった。住職は宙空にせり出した懸造の窓の外を指さした。小さな校舎とグラウンドが遠くにみえる。寺から麓までおりて、さらに半時間ばかり歩かないとその校舎には着かないだろう。それほどの距離である。片道1時間半近くかかるかもしれない。その道を子供たちは毎日歩いて通学している。そんなこと苦にもしていないように、屈託のない笑みを子供たちは浮かべている。

すでに日が暮れかかっている。山を下りるべき時間が迫ってきた。わたしは必ずこのダカルパに戻ってこようと決心した。後発隊が到着したら、12名全員でもういちどダカルパに上がり、ちゃんとした調査をしよう。調査だけでなく、正式に寄進をして、ミネラルウォーター1箱を奉納しよう。そう心に決めて帰途についた。ご住職と少女と少年は、下山してゆく私たちをいつまでも見守り続け、ときに手を振ってくれた。
わたし個人の感想にすぎないけれども、ダカルパは今回のブータン訪問でいちばん思い出深い場所になった。15日の再訪については、フミエさんが報告してくれることになっている。(教師A)
