中欧紀行(Ⅳ)


ツェツィリェンホフ宮殿とポツダム会談
プロイセン王国の支配者、ホーエンツォルレン家が普請した最後の離宮がポツダムにある。それはヴィルヘルム皇太子とツェツィリェ妃の住まいであった。豪壮な石造の城郭にはほど遠い別荘のような木造建築で、ご覧のとおり、イギリスのハーフティンバーをほぼ直写したものである。英国王女を祖母とする皇太子には濃厚な英国趣味があり、帝国建築委員会の提案した宮殿設計案を受け入れず、テューダ王朝風アーチ型門を備える英国カントリーハウスを所望した。設計者はパウル・シュルツ・ナウムブルク(1869-1949)。1913~17年の建築である。


ナウムブルグは建築の風土性や自然環境との融和を主張した建築家であり、プロイセンの法令「集落及び景観破壊禁止令」もナウムブルグの発言の影響のもとに1907年に発令されたという。1904~05年にヘルマン・ムテジウスが英国の山荘に関する著作を刊行したのを契機にして、当時のドイツでは、自然指向の英国住宅が脚光を集め始めた。ナウムブルグの設計案はノーマン・ショウがデザインした英国サセックス州のリーズウッド山荘(1868)に著しく似ているという。とはいえ、この建物は山荘ではなく、多くの人びとが集まる宮殿として機能しなければならなかったので、左右対称の配置を大きく崩し、会議場などの広大な部屋を確保した(↑右)。また、一部に石造の円塔を含む。これは、15世紀にフランケン地方の城伯として台頭したホーエンツォルレン家の歴史的なルーツを暗示させる。


↑壁板と打ち込み栓

↑船室を模した部屋。ル・コルブュジェ「船としての建築」との関係が気になる。


第一次大戦後、ホーエンツォルレン王朝一族は退位し、宮廷財産を没収されたが、皇太子一家は居住権を含む家屋敷の終生利用権を獲得した。しかし、第二次大戦終結直後、ソ連軍の占領を怖れて一家はこの地を逃れた。第二次大戦の戦勝国会談は、当初ベルリンでおこなわれる予定であったが、空爆によって廃墟と化しており、舞台はツェツィリェンホフ宮殿のあるポツダムに変更される。ポツダムはすでにソ連軍の支配下にあり、赤軍が会場の準備にあたった。四方を建物で囲まれた瀟洒なイングリッシュ・ガーデンの中央にジェラニウムの花を敷き詰め、「赤い星」を誇示している(↓)。


ポツダム会談は1945年7月17日~8月2日にツェツィリェンホフ宮殿で開催された。3国代表はスターリン、トルーマン、チャーチル。ただし、英国では7月26日に選挙がおこなわれて保守党が労働党に敗れたため、代表者(首相)がチャーチル(保守党首)からアトリー(労働党首)に代わる。いうまでもなく、ポツダム会談の結果が大戦後の冷戦体制の基盤となった。
ポツダム会談においてスターリンの存在感は他を圧していた。英国はすでに影響力を弱めており、チャーチルにして半人前、アトリーに至るとそのまた半人前の扱いだった。アメリカにしても、先代ルーズベルトはまだスターリンに互していたが、後継者のトルーマンは押されっぱなしで、強気の姿勢を強調するために、アメリカが原子爆弾を保有している事実をスターリンに伝える。そして、広島・長崎への原爆投下を決断したのはポツダム会談の最中であったと言われる。


↑会議室の円卓

↑会議室の天井 ↓同階段
