木彫仏、奈良へ

6月4日(木)に岩陰仏堂の木彫仏を梱包して下山し、以来、大学の修復建築スタジオで自然乾燥させてきた(↑)。そうこうしているうちに、今度は26日(火)、岩陰近くの草むらで新たな木彫仏の頭部が発見された。これもまた同じように、修復建築スタジオで自然乾燥させていた(↓)。
木彫仏を奈良の某研究所に運び込むため梱包したのは、7月4日(水)のこと。ここまでのメンテ、梱包については逐一仏教考古学の専門家S01さんに指導をうけた。
そして、昨日、ついに某研究所の年代学研究室へ。いろいろコメントをいただいたが、まだ伏せておかなければならない。サティアンと俗称される資料棟の周辺で旧同僚に何人か出会った。『摩尼寺「奥の院」遺跡』の報告書を配りまくり、お返しにいろいろ文献を頂戴した。みんな優しくしてくれるな。
昨年開催した「山林寺院」と「木綿街道」のシンポジウムの記録校正の依頼も無事終わった。

ところで、「奥の院」の仏像に新たな情報がもたらされている。郷土の民俗学者、田中新次郎の『因幡の摩尼寺』(鳥取県民俗研究会、1958:p.59)に摩尼寺の仏像に関する記載があることを鳥取市の歴史家S02さんから教えられたのだ。もとの資料は摩尼寺宝物帳であり、信ぴょう性は高いと判断される。当該部分を引用しておく。
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次の四点は鳥取市元魚町大谷文治郎所有に係わる廃寺ノ尊像ナルヲ明治二十九年五月遷座ス
一、地蔵菩薩 六体 丈一尺六寸
一、奥の院弘法大師 木僧 一尺厨子入
一、奥の院 虚空蔵菩薩 石立像 丈三尺
一、同 不動明王 同上(奥ノ院、通路三ヶ所)
一、西国三十三ヶ観世音菩薩 三十三体
以上四十
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ここに掲載された「虚空蔵菩薩」が岩陰仏堂上段の虚空蔵菩薩立像をさすのはほぼ間違いない。虚空蔵菩薩立像の背面には「文化六年 施主 大谷岐山」の銘が刻まれている。現境内から立岩に至る山径の側道に祀られる観世音菩薩像群にも背面に同様の銘を確認できる。これらの石仏等は大谷岐山が文化年間にまず「ある寺院」に寄進したのだろう。その「ある寺院」は廃寺になり、寄進した仏像は大谷家がいったん保管した上で、明治29年に大谷文治郎が摩尼寺に寄進したと推定できよう。ちなみに、大谷文次郎は「塩屋」という鳥取の商家で、町年寄筆頭という城下町を代表する大町人だったという。

上の諸仏のうち、とくに注目したいのは「弘法大師 木僧 一尺厨子入」であり、6月28日(木)に探索した岩陰上段のホコラがこの「厨子」にあたる可能性が高いだろう。弘法大師は、現境内から少し上がった山中の六角堂に祀られており、同様の六角堂は『因幡民談記』(1688)では別の場所に描かれている。天台宗(というよりも比叡山?)の天敵とも云うべき弘法大師を祀る円堂について疑問に思っていたのだが、『因幡の摩尼寺』p.59上段に以下の記載を発見した。
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一、三祖堂本尊伝教大師 座像 丈二尺九寸
一、左脇慈覚大師 丈一尺五寸
一、右脇弘法大師 丈一尺五寸
由緒 当堂ハ享保三戌年五月当時住持義蹄和尚安置ナリ、
弘法大師往昔真言宗ニ所縁アルニ依テ安置スルモノナラン
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享保三年(1719)は悩ましい年代だ。おそらく境内はまだ「奥の院」にあったはずで、三祖堂もそこにあったと思われるが確証はない。摩尼寺が古くから真言宗と縁深い寺院であることを示唆する重要な一文と云えよう。
さて、今回、某研究所年代学研究室に運び込んだ木彫仏(↓)は上の目録に含まれていない。明治29年に40体の石仏等が寄進された際には、すでに岩陰に存在した可能性が高いと今は信じておきたい。

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一、三祖堂本尊伝教大師 座像 丈二尺九寸
一、左脇慈覚大師 丈一尺五寸
一、右脇弘法大師 丈一尺五寸
由緒 当堂ハ享保三戌年五月当時住持義蹄和尚安置ナリ、
弘法大師往昔真言宗ニ所縁アルニ依テ安置スルモノナラン
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享保三年(1719)は悩ましい年代だ。おそらく境内はまだ「奥の院」にあったはずで、三祖堂もそこにあったと思われるが確証はない。摩尼寺が古くから真言宗と縁深い寺院であることを示唆する重要な一文と云えよう。
さて、今回、某研究所年代学研究室に運び込んだ木彫仏(↓)は上の目録に含まれていない。明治29年に40体の石仏等が寄進された際には、すでに岩陰に存在した可能性が高いと今は信じておきたい。
