【講演記録】倉吉の町家と町並み(3)
4.倉吉の町家と町並み【続】
(2)古写真にみる茅葺き民家の町並み
茅葺き民家の問題を写真記録からも検討してみましょう。平成7年(1995)年に建設省中国地方建設局倉吉工事事務所が刊行した『天神川の流れとともに』には明治~戦前の町並みが数多く掲載されています。図18は明治26年水害時の鍛冶町2丁目です。八橋往来の西のはずれの方にあたり、古写真に写る建物は中野家や赤嶋家と同じ寄棟造妻入の茅葺き民家が軒を連ねています。
図19は明治26年の河原町です。八橋往来の西端ですね。寄棟造妻入の茅葺き民家と平入の瓦葺き町家が混在していますが、やはり茅葺きの方が多くみえます。思うに、最初から茅葺きと瓦葺きが混在していたというよりも、茅葺きの民家が次第に瓦葺きの町家に変わっていくプロセスを示しているのではないでしょうか。
もう一つ注目してほしいのは、茅葺き民家に瓦葺きの下屋(庇)がついていることです。わたしは江戸時代の倉吉の町家は茅葺きが多かったのだろうと思っているのですが、一部の考古学者から「発掘調査で瓦が出土する」と反論されたことがあります。そりゃ出土するでしょう。しかし、瓦が出るからといって屋根全面が瓦葺きだったとは限りませんね。こういうふうに上屋は茅葺きで、下屋(庇)が瓦葺きなら、軒先から瓦が落ちてきますから、瓦が出土してもなんらおかしくないわけです。
図20も昭和26年水害時の写真で、東岩倉町の町並みを写しています。山陰民具や小倉家住宅があるあたりです。切妻平入茅葺き民家の数は少なく、瓦葺き平家平入の町家の数が多くみえます。平入の低い屋根に覆われた町家が非常に多く、前者から後者への移行・転換を示唆する資料だと思っています。この場合、全面的な建て替えというよりも、茅葺きの屋根が瓦葺きに改装されたのでしょうね。
図21は昭和9年水害時の堺町です。米澤のタイ焼き屋さんがある東側の方になりますね。
ほとんどすべてが高2階型の町家になっています。茅葺きはみえません。そういう昭和9年の状況から考えてみると、おそらく明治中期から昭和戦前にかけての時期に、町家は茅葺き民家型から瓦葺き2階建て型に少しずつ変わっていったのでしょう。繰り返しますが、これは明治中期以降の変化です。それ以前に瓦葺きの町家がなかったとは言いませんが、茅葺きが多かったのではないかなと推定しています。

(2)古写真にみる茅葺き民家の町並み
茅葺き民家の問題を写真記録からも検討してみましょう。平成7年(1995)年に建設省中国地方建設局倉吉工事事務所が刊行した『天神川の流れとともに』には明治~戦前の町並みが数多く掲載されています。図18は明治26年水害時の鍛冶町2丁目です。八橋往来の西のはずれの方にあたり、古写真に写る建物は中野家や赤嶋家と同じ寄棟造妻入の茅葺き民家が軒を連ねています。
図19は明治26年の河原町です。八橋往来の西端ですね。寄棟造妻入の茅葺き民家と平入の瓦葺き町家が混在していますが、やはり茅葺きの方が多くみえます。思うに、最初から茅葺きと瓦葺きが混在していたというよりも、茅葺きの民家が次第に瓦葺きの町家に変わっていくプロセスを示しているのではないでしょうか。
もう一つ注目してほしいのは、茅葺き民家に瓦葺きの下屋(庇)がついていることです。わたしは江戸時代の倉吉の町家は茅葺きが多かったのだろうと思っているのですが、一部の考古学者から「発掘調査で瓦が出土する」と反論されたことがあります。そりゃ出土するでしょう。しかし、瓦が出るからといって屋根全面が瓦葺きだったとは限りませんね。こういうふうに上屋は茅葺きで、下屋(庇)が瓦葺きなら、軒先から瓦が落ちてきますから、瓦が出土してもなんらおかしくないわけです。
図20も昭和26年水害時の写真で、東岩倉町の町並みを写しています。山陰民具や小倉家住宅があるあたりです。切妻平入茅葺き民家の数は少なく、瓦葺き平家平入の町家の数が多くみえます。平入の低い屋根に覆われた町家が非常に多く、前者から後者への移行・転換を示唆する資料だと思っています。この場合、全面的な建て替えというよりも、茅葺きの屋根が瓦葺きに改装されたのでしょうね。
図21は昭和9年水害時の堺町です。米澤のタイ焼き屋さんがある東側の方になりますね。
ほとんどすべてが高2階型の町家になっています。茅葺きはみえません。そういう昭和9年の状況から考えてみると、おそらく明治中期から昭和戦前にかけての時期に、町家は茅葺き民家型から瓦葺き2階建て型に少しずつ変わっていったのでしょう。繰り返しますが、これは明治中期以降の変化です。それ以前に瓦葺きの町家がなかったとは言いませんが、茅葺きが多かったのではないかなと推定しています。

(4)長谷寺絵馬にみる倉吉の町並み
これと関連して長谷寺の絵馬を紹介しておきます。図22は天保五年(1834)に長谷寺本堂の修理を記念して奉納された「長谷寺と倉吉町俯瞰図」絵馬を線画にしたものです。屋根に縦線をひくものと真っ白なものに分かれています。これが葺き材を表現しているとは必ずしもいえないかもしれませんが、縦線が瓦葺き屋根の可能性があると思っています。
縦線が引いてあるものは寺院とか武家屋敷の門とか、陣屋を含んでいます。当時の武家屋敷も主屋は茅葺きだったと私は思っています。津山とか九州で茅葺きの武家屋敷をみたことがありますが、道に面する長屋門は瓦葺きにしています。ですから、「長谷寺と倉吉町俯瞰図」絵馬の建物で縦線のない白い屋根は茅葺きではないか、と推測しているのです。ひとつ参考になるのは洛中洛外図屏風でして、桃山時代から江戸時代前期の京都の町家は瓦葺きの町家ではありません。石置き杉皮葺きです。
(3)町並みの歴史性と茅葺き民家の文化財価値
以上をご承知いただいて、一回まとめをしておきます。いま私たちが目にしている倉吉の町並みは江戸時代の景観的要素をさほど含んでいません。大半が明治中期以降の建物群であるということです。最古の町家は18世紀中期までさかのぼりますが、それらも幕末以降に改造されています。淀屋(牧田家住宅)も天保年間に改造されていますし、山陰民具も明治初期に改造されています。小川酒造に代表される造酒屋などの大型町家も幕末から明治中期の建築ばかりで、いわゆる近代化遺産のカテゴリーに属します。むしろ江戸時代の景観を残すのは茅葺き民家ではないかと考えるのが妥当であり、市街地に点在する茅葺き民家は歴史的にみて非常な重要な意味をもつのでしっかり保存対策を講じなければなりません。
(4)町家の年代を知る方法
倉吉の場合、町家の年代判定は比較的容易です。まず高さを見てください。高い町家は新しいんです。とくに2階が高い町家は新しいと思ってください。大正~昭和戦前ですね。次に軒下の腕木の形に注目してください(図23)。古い腕木は丸みをおびた曲線をしていて、渦も丸く彫り込んでいます。こういうものは大体明治中期ぐらいまででございます。大正になってくると直線形になっていきます(図24)。建物の高さをみて、軒下をみる。それで、おおよその年代は判定できます。
これと関連して長谷寺の絵馬を紹介しておきます。図22は天保五年(1834)に長谷寺本堂の修理を記念して奉納された「長谷寺と倉吉町俯瞰図」絵馬を線画にしたものです。屋根に縦線をひくものと真っ白なものに分かれています。これが葺き材を表現しているとは必ずしもいえないかもしれませんが、縦線が瓦葺き屋根の可能性があると思っています。
縦線が引いてあるものは寺院とか武家屋敷の門とか、陣屋を含んでいます。当時の武家屋敷も主屋は茅葺きだったと私は思っています。津山とか九州で茅葺きの武家屋敷をみたことがありますが、道に面する長屋門は瓦葺きにしています。ですから、「長谷寺と倉吉町俯瞰図」絵馬の建物で縦線のない白い屋根は茅葺きではないか、と推測しているのです。ひとつ参考になるのは洛中洛外図屏風でして、桃山時代から江戸時代前期の京都の町家は瓦葺きの町家ではありません。石置き杉皮葺きです。
(3)町並みの歴史性と茅葺き民家の文化財価値
以上をご承知いただいて、一回まとめをしておきます。いま私たちが目にしている倉吉の町並みは江戸時代の景観的要素をさほど含んでいません。大半が明治中期以降の建物群であるということです。最古の町家は18世紀中期までさかのぼりますが、それらも幕末以降に改造されています。淀屋(牧田家住宅)も天保年間に改造されていますし、山陰民具も明治初期に改造されています。小川酒造に代表される造酒屋などの大型町家も幕末から明治中期の建築ばかりで、いわゆる近代化遺産のカテゴリーに属します。むしろ江戸時代の景観を残すのは茅葺き民家ではないかと考えるのが妥当であり、市街地に点在する茅葺き民家は歴史的にみて非常な重要な意味をもつのでしっかり保存対策を講じなければなりません。
(4)町家の年代を知る方法
倉吉の場合、町家の年代判定は比較的容易です。まず高さを見てください。高い町家は新しいんです。とくに2階が高い町家は新しいと思ってください。大正~昭和戦前ですね。次に軒下の腕木の形に注目してください(図23)。古い腕木は丸みをおびた曲線をしていて、渦も丸く彫り込んでいます。こういうものは大体明治中期ぐらいまででございます。大正になってくると直線形になっていきます(図24)。建物の高さをみて、軒下をみる。それで、おおよその年代は判定できます。