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【講演記録】倉吉の町家と町並み(5)

5.ふるきかぜ あたらしきかぜ 【続】

 (4)アーケードと看板建築の相関性
 いま「看板建築」という言葉を使いましたけれども、「パラペット建築」と言ったほうがいいという意見があります。わたしはその意見に反対しています。パラペットとは、防水のために屋根の際に設置される低い壁のことですから、町家の2階を覆う箱物とは違いますね。「パラペット建築」というのは学術的におかしな用語だと思うのです。わたしは京都大学にいた20代のころから先生の教えに従って「看板建築」という用語をごくふつうに使っています。少なくとも京都ではそうなんだと信じています。
 図28は本町通り商店街にあった看板建築です。軒まで全面を看板で覆われた建物(B型)が36棟、一部を看板で覆った建物(A型)が10棟でした。アーケード街からみると、これらの建物はとても近代的にみえます。コンクリート構造の建物のようですね。而して実態は、町家なんですね。町家が仮面を被っているだけ。看板建築とはそういうものです。こういう建物がアーケード内にばぁっとひろがって横の繋がりをみせる。
 図29はかなり広い範囲で看板建築の分布を調べた成果です。赤色がB型、緑色がA型です。本町通商店街のアーケードと看板建築との相関性は非常に強い。もう一箇所集中的に分布する車通り場所がありますね。これは国道沿いの商店街です。
 この分布図をみて、町並みの質が落ちていると落胆する必要はありません。看板建築は宝物です。歴史的町並み景観にとって負の遺産だと思われがちな看板建築は、町家が仮面を被っただけのものだからです。一皮めくれば町家に戻る。看板建築のおかげで、町並みは本来の歴史性を恢復できるのです。

 (5)看板建築の素顔
 看板建築の実態をもう少し具体的にお話ししましょう。いま修理が進んでいる桝井陶器店を例にとります(図30)。図30左の写真は桝井陶器店ではありません。桝井陶器店と同年代(大正末)の町家のイメージ映像です。右はアーケードが架かっているころの桝井陶器店の写真です。下は町家とアーケードの関係を立面図で示したものです。アーケードと接する部分だけ改造されていることがよく分かります。
 桝井陶器店は大正末の建物で、裏側のひろい範囲に町家が残っていますね。正面にアーケードがあって、アーケードに接するように箱物を立ち上げています。この箱物を塗装して鉄筋コンクリート風にみせているわけです。内実は、ただの板です。この箱物=看板をめくると、町家の2階の意匠があらわれます。箱物=看板があると景観的にはネガティブですが、これさえなくなれば、当初の町家2階の意匠が顔を出す。だから、「宝の山」と書いたわけです。


2013倉吉の町家と町並み01配布資料_06


 図31はその仕組みを図面で示したものです。表からみると鉄筋コンクリート風ですが、断面図に示すように、2階に箱物がついて、1階はアルミサッシに変わっています。この箱物を「看板」と呼んでいるわけですけれども、それをめくったら、2階にきれいな町家の意匠が残っている。図31の中央上が桝井陶器店の2階の当初の正面図です。その下は柴田履物店さんの2階です。この窓は近代の数寄屋のデザインですね。
 学生諸君が、2006年度の卒業研究で桝井陶器店の「復原的修景」に挑んでくれました。その方法を段階的に説明しましょう。図32は看板建築の現状です。ここから2階の看板=箱物を外すと、大正末期のスタイルの町家の2階があらわれます(図33)。ここでは1階がまだアルミサッシのままですね。そのアルミサッシは大正末ころのデザインの建具と替えてしまいます。図34では、津田茶舗の建具を拝借しました。桝井陶器店は、看板を外し、津田茶舗の建具を導入することで、ほとんど当初の町家の姿を取り戻すのです。わたしたちは、こういう修景の方法を2006年度に提案し、そのアイデアがいままさに現地で実践されているわけです。桝井陶器店の同じような看板建築は本町通り商店街に30軒以上あります(図35)。いま示した方法を応用すれば、それらすべての建物が当初の町家の姿を恢復します。近代的なアーケード商店街が「歴史の町並み」に早変わりです。

 (6)幻想の昭和レトロ・ブロック
 アーケードを撤去して看板建築を復原的に修景する。国の町並み保存地区にとってはもちろん重要なこと、必要不可欠なことだと思います。このときに、わたしたちはどういう立場でいたか。基本的に倉吉市教育委員会を支持していました。シャッター通りと化している商店街を活性化するためには重要伝統的建造物保存地区に組み込まれることが望ましい。それはもちろん分かっていたのですが、いろいろ調べているうちに、アーケードを全部撤去しないほうがいいのではないかと思い始めました。ごく短いスパンを部分的に残しておくほうが得策ではないか。
 なぜかというと、アーケードの内側に昭和戦後の要素がいっぱい詰まっていたからです。それらはネガティブな要素と決めつけるには、あまりに懐かしいものが多すぎる。10メートルでも20メートルの範囲でもいいから、重伝建ゾーンとともに昭和レトロゾーンを確保しておけないか(図36)、と考えたのです。全部が全部復原的な方向にむかうのではなくて、いろんな時代が織り重なった「歴史の重層性」を表現したい。そのためには、昭和戦後の要素も必要だろう、という考えかたです。しかし実際には、そういう提案がたやすく受け入れられるわけありませんから、ご存じのように、アーケードは全部取り払われました。
 その後2010年に、谷口ジロー『遙かな町へ』の風景分析に取り組むのですが、竹内君という学生が卒業製作で昭和レトロ・ブロックの設計に取り組みました。すでにアーケードはなくなっているのですが、あえて構造補強した短いアーケードを再建して、その内側に昭和テイストのタイ焼き屋とか駄菓子屋とか映画館などを集中させてみせるのです。図37はそのときの模型とCGです。

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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